十四話
障子を開け放ち、月の光を取り込む。
頬を掠める柔らかな風が、風呂上がりの火照った体には心地よかった。
美鶴は小さく息を吐き出して月を見上げる。
結局、あの約束の儀式が恵子立会いの下成立してしまったため、鶯二郎も正式に美鶴の随身になった。
当人は始終ニコニコして喜びを滲ませていたが、美鶴はどうにもそれに納得できない。
梅影が松浪の子供の傍にいるのは先祖が犯した過ちを償うため。それは一種の呪いのようで、縛りつけている側の人間が思うことではないだろうが、正直哀れでならないのだ。
鶯二郎は随身とならなければ自由に生きることができたのに、とは思うけれど、時既に遅し。彼もまた、兄である鶯と同じ立場、囚われの身となってしまった。
(……鶯は、どう思ってるんだろう)
弟が自分と同じ立場となってしまったことを。
恨むだろうか。怒るだろうか。
喜ぶということはないだろう。未来を制限されて、嬉しがる人間はいないはずだ。
鶯は急用とやらで見送りの時も姿を見せなかった。だから既に鶯二郎か恵子から話を聞いているであろう鶯は、そのことに対して何を思ったのかはまだ分からない。
――本音を言えば、明日、会うのが少しだけ怖かった。
無意識に体を抱きしめてぼんやりと月を眺めていると、不意に風に流された桜の花弁が室内に迷い込んだ。
それを目で追って、視線を戻して目を瞠る。
「えっ……!?」
咄嗟に口を手で塞いだのは賢明な判断だろう。
この状況で美鶴が悲鳴を上げてしまえば、少々面倒なことになってしまうからだ。
「相変わらず月夜が似合う女だな。松浪」
「き、桐生君……!」
少し目を離した間に、庭に現れたのは鳳斗だった。
日中とは違い、着物に羽織を纏っている。
服から覗く肢体は引き締まっており、和の様相がとてもよく似合っていた。
「どうしてここに……」
「話の続きをしに来た。あの時は梅影の邪魔が入ったからな」
「でもそれは、由鶴お兄様が話してくれたよ?」
「確かに由鶴に訊けと言ったが、あいつが全てを話すとは端から思っていない。お前がいろいろと教えられていないのが何よりの証拠だろう」
微かに眉根を寄せる鳳斗の言葉に、美鶴は確かに……と黙り込む。
その隙を見計らって、鳳斗はふわりと羽織を翻して縁側に腰を下ろした。
自然すぎる動きだが、鳳斗が本来ここにいてはならない存在だと思い出し、美鶴はおろおろする。
「あの、桐生君……? どうやってここに……」
「簡単な話だ。カメラの死角を通ってきただけのこと」
「そんな……簡単な話って……」
「言っただろう? 俺達鬼は優れた頭脳を持つと。鬼の頭の血を引く十二月華の者は、特に優れているからな。死角を突くなど造作もない」
ぽかんとする美鶴に対して、鳳斗は腕を組みながら鼻で笑う。
してやったり顔が妙に似合っていた。
その表情にすっかり心を折られてしまった美鶴は、鳳斗を追い出すことを諦めると、少し距離を置いて隣に腰を下ろす。
もうすぐ日付が変わるという時間帯であるため、起きているものは少ないと思うが、バレないことを願うしかない。
「だがそのズバ抜けた頭脳と身体能力があるからこそ、鬼の血を引く家は栄えるんだ。東咲にいるほとんどの生徒が鬼の血を継いでいるし、教師に至っては全員そうだな。それ故に東咲学園はセレブ学校と呼ばれている」
「……偶然……じゃない、よね」
「当たり前だ。東咲学園は元々、鬼の血を持つ者のために作られた学校だった。今では一般人にそれを悟られないように一般人も受け入れてるがな」
「そういうのって、多いの……?」
「そうだな。鬼のために鬼が作った施設は割と多い。京都に東咲学園の姉妹校があるし、お前がついこの間まで世話になっていた病院もその一つだ」
なんでもないように、鳳斗は平然と語る。
膝の上に乗った花弁を手に取って見つめるその横顔は美しく、ご機嫌に弧を描かく唇と細められた目が彼を蠱惑的に見せる。
しかし美鶴は生憎他人の容姿には興味がない……というか、良し悪しの判断ができないため、鳳斗の醸し出す雰囲気に気づかない。否、気づけない。
美鶴も最早驚かなくなってきたが、それでもやはり動揺してしまうのだ。
何も知らずに通っている施設が、鬼のために作ったものだったのだから。
「もしかして……だから私は、あの病院に……?」
「可能性は高い。お前が生まれた病院だと聞くし、馴染みがあったというのも搬送された理由だとは思うが」
鳳斗がそういった情報をどこから仕入れてくるのかはこの際気にしないが、しかしプライバシーというものは気にしてほしい。
今の美鶴には鳳斗が持つ情報が本当のことか否かは分からないものの、鳳斗のその自信家な態度が、信じてみよう――そんな気持ちを抱かせる。
「……! まずい、やられたっ」
不意に鳳斗が小声で叫びながら立ち上がった。
何事かと美鶴が驚いて鳳斗を見上げると、「来い!」と手を引かれて立たされる。
説明もなく動く鳳斗に困惑しながら、美鶴は自身を引く手に強さがないことに気がついた。そっと添えられたような、壊れ物を扱うように慎重な力で手を握っているのだ。
