十六話
授業が終わり、放課後になると、美鶴は荷物を持ってさっさとホームルームを出る。
「みーつっるちゃん!」
そんな美鶴を待ち構えていたのか、突然背後から聞き覚えのある声が衝撃と共に掛けられた。
美鶴は驚きから肩を跳ね上げ、振り返る。
「は、葉月……! 雁夜も……」
背後にいたのは、案の定葉月と雁夜だった。声を掛け、軽く背中を叩いてきたのはもちろん葉月の方だ。雁夜はというと、無表情で葉月の斜め後ろに控えている。
「ごきげんよう。今から帰るの?」
「うん。今日は鶯がいないから、高等部の方に鶯二郎が迎えに来てくれるんだ」
「鶯二郎って、鶯の弟?」
美鶴が雁夜の問いに頷けば、葉月と雁夜は揃って顔を見合わせる。
何故、と美鶴が首を傾げていると、葉月が一つ手を叩いてにっこりと笑みを浮かべた。
「ごめんね美鶴ちゃん。弟クンには悪いんだけど、それもうちょっと後にできないかな?」
「え? どうして?」
「今日は部活の活動日なんだよ」
あれ、覚えてないの? と目を瞬かせる雁夜の言葉に、美鶴は一瞬だけ硬直する。
双子にバレなかったのは幸いだろう。
美鶴は目を丸くしたまま、雁夜の言葉を繰り返す。
「……ぶ、部活?」
「そう。部活」
葉月と雁夜が同時に頷く。その瞬間、美鶴は「ああ……」と肩を落としそうになった。
部活のことなど、家族からも鶯からも聞いていなかったからだ。
活動日は愚か、なに部なのかすら覚えていないのだから、二人に呼び止められなければ完全にその存在を忘れていた。
「……いや、ごめん……。やっぱり鶯二郎に悪いから、今日は帰るよ」
鶯二郎を利用するのは悪いとは思うが、今は墓穴を掘る前にこの場から離れることが最優先事項だ、と美鶴は申し訳なさそうに首を横に振る。
そうして逃げるように徐々に後退る美鶴の手を、葉月が掴んで止めた。
「どうしても……ダメ?」
葉月の方が美鶴よりも背が高いのだが、わざわざ前屈みになって上目遣いを向ける。自分の武器を十分過ぎるくらいに熟知しての行動だろう。随分慣れた動きだ。そんな葉月の後ろで雁夜が呆れたように溜め息を吐いていた。
記憶の失う以前の美鶴だったのならば違っただろうが、ここで「ダメ」とはっきり言えるほど今の美鶴は葉月に慣れていない。
しかし、
「……ど、どうしても……」
美鶴は葉月からそっと目を逸らして、小さな声で答えた。
というのも、美鶴も鶯二郎もお互い携帯を持っていないから、連絡手段がないのだ。となると、部活に行けば何も知らない鶯二郎を待たせてしまうことになり、心配させてしまうだろう。真面目な鶯二郎のことだ、鶯をはじめとした梅影家の人間に報告するのは目に見えている。それだけは正直避けたかった。
特に鶯に報告するのだけはやめてほしい、というのが本音だ。
ただでさえ心配性なのに、更に過保護になってしまうだろう。おまけに反応が怖い。
しかしそれを双子には言えないので、「鶯二郎が心配するから」とだけ言っておく。
「そっかぁ。じゃあ、ぶちょーに言っておくね」
「ごめんね。……えっと、それじゃあもう行くね」
「うん。また明日ね、美鶴ちゃん」
「また明日」
あっさりと美鶴の手を離すと、ひらりと手を振るう二人と同じ言葉を口にするのに、美鶴は思わず躊躇ってしまう。
数日前までは意識を失っており、尚且つ目を覚ました時には記憶喪失となっていたのだから無理もない。おまけに一時は命の危機に直面したのだから――明日が確実に来る、などと軽率に思えなくなってしまったのだ。
「美鶴ちゃん?」「美鶴?」
鏡に映したように瓜二つな整った顔が、浮かない顔で俯いた美鶴の顔をピッタリに覗き込む。
そんな双子にはっと我に返り、美鶴は軽く首を振って何でもないように笑ってみせた。
「なんでもない。……またね、葉月。雁夜」
葉月と雁夜に倣ってひらりと手を振ると、美鶴は踵を返して一度も振り返らずに歩いて行った。
「――ほらね。雁夜」
「葉月の言ったとおりだ。最近の美鶴、ちょっとおかしい」
「なーんか隠し事されてる感じ」
