バビロン天使の詩①
その後、十二時半頃には、食堂にて昼食を摂る運びとなった。僕と緋村もサークルメンバーに混じってテーブルに付き、その間の給仕は順一さんと弥生さんが引き受けてくれた。《マリアージュうたかた》は先代から創作フランス料理がウリらしく、合宿に来た学生相手に出すにはもったいないのでは? と思えるほど本格的なランチだった。普段ロクなモノを食べていない身としては、何よりもありがたいことである。
「明日の昼には、ジビエ料理が出るらしいな。確かリエーヴルだっけ?」
隣りに座った緋村が、思い出したように言った。確かに、先ほど配膳を手伝った際に、そう聞いていた。
すると、斜め向かいの須和子さんが会話に加わる。
「そうそう、毎年出してもらってるんや。野趣溢れる味なんやけど、それがまたクセになんねん」
「へえ、美味しそうですね。──けど、リエーヴルって何の肉なんですか?」と、これは僕。
「野ウサギや。──最初は可哀想やなって思うんやけど、食べたらめっちゃ美味しくて、すぐに気にならんくなったわ。赤ワインで煮込んだ後、ウサギの血を混ぜてあるそうなんやけど、これがまたうまいねん。ま、見た目は、割とリアルな血の色やけど……」
「ああ、シヴェって奴ですね」と、緋村が相槌を打つ。彼曰く、シヴェには野ウサギを用いるのが一般的だが、中世においては必ずしもそうとは限らず、血をソースに混ぜるようになったのは二十世紀になってから──と、またしても唐突に饒舌のスイッチが入った。
彼の話によると、動物の血を加工した食品や料理と言うのは、世界的に見れば割と多いらしい。動物の血も棄てるだけではなく、意外な使い道があるものだ。
──そんなわけで腹拵えを終えた後、《GIGS》の面々は各々練習の予定を組んだり、宿舎内で楽器を弾いたりと、音楽サークルらしく過ごしている模様だった。
では、幽霊部員の僕は何をしていたかと言うと──庭でせっせと、薪割りに勤しんでいた。なんでも、キャンプファイヤーに使うのだとか。
「すみませんね、力仕事をお任せしちゃって。普段は兄と二人だけですから、男手があるととても助かります」
まだ切れていない薪の材料を手押し車に乗せて運んで来た弥生さんが、労ってくれた。小柄で福々しい彼女には、やはり「優しいお母さん」と言うワードがピッタリに思える。
ちなみに、経営者の二人は普段からこの合宿所で暮らしているわけではなく、主に夏と冬の合宿シーズンにのみ、ここまで上って来て客を迎える準備をするらしい。携帯電話すら通じない山の上なのだから、当然と言えば当然だが。
「いえ、そんな。──順一さんは、最後のお客さんを迎えに行っているんでしたっけ?」
斧を握っていた両手を止め、尋ねる。
「ええ、そうです。常連の方なんですよ。ただ、夏に泊まりに来られるのは珍しいんですけどね」
「普段は違うんですか?」
と、首にかけたタオルで汗を拭いつつ、緋村が尋ねた。斧は二本あり、二人での作業の為、存外すぐに終わりそうだ。
「はい、だいたい秋か冬にお見えになります。──なんて、堅苦しい言い方してますけど、その人、私や兄とは幼馴染なんですよ。この辺りの出身で、まあ、謂わば腐れ縁って奴ですね」
そこまで言ってから、「どうでもいいこと喋ってますね。すみません」と弥生さんは照れたように笑う。
「では、私は厨房におります。終わったら、割った薪はこの手押し車の中に入れておいてください。斧も、そのまま邪魔にならないところに置いてくださって結構ですから。兄が帰って来たら片付けさせますので」
そんな風に指示をすると、彼女は宿舎内へと戻って行った。
──それから、四十分ほどで木樵仕事が終わった。先ほど言われたとおりにしてから、緋村の煙草に付き合わされて、庭先の喫煙所に向かう。
すると、母屋から須和子さんと、彼女のバンドメンバーたちが現れた。
「お疲れ〜。この後って、しばらく何もないん?」
「はい、夕食の準備までは、自由にしてていいって言われてます」
「せやったら、練習見に来うへん? うちら、今から練習室入んねん。ミニライブって言うほどのもんでもないけど、せっかくやし生の演奏観てもらうのもええかなって。──もちろん、よかったら緋村くんも」
