夏の決心②
何故何もないのではなく、何かがあるのか。それは、形而上学で議論される有名な問題であり、同時に永久に答えに辿り着けない問いでもある。
文面どおり「どうして完全な『無』と言う状態はあり得えず、必ず何かがあるのか」と言うことを問うているのだが、その中身は様々な形に置き換えられる。もっともベーシックなのは、「何故この世界は存在するのか」か。この場合、「それは神が創り給うたからだ」と答えたとしても、「では何故神はこの世界を創ったのか」あるいは、「そもそも、どうして神は存在するのか」と言った風に、問いかけの形が変わるだけで、問題その物は終わることなく続いてしまうのだ。
このように絶対に解答を出せない性質から、「究極の問い」や「存在の謎」、または「問うことが危険な問い」などとも呼ばれている。
「まあ、さすがにそこまで言うのは大袈裟だとしても、ロクな情報がない以上、マトモに推理なんてできねえよ。──つうわけで、やっぱり巨視的トンネル効果が働いたってことでオーケー?」
「何が『オーケー?』だ。そんなビッグバン並みの現象が、一遊郭で起こってたまるか。だいたい、答えが出せないんだったら、どうして君はこんな話を──」
言いながら、僕は自分が今日、何の為に彼に会いに来たのかを思い出した。
と、同時に、彼の意図にも察しが付く。
「……もしかして、合宿参加の件を有耶無耶にする為に、ウダウダ話してたんじゃないだろうな?」
「なんだ、覚えてやがったか。好きそうな話題を振ってやれば、忘れると思ったんだがな」
あまりにも悪びれなさすぎて、もはや感心しそうになる。と言うか、こいつも「押してダメなら引いてみろ」だったか。
「君は──そこまで行きたくないのか? と言うか、もしかして今の話もその為だけに拵えたの?」
「まあな。即席にしては、それっぽかっただろ? ──とにかく、お前の偽善だかポイント稼ぎだかに付き合ってやる義理はねえ。道連れは他を当たることだな」
ピシャリとシャッターを下ろすように言い放つと、彼は再び単行本を手に取り、僕のことなどお構いなしに、読書を再開してしまう。
大学の知人の中で最も暇を持て余していそうだから誘ったのだが……思っていた以上に強情だな。さて、どうしたものか……。
まさしく取り付く島もない彼に呆れていると、そこで、僕が注文していたアイスコーヒーが届く。
運んで来てくれたのは馴染みの店主で、「あ、どうも」と会釈すると、ニッコリと柔和な笑みが返って来た。綺麗に白く染まった頭をオールバックにした彼は、「老紳士」を地で行くような人物であり、絵になりすぎていてどこか滑稽な気さえした。実際とても親切な人ではあるが。
また、この紳士風のマスターは《えんとつそうじ》の主であると同時に、緋村にとっては大家さんに当たる。つまり、彼はこの店の二階の一室に、間借りしているのだ。
店主は僕の分の伝票を伝票入れに差すと、立ち去り際に一言。
「……滞納分のお家賃、今月中にいただけると、とても助かるんですけどねぇ」
あくまでも穏やかな口調で呟き、カウンターの方へと戻って行った。
その姿を見送ってから、顔を前に戻すと、たった一人の店子は先ほどの饒舌ぶりが嘘のように黙り込んでいる。
かと思うと、唐突に本のページを閉じ、やけに真剣な眼差しをこちらに向けた。
「……で? その合宿所のバイトってのは、幾ら出るんだ?」