カプセル①
そこは、薄暗い廃墟の中だった。円形闘技場を思わせる広々とした空間には、ガラス片やコンクリートの破片、胴体と首に切り離されたマスコットキャラクター、ブレードの錆びたスケート靴、空き缶やスプレー缶のゴミ、一輪の白い薔薇、立ち入り禁止の看板など──様々な投棄物が、至るところに散乱していた。
その廃墟──打ち棄てられたスケートリンクのど真ん中で、四つの影が躍動する。
激しいドラムビートに乗せて、歪んだツインギターがかき鳴らされ、その下で暗渠のようなベースサウンドが這い回る。ハスキーな男性ヴォーカルの声は、独特の言い回しで、生きるにつれて募る苛立ちや焦燥、漠然と抱え込んだ不安を歌っている──ように感じられた。
「──これが、お前の話していた先輩のバンドか」
そう呟き、緋村は僕のスマートフォンの画面から顔を上げた。
僕たちが今観ていたのは、須和子さんが《GIGS》と言うバンドサークルの部員たちと組んでいる、バンドのPVだ。
「そう。──ちなみに、ロケ地はあそこだそうだ」
僕は、一段低くなった場所に広がる雑木林の先に顔を出す、白いドーム状の屋根を指差した。まるで巨大な卵の殻を横たえたかのようなそれは、スケート場の廃墟だった。聞いた話によると、バブル時代に開園していたアミューズメントパークの一部で、今僕たちがいる場所からは、徒歩十分ほどの距離にあるそうな。
その名もズバリ、《バブルランド》。嘘のようなネーミングである。
また、スケート場の屋根の左側には、《バブルランド》のシンボルであっただろう、観覧車の姿も見えていた。まるで年老いて枯れた大樹のようなその姿は、栄枯盛衰と言うか、時代の経過の恐ろしさを伝える遺産に他ならない。
「閉鎖されてから長年放置されてるんだけど、近々ようやく取り壊されることが決まったらしい。さすがに老朽化が酷くて、誰かが肝試しとかで忍び込んだら危険だからって」
「ふうん、まさにバブルの遺産だな。──いや、当時ですら、こんな山の上に造るなんて珍しかったんじゃないか?」
「だろうな。手作りの遊園地なら、富田林の山奥にあるけど」
「ああ、テレビでも取り上げられたことがある……。あそこは別のベクトルですげえけど──少なくとも、ここみたいに圏外じゃないんだろうな」
ベンチに座った彼は煙草を吹かしながら、片頬だけで笑う。緋村の言葉どおり、僕のスマートフォンの画面の片隅には、その二文字が表示されていた。当然ながら、先ほど彼に見せていたPVも、動画投稿サイトからダウンロードしておいた物だ。
「しかも、麓へ降りられる道は一本だけだ。これで土砂崩れでもあったら、簡単に孤立しちまうだろう。──お前の好きな推理小説で言うところの、“クローズド・サークル”って奴か」
「やめてくれ縁起でもない。……まあ、好きなシチュエーションではあるけど」
確かにクローズド・サークルは、推理小説──とりわけ「本格」と銘打たれる類いの物においては、定番中の定番である。しかし、その言葉を広めたのは有栖川有栖であると言うことは、意外と知られていない、気がする。
──八月二十六日、合宿一日目。アルバイトとして雇われることとなった僕と緋村は、《GIGS》の面々よりも一足早く、合宿所に到着していた。
と言っても、僕らの最寄駅KからT市までは、電車で一駅分の距離の為、大して遠出しているわけではないが。
ここは山のほぼ頂上と言ってよく、青く澄んだ夏空が、下界よりも断然近かった。この年の夏は「災害級の暑さ」と言われ、全国で熱中症による死者が多く出ているが、標高が高い為か、ここは大分マシに思える。
午前の業務──と言っても簡単な清掃や客室の準備くらいだったが──を終え、今は宿舎の外にある喫煙所で休憩しているところだ。
喫煙所は母屋と向かい合う形で敷地の入り口の横にあり、最近塗り直したらしい真っ赤な屋根の下に、灰皿とベンチが設置されただけの、簡素な物だった。田舎のバス停みたいだ。
そして、砂利を敷き詰めた庭の先に見える、パステルグリーンの壁の二階建てのペンションが、僕たちのお世話になる合宿所──《マリアージュうたかた》だった。全体的に小ざっぱりとした意匠で、近年改修したのか、少なくとも外観上は、教えられた築年数は感じられない。
また、敷地の隅──こちらから見て左奥側──には、花壇が二つあり、一方には夏らしく向日葵が、もう片方にはちょっとした塀のように、三、四メートルも茎を伸ばした純白の薔薇が、疎らに咲いていた。花盛りの向日葵と比べ、真夏に咲く大輪の白薔薇はどこか儚げで、花と言うよりも果実のようだ。
「……フラウ・カール・ドルシュキー」
唐突に、緋村が呟く。それが薔薇の品種名だと言うことに、数拍遅れて気付いた。どうやら彼は、僕の視線を追っていたらしい。
それにしても、薔薇の名前と言い形而上学と言い、雑学的知識ばかり無駄に豊富だ。
──と言った風に、感心するどころかむしろ若干呆れていると、
「そのとおりです。よくご存知ですね」
そんな声と共に、一人の男性が、左手から現れた。白髪混じりの髪を短く刈り込み、首にタオルを巻いた彼は、この合宿所の管理人の一人──月島順一さんだ。年恰好は五十代前半くらいで、物静かだが、同時に優しそうでもある。
順一さんは柔和な笑みを浮かべ、
「薔薇、お好きなんですか? 若い人には珍しい」
「好きと言うか、以前読んだ小説の中に出て来て知っていたんです。──あの薔薇は、夏に咲くんでしたっけ?」
「いえ、四季咲きなので、特に夏と言うわけではありません。今咲いているのは、一度春に開花したのが返り咲きした物なんです。だから、ほら、少ししか花が付いてないでしょう?」
確かに、咲いているのはたった五輪だけだった。まるで、何かの手違いで、この世に取り残されてしまったかのように。
「別名スノークイーン、和名では白不二と呼ばれるだけあって、まさしく純白の薔薇です。古い品種なんですが、今なお人気があって、比較的育てやすいとされています。花自体は大きいですが、意外と香りは控えめなんですよ」
順一さんは勝手に寡黙な人なのかと思っていたが、好きな話題は別なのだろう。今日僕たちがここに来てからで、一番舌が滑らかだ。
「元々は《バブルランド》──あそこに見える遊園地の中の薔薇園に植わっていた物を、わけてもらったんです。《バブルランド》が閉園になる際に、彼女たちも一緒に処分されてしまうと聞いて、まあ、可能な限り助けてあげたいなと」
「つまり、薔薇の遺児ですか」
「ええ、そんなところですね」
緋村の言葉に、順一さんは意味ありげに微笑んだ。
が、すぐに語りすぎてしまったことを後悔したのか、バツが悪そうに頭を掻き、そのまま腕時計に目を落とした。
「さて、そろそろみなさんが到着される時間ですので、中の準備に戻りましょう」
雇い主の掛け声で、僕たちは腰を上げた。