部活へと向かっていく生徒達に紛れて見えなくなるまで美鶴の背中を見送れば、残った二人は先ほどまで浮かべていた笑みを落とす。
雁夜は変わらず無表情なのだが、葉月は可愛らしい笑みから一転して思案顔をする。
そんな二人を遠目から控えめに見つめる女子生徒達は、まさに恋する乙女と言っていいだろう。尤も、二人はその視線に一切気付いていないフリをしているのだが。
「今までそんな感じはしなかったから気づかなかったけど、葉月が言ってたのは本当だったわけだ」
「うん? 雁夜クンはお兄ちゃんの言ったことを信じていなかったとでも言うのかな?」
「正直に言えば」
「そんなにはっきり言われたら……わたし、泣いちゃう」
「寝言は寝て言って。あと気持ち悪い」
「弟が辛辣だ……」
葉月がわざとらしく泣き崩れる演技をしてみても、双子の片割れということもあって雁夜の目は冷たい。
だがそれらは双子にとっては演技であり、要は漫才のつもりなのだ。
しかしそれを見て笑う観客はそこにはいない。二人が嬉々としてそれを見せる唯一の客は、つい先ほど帰ってしまったところだ。
「……あーあ。やっぱりつまらないね」
葉月が伸びをしながら立ち上がる。隣の雁夜は同意はしないものの、否定もしなかったところを見ると思うところがあったのだろう。
「どうする? 後追う?」
「いや、それじゃあすぐにバレるよ。相手は鶯じゃないとはいえ、同じ梅影の鬼なんだから」
「そうだねえ。……じゃあもう手っ取り早く、知ってそうな人に訊いてみようか」
「心当たりは?」
「もちろんあるよ。じゃなきゃこんなこと言わないよ」
雁夜の問い掛けに葉月は首を竦めて不敵に笑う。その瞳は確信に満ち溢れていた。
片や悪戯っ子のように、片や微かに頬笑みを浮かべて、同時に顔を見合わせる。
二人の頭には、同じ特定の人物の姿が浮かび上がっているのだろう。言葉で確認せずとも、お互いそれが分かっていた。
「そう簡単に口を割ってくれるかな?」
「大丈夫だと思うよ? だってわたし達、美鶴ちゃんには信頼されてるし」
「ああ、美鶴が良ければいいんだっけか。人のこと言えないけど、単純な奴だね」
「本当に人のこと言えないね。雁夜も美鶴ちゃんさえ良ければ他のことはどうでもいいとか言ってたじゃん」
呆れ顔で呟いた雁夜に、葉月が口元に手を当てて笑う。
それに表情は変えなかったが、内心ムッとしたのか、不満気な声で言い返す。
「だから先に言ったじゃん。っていうか、それは葉月も一緒だろ? 美鶴が危険な状態だった時は取り乱して、『美鶴ちゃんがいなくなったらこんな世界は要らない』って真顔で言ってたくせに」
「だって事実そうじゃん。美鶴ちゃんがいない世界なんて、存在価値のないゴミだよ」
「ゴミに失礼だろ。ゴミだって再利用できるものがあるんだから」
「それもそうだね」
お互い肩を竦めて疲れたように力なく笑う。
双子だけで話を始めるといつもこうだ。会話はキリが見つからないほど続くのに、話が徐々に別方向に飛んでいく。
それを笑いつつも軌道修正するのは、決まって美鶴の仕事だった。
二人にとって、美鶴は自分達だけの世界に唯一招き入れた観客だ。――否、本当は、いつの間にかそこにいただけの、ただの侵入者だった。しかし美鶴は他愛もない会話一つで楽しそうに笑うものだから、いつからか自分達まで楽しくなって、二人だけの世界が三人になっていた、というのが正しい。
「それじゃあ、まあ、行きますか。どうせ美鶴ちゃんが欠席すること伝えなきゃだし」
「そうだね。さっき部室に向かってるのを見たから、部室にいるよ」
「それはよかった。探しに行くの面倒臭いからね」
「部室じゃなければ、生徒会室か職員室かの二択なんだけどね」
雁夜が溜め息混じりに肩を竦めれば、葉月はなんてことないようにさらりと言い放つ。
「だって鳳斗なんかのために、わざわざ労力使いたくないんだもん」
『なんか』を強調して可愛らしくにっこりと笑みを浮かべた葉月の言葉に、雁夜は「まあ、確かに」頷いた。