この申し出に、答えに迷った僕は緋村の方を見た。
すると、意外にも彼はすぐに目顔で頷く。
「わかりました、ぜひ見学させてもらいます」
「よしよし。さっそく一緒に行こか。うちらが練習室一番乗りやな」
嬉しそうに頷き、先輩は踵を返す。取り出したばかりの煙草をしまう緋村と共に、僕も彼らの後に続いた。
※
そんなわけで、僕たち六人は練習室に移動していた。この人数だと、さすがに狭い。
練習室は母屋から五メートルほど離れた場所に建つ別棟の中にあった。母屋と、屋外の喫煙所とは、潰れた三角形を作るような位置に建っている。
別棟内に入ると、短い廊下がまっすぐ伸びており、その突き当たりと庭側に、計三つの部屋があった。突き当たりの部屋と、廊下に面した奥側の一室が練習室、そして一番手前のドアが物置らしい。先ほど薪割りに使った道具なども、そこから取り出した物だ。
僕たちは突き当たり──「練習室1」と書かれたドアの前で靴を脱ぐ。
室内にはアンプやスピーカー、マイクスタンドとマイク、シールド類、それからドラムセットが配置されており、中に上がると、独特の香り──決して嫌な匂いではない──が仄かに感じられた。
「コピーから先にやります?」
と、ドラムスローンに座った木原さんが、須和子さんに尋ねる。真っ赤なボディにレーシングストライプの入ったギター──ムスタングを構えた彼女は、「せやね」と頷いた。
ちなみに、他のメンバーはギターヴォーカルが佐古先輩、ベースが湯本となっている。
「じゃあ、始めよか」
準備が整い練習が開始される──その間際、フロントマンの佐古さんは、まるでライブ本番のように、曲名を宣言した。
「“バビロン天使の詩”」
──こうしてコピー曲を何度か通した後、今度はオリジナルを披露してくれた。やはり練習風景と言うよりも、ちょっとしたライブを見ている気分だ。
中でも例のPVの曲──“Brute Fact”は、元から気に入っていたこともあり、素直に感動できた。気迫が伝わって来るようで、ゾクゾクと鳥肌が立つのを感じたほど。
──やがて、一通り演奏が終了し、二人だけのオーディエンスは自然と拍手を送る。
「──と、まあ、一応こんな感じでいつもやっとるわけですわ。……自分で誘っといてアレやけど、ちよっと気恥ずかしいな」
「迫力があって、とても格好よかったです。──ところで、バンド名は何と言うんですか?」
緋村の問いに、佐古さんがザラ付いた渋い声で答える。
「Mike the Headless」
「首なしマイク──ああ、もしかして、首なし鶏の?」
首なし鶏? 「Mike」って、鶏だったの?
「ああ。実在したアメリカの雄鶏だよ。『Mike the Headless Chicken』の名のとおり、マイクは首をちょん切られたにもかかわらず、十八ヶ月も生存したことで有名になった。──しかも、マイクはただ生き延びただけじゃない。なんと、首を刎ねられる前と同じように歩き、餌を啄ばむ動作や羽繕いまでできたんだ。これはどうも、奇跡的に脳幹と片耳の大部分が残っていたのが理由らしい。
また、絶命しなかったのは、血が凝固して、うまいこと頸動脈に蓋をしたからだ──と、専門家は結論付けたそうだ」
その後、一九四七年の三月に餌を喉に詰まらせて死ぬまでの間、マイクの飼い主は彼を見世物にして金儲けを続けたと言う。ちなみに、餌や水はスポイトを使い、直接首から摂取させていたらしい。興行の成功もあり、首なし鶏は衰弱するどころか、以前よりも体重が六ポンド近く増えたと言うから驚きである。
──緋村が一通り講釈を終えると、それまでマイペースにアンプのツマミを弄っていた佐古さんが、
「らしいな。名付け親は、バンドの発起人でもある須和子さんや」
「まあ、語感で付けただけやけどな。──さて、もっかい通したら休憩しよか。二人は適当なところで出てってもらってもええし、このまま見とってくれてもええからね」
とのことなので、お言葉に甘えさせてもらい、観客役を続けることにした。