極楽はどこだ②
緋村たちの会話も、いつの間にか再開されていたようだ。
「ところで、『黒い波』の中では、幾つか震災関連の犯罪についても言及されてましたよね? 特に、窃盗や強盗紛いの事件は多かったようですが」
「そうですね。実際、取材中にその現場に居合わせることもありましたよ。中には、わざわざ他県から出張って来て、金目の物を物色するような輩もいたようです。しかも、明らかに中高生と言った少年少女たちが」
「それは酷いですね。当時中高生ってことは、俺たちと同世代か」
「まあ、被災者が止むを得ず食料や日用品を奪取する、と言うケースも多かったみたいですけどね。そう言った事件については、犯罪には違いないが、状況が状況なだけに仕方がないと、警察も目を瞑っていたらしいです。──そもそも、そこに人員を割く余裕がなかった、と言うのもあるでしょうが」
元来話好きなのか、ノンフィクション作家は弁舌滑らかだ。
「そうそう、中には変わった物が盗られる事件もありましたよ。例えば、岩手県のとある老舗旅館では、DVDが盗まれたんだとか」
「DVD、ですか」
聞くともなしに二人の会話を聞きつつ、冷製スープを口に運ぶ。するとそこで誰かの視線を感じ、反射的にそちらに目を向けた。
と、同時に、隣りのテーブルの隅に座っていた日々瀬が顔を俯ける。どうやら、彼女は僕──ではなく、石毛さんたちの方を見ていたらしい。
でも、いったい何故?
なんとなく気になり、しばらく盗み見ていると、今度は彼女の向かい側に座った山風の様子がおかしいことに気付く。こちらに背を向けている為、当然その表情はわからない──が、どことなく元気がないようだった。華奢な両肩を落としており、食事もあまり進んでいないらしい。一回生女子二人は、いったいどうしたのだろう?
「そう言えば」と、須和子さんが思い出したように口を開く。「先ほど仰っていたのって、『方丈記』の冒頭ですよね?」
「珍しく文芸らしいこと言いますねぇ、姐さん」
揶揄うような口調で、木原さんが合いの手を入れた。
「『珍しく』は余計や。言うとくけど、うちのバンドで一番まじめに学科行っとるの、うちやからな」
「あら、それは失礼しました。──で、何でしたっけ? 『方丈記』がどうかしたんですか?」
「別に、ふと思い出しただけや。『方丈記』は単なる随筆やなくて、災害に関する記録もたくさん出て来るんやったなぁって。大火やら竜巻やら、大地震やら」
そう言えば、高校の時の古典の授業で、そんな話を聞いた気がする。鴨長明による随筆『方丈記』は「無常観の文学」として有名だ。そして、その中には、安元三年から元暦二年にかけて、筆者自身が経験したと思しき災害に関する記述が随所に見られるのだとか。主な物としては、「安元の大火」「治承の竜巻」「養和の飢饉」、そして「元暦の地震」である。
「大地震──昔から、日本は災害が多いんやな。毎年台風は来るし。特に、今年はこっちでもデカい地震や、西日本豪雨もあったか」
佐古さんが独白する。無論、「デカい地震」は大阪北部地震を、「西日本豪雨」は気象庁が平成三十年七月豪雨と命名した、大規模水害のことを指すのだろう。最大震度六弱を記録した大阪北部地震からは二ヶ月、豪雨からはまだ一ヶ月ほどしか経過しておらず、特に後者は今尚被災地に大きな爪痕を残していた。
そこに加え、つい二、三日前にも台風二十号が西日本に襲来したばかりだ。さらに言えば、この合宿を終えた後──九月四日頃には、超巨大台風である台風二十一号が勢力を保ったまま上陸し、猛威を振るうことになる。
そしてその二日後、同月六日には、最大震度七を記録した北海道胆振東部地震が発生。大規模な土砂崩れや北海道全域に亘る停電──歴史上初となるブラックアウト──等、甚大な被害をもたらした。
平成最後の一年は、もしかしたら最も災害が頻発した年になってしまうのではなかろうか……。
「確かに、よくよく考えてみると、特に住みやすい土地柄ってわけやないですね」部長の呟きを拾ったのは、湯本だった。「その点、ヨーロッパなんかは地震が起きないって聞いたことありますけど」
「起きないと言うのは少し違いますね。起きてはいるんですけど、規模が小さい場合がほとんどなんですよ」
教えてくれたのは、もちろんノンフィクション作家だ。
「それに、今は大きな地震が少なくても、過去には甚大な被害を受けたことがある、と言う国もあるそうです。──何より、向こうの方は、テロが怖いでしょう? フランスなんかは特に、近年執拗に狙われとりましたし」
「もしかして、次はテロ事件のルポを書かれる予定とか?」
「ええ、そのつもりです。実はもう、取材も済ませてあるんですよ。今回ここに泊まったのも、執筆に専念する為なんです。外界との繋がりを絶って、謂わば山籠りのようなモンですね」
会話の中心が、再び緋村と石毛さんに戻って来た──ところで、僕はまたしても誰かの視線に気が付いた。それはやはり、隣りのテーブルから向けられているようだ。
さりげなくそちらを見やると、視線の主は、日々瀬の横に座る畔上だった。
彼が何を見ているのかはすぐにわかったし、今回は「何故?」とはならない。
口数の少ない新入部員が盗み見ているのは、明らかに須和子さんだったから。
※
窓を打つ雨音は激しさを増し、外の天気は見る間に荒れて行った。オマケに気温もめっきり低くなり、半袖では少し肌寒く感じられるほどだ。
そんなわけで、みんながパーカーやらシャツやらを羽織り出したのを見た僕は、自分も部屋に戻り、薄手のカーディガンに袖を通すことにする。
それからすぐに廊下に出て、少し迷ってから一応ドアに鍵をかけた。盗られて困る物もないし、手グセの悪い人間がここにいるとも思っていないが。
鍵をジーンズのポケットにしまい、僕は宴の会場である食堂へと向かいかけた──
その時。
何やら口論するような声が、廊下の奥──厨房の方から聞こえて来る。
驚いた僕は、思わず足を止めた。
「あれやったら、私が捨てました」
「捨てた? どうしてそんな勝手なこと」
「勝手なんは兄さんの方やろ⁉︎ あないな物用意しとるなんて! ──少しは心配する方の身にもなってえや!」
──言い争っているのは、順一さんと弥生さんのようだった。
「とにかく、お願いだからアホなことは考えんといて! 兄さんは、キヨカちゃんたちの分も生きてかなあかんのやから──」
そこから先は嗚咽が混じり、言葉になっていなかった。
僕はその場から離れ、今度こそ食堂に向かった。