それが鳳斗なりの気遣いなのか。目の前の本人に訊きたいところだが、鳳斗はそれどころではないらしい。
鳳斗は美鶴の自室に敷いてあった布団を持ち上げると、美鶴共々横になって頭から被った。
「……っ!」
「静かにしろ」
布団が元々美鶴一人で使うのに大きかったのもあり、人ふたり分が入っていても余裕がある。しかし向かい合う二人の間には余裕も距離もない。
美鶴は障子側に背を向けていて、鳳斗はその隣に寝転がっているのだが、本来なら美鶴一人分なのだから、極力幅を狭めなければならない。だから顔なんてお互いの息が掛かるほどで、まさに目と鼻の先というわけだ。
美鶴は突然のことについていけず、鳳斗の下で硬直する。
それを鳳斗は好都合として、自身も息を潜めた。
「美鶴……?」
布団越しの、聞き覚えのある声が美鶴を我に返らせる。
鶴義の声だ。
美鶴は思わずピクリと動いてしまったが、目の前の鳳斗の顔を見てすぐに止めた。
布団の向こうは鋭く睨む鳳斗の視線には少しの緊張も混ざっており、内心見つからないかハラハラしているのだ。
鳳斗も人に混じって生きるのだから当然だが、緊張するといった感情も持ち合わせていたらしい。場違いにも、美鶴は笑いたくなった。
「……気のせいか」
たっぷり十秒。体感時間がかなり長く感じられた時間が過ぎて、鶴義が踵を返す。
その間が少し怖かったが、美鶴はそっと息を吐き出した。
鳳斗が警戒を解いたのは、その少し後だ。
溜め息にも似た安堵の息を深く吐き出すと、顔を顰めて忌々しげに呟く。
「……チッ。相変わらず陰険な奴だ。しかしまあ由鶴よりはマシか……。あいつは嫌に嗅覚が優れているからな」
その言葉を拾った美鶴はきょとんとした。
「鶴義お兄様が何かしたの?」
「あいつ、足音と気配をほとんど消してやがった。だから近づいてきているのに気づくのが遅れたんだ」
今にも二回目の舌打ちをしそうな鳳斗になるほど、と納得するが、鬼の血を色濃く引き継いだ鳳斗を騙せるほど、足音や気配は消せるものなのだろうかと美鶴は疑問に思う。
それを読み取ったかのように、鳳斗が溜め息混じりに説明する。
「鶴義は物心つく前から武術に興味を持つような奴だったらしくてな。今でこそ落ち着いているが、三年前までは梅影のとこに通っていたぞ。元々神童と呼ばれていたにも拘らず、満足していなかったらしい。無駄に頭がキレるくせに……」
さっきのはすり足でもやったんじゃないか? と投げやりに言う。
鳳斗としては、実は梅影の人間なんじゃないかと思うことが多々あった。
それに対して美鶴は嬉しそうに笑みを浮かべる。実の兄が褒められたのだから、嬉しくないわけがないのだが、鳳斗はそれを見て眉根を寄せた。
「……腹立たしいな。由鶴といい、鶴義といい……梅影もだ」
そう言って美鶴の横髪を払いのけると、するりと頬に手を添えた。
鳳斗の行動に美鶴は一度きょとんとするが、すぐに今どういう状況なのかを思い出して慌てて身を引く。
もちろん、逃げることは鳳斗が許さないのだが。
「逃げるな」
「に、逃げるんじゃなくて……近いから……!」
ぐっと顔を近づける鳳斗に対して、美鶴は徐々に距離を置く。
それに比例して手を添えた頬が熱を帯びていくのに気づき、鳳斗は目を細めた。
「……お前が俺の許嫁だったら、もう少し楽だったんだけどな」
独り言のように囁かれると、美鶴は目を丸くした。
「桐生君、許嫁がいるの?」
「ああ。俺の意思じゃないがな。お前にも一応いるぞ」
「えっ?!」
さらりと言われた衝撃の事実に、思わず声を上げてしまった。
遅いとは分かっていても、咄嗟に口を手で塞ぐ。
鳳斗はそんな美鶴を見て笑みを零した。
「やっぱり何も言われていないのか。まあ、相手は海外に留学中の身だしな。そうそう会えないのに言う必要もないだろう」
「あ、あるよ……!」
「何故だ? 許嫁を放っておいて、海外をぶらついているような奴だぞ?」
「それは勉強のためなんでしょっ? だったら仕方ないよ」
「……手紙の一枚も書かないような奴だぞ」
「きっと忙しいんだよ」
「……」
「……」
そうして二人はしばらく見つめ合うと(睨み合いとも言う)、先に鳳斗が観念したように呆れ顔で溜め息を吐いた。
「お前、そんなんことではいつか騙されるぞ」
「騙された時は、その時になったら考える」
「甘い奴め」
「……それは多分、顔も名前も覚えてないからだと思うんだ。相手のことを何も知らないから、だから人の言うことで判断しないようにしてるの」
「……お前らしいな」
ふっと目を細め、気を緩めている美鶴の後頭部に手を移動する。
何を……と美鶴が鳳斗を見やれば、額にそっと鳳斗の唇が触れた。
瞬間、美鶴は硬直する。
目を見開いて何をされたか分かっていない顔をする美鶴に満足したのか、鳳斗が不敵に笑って立ち上がった。
「一つ未来を教えておく。お前がお前の許嫁と会った時、俺とそいつは争うことになるぞ」
ぽかんとする美鶴にそれだけを言うと、鳳斗はひらりと寝室から出て闇に紛れていった。
残された美鶴は人ひとり分だけ開けられた障子の向こうを、呆然と見つめた。