バビロン天使の詩②
練習が終わり、外の喫煙所で一服しながら駄弁った後──僕以外の五人はみな喫煙者だった──、これから別の練習が入っていると言う湯本と佐古さんと別れ、僕たちは取り敢えず母屋へと戻った。
ロビーに入ると、山風が一人きりで突っ立っていた。どう言うわけか、ホテルにあるようなカウンター──この宿舎唯一の電話機が置かれている──の向こう壁を、茫然と見上げているのだ。
──彼女の視線の先には、額縁に入れられた一葉の写真が。
「ミクちゃん? 何見とるん?」
「──えっ」
須和子さんが声をかけた瞬間、彼女は小さく悲鳴を上げるようにして、こちらを振り返った。そして、その顔にはハッキリと驚愕の表情が浮かんでいる。まるで、見られたくない物を見られてしまったと言った風に。
「いや、あの──き、綺麗な写真だなぁって、見惚れとったんです」
取り繕うように、ぎこちない笑顔を拵える。
不思議に感じながら、僕は改めて、彼女が眺めていた物に目を投じた。
──それは、確かに綺麗な写真だった。大輪の白薔薇たちが咲く下に、同じく白いワンピースを着た艶やかな黒髪の少女が、椅子に腰かけ微笑んでいる。まるで白薔薇の妖精のように。
そこは《マリアージュうたかた》のあの花壇の前らしい。構図自体はやや平凡かも知れないが──全体的に調和が取れていた。全てのピースが寸分の狂いもなく嵌っている、とでも言えばいいのか。
「あら、確かに素敵な写真ねぇ。ここの庭で撮ったみたいだけど、写ってるのは誰なのかしら」と、頬に手を当てながら、木原さんが首を傾げる。
彼の問いに答えたのは──食堂の方から現れた、弥生さんだった。
「私の姪──つまり、兄の娘です」
「順一さんの?」と、これは緋村。
「ええ、兄に似ず可愛らしいでしょう? キヨカちゃんって言って、明るくて優しくて、とってもええ娘でした」
過去形なのが気になった。もしかして、その人はもう──
弥生さんは、それ以上その話を続けようとはしなった。
「練習室はどうでしたか? 機材や冷房には問題ございませんでした?」
「あ、はい、特には……」
「でしたらよかったです。何度か改装はしてはおりますが、中はほとんど古いままですから。──その他のことでも、もし何か不都合がございましたら、遠慮なくお申し付けくださいね」
──結局、写真の話はそれで終わり、僕らは各々自由な時間を過ごした。あの時の山風の反応や、キヨカさんのことなど気になりはしたが、すぐに忘れ、僕は合宿所での午後をそれなりに満喫した。
──やがて、夕食の支度を手伝う時間になり、弥生さんに順一さんを呼んで来るよう頼まれた僕は、母屋から表に出た。
順一さんは、すぐに見付かった。
高く背を伸ばした白薔薇の女王たちの前に、一人で佇んでいる。
また、その傍らには屋根に上るのにも使えそうなほど大きなアルミ製の脚立が。薔薇の世話でもしていたのだろうか。
「あの、順一さん。弥生さんが呼んで──」
話しかけようとした側から、ハッと声を呑み込んでしまった。
こちらに背を向けた彼が、刃が剥き出しのナイフを握ったまま、薔薇を踏み潰していることに気付いたのだ。
「……ん? どうかなさいましたか?」
数拍置いて振り返った順一さんは、これまでと変わらない柔和な表情をしていた。しかし、やはりその足元にある物が気になる。自分で助け、その上返り咲きまでさせた「薔薇の遺児」たちを、何故踏み躙っていたのか……。
「いや、あの、もうすぐ夕食の準備をするので、弥生さんに呼んで来るようにと言われて……」
「ああ、もうそんな時間か。すみません、すぐに行きます」
そう答えると、順一さんはナイフを折り畳み、シャツの胸ポケットにしまった。それから、しゃがみ込んで、潰れた花を摘み上げる。
「あの……」
「ん──ああ、これですか」僕の視線に気付いたらしい。「いつの間にか病気になってたみたいで、処分しているところだったんですよ。スッカリ花びらがやられてしまっていて……いやぁ、どうしていつも、気付いた時には手遅れなんですかねぇ」
「はあ……」
「そう言えば、ご存知ですか若庭さん。自然界には、『白』と言う色素は存在しないそうですよ。我々が自然の中で認識する『白』は、光の乱反射でしかないんです。謂わば、『白』は色のない色とも言えるわけですね」
──色のない色。
その言葉を聞いた瞬間、それまで鮮やかに陽光を浴びていた白薔薇たちから、いっぺんに色彩が失せたように感じられた。花だけではなく、瑞々しかったはずの茎や葉までもが、モノクロに変わってしまったかのような──
実際は、陽の光が遮られたが為にそう見えただけだ。
夏の陽が沈むには、まだ早い──が、雲が出て来た。




