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月華の花嫁  作者: 藤井 蓮華
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十二話

 鶯がシャワーから戻ってみれば、客間に居たのは美鶴だけだった。

「母さんは?」

「少し席を外してる」

「そうか」

 それだけ言うと美鶴は再び視線を庭へ向ける。

 松浪家の日本庭園には遠く及ばないものの、質素に誂えられた小さな庭だ。

 美鶴は何が面白いのか、ただ静かに見つめていた。

 集中しているのか、美鶴の横顔を見つめる鶯の視線には気づかない。

 美鶴は容姿こそ平凡なものだが、その血には松浪の姫というブランドがある。

 ブランド目当てで寄ってくる人間は掃いて捨てるほどいた。最近は落ち着いたものだが、それは所詮嵐の前の静けさにしか思えない。

 松浪の姫が嫁ぎ先に福をもたらすというジンクスは、お互いがお互いを愛し合ってこそ確立するものだ。ブランド目当ての奴らには福が訪れるとは思えないが、それを試す気は鶯をはじめ松浪と梅影は毛頭なかった。

 望まれて生まれた唯一の存在を、美鶴を守るために自分がいる。

 鶯は幼い頃からそう考えて生きてきた。

「鶯?」

 聞き慣れたその声にはっとする。

 気づけば美鶴が小首を傾げて鶯を見ていた。

「どうしたの?」

「……いや、なんでもない」

「そう」

 緩く首を振れば、美鶴はほっとしたように微笑を浮かべる。記憶を失ってもそういった仕草は変わらないのか、と改めて思った。

 記憶がなくても美鶴は美鶴で、守るべき存在だと――言い聞かせる。

 この距離は決して、踏み誤ってはいけないのだ。

 そうしていると、不意に美鶴がトントンと隣を小さく叩いた。

「ねえ、鶯。学校と稽古で疲れただろうし、少しゆっくりしよう」

 美鶴なりの気遣いだろう。

 とりあえず隣に腰を下ろすと、美鶴はそれ以上は何も言わずに庭へ目を向けた。

 何をそんなに見ているのか。鶯がそう問い掛けようとした時、同時に美鶴が静かに口を開いた。

「ここは不思議だね。家にいる時と変わらなくて、落ち着く」

「……そりゃあ、小さい頃から入り浸ってたからな。美鶴は」

 鶯が懐かしむように目を細めて言えば、美鶴は「ああ、やっぱりそうなんだ」と言ってふわりと笑う。

 その言葉に、鶯は前髪の下で目を瞠った。

「記憶を失ってから初めて来たけど、見知らぬ場所とは思えなかったんだ。それ以上に、懐かしいとさえ思う私が居たから、そういうことなんだとは思っていたの」

「……記憶が?」

「ううん。でも、引っかかってる感じはする。私の勘だけど」

 美鶴はやけに落ち着き払ったまま一度目を伏せて言うと、すぐに庭へ視線を向ける。

 まるで何かを探しているように、そこではないどこかを見つめているようで、鶯は思わず膝の上で握り締められた美鶴の手を掴んだ。

 それにはっとして、美鶴は鶯へ顔を向ける。

「な、に?」

「少し落ち着け、美鶴。焦っていたら見つかるものも見つからない」

 鶯の真剣な声音にぐっと言葉を詰まらせる。

 図星なのだ。焦っていたことが。

 沈黙が訪れると、美鶴は徐々に視線を落とす。

「……あと少しなの。あと少しで、何か思い出せそうなのに……」

「学校ではそんなに焦ってなかっただろう。どうして今になって急ぐんだ」

「だって……こんなに懐かしいって、落ち着くって思うのに、その思い出は何も残ってないっ。それが口惜しい……ッ!」

 美鶴はその目に涙を浮かべ、とうとう取り乱す。

 今までそういった素振りは見せていなかったが、美鶴が目を覚ましたあの日は酷かった。自分の名前すら忘れてしまったために、自分とはなんなのか、本当に以前から存在していたのかと混乱してしまったからだ。

 それを傍に居て落ち着かせ、慰めたのは他でもない、鶯だった。

 幼馴染であり随身であるからと、自ら真っ先に傷つく役目を背負ったのだ。それは一重に、件の日に傍にいられなかった罪の意識がそうさせるのかもしれない。

「大丈夫だ、美鶴。俺も……俺が、傍にいる。少しずつで良い。ゆっくり、落ち着いて思い出していけば良いんだ」

 微かに震える美鶴の肩を抱き寄せ、優しい声音で言い聞かせる。

 最初はされるがままだった美鶴も鶯の服を掴んで擦り寄ると、涙を堪えて首を小さく縦に振った。それに対して「泣いても良い」と鶯が促せば、美鶴はすぐに声を押し殺して大粒の涙を鶯の服に滲ませた。



「赤くなったな」

 美鶴が泣き止み、落ち着いた頃に鶯が呟く。

 目元のことを言っているのだろう。美鶴は隠すでもなく、恥ずかしそうに笑みを浮かべた。

「鶯二郎が見たらなんて言うかな……」

「慌てふためくだろうな。間違いなく」

 真顔で答えた鶯に、美鶴は笑みを零す。

 ただでさえ容易に想像できるのに、実の兄が真顔で言うのだから的中率は高いだろう。

 実際に鶯二郎に見せてみるのもありだが、何も知らなければ痛々しいその目元を見せるのは、正直嫌だ。

 それだけを思って、不意に美鶴の頬を掠めて目元を指の腹で撫でる。

「鶯……手、冷たいね」

「応急処置くらいにはなると思ってこうしてるんだ」

「そっか」

 本当は濡れタオルを用意するべきなのだろうが、いつ恵子や鶯二郎が来るか分からない今は、美鶴を一人にしない方が良いだろうと考えての行動だ。

 至って真面目な声音で言う鶯に、美鶴は思わず笑ってしまう。鶯の指をくすぐったそうに受け入れる美鶴を見て、鶯もふと目を細めた。

 精神が安定していれば、美鶴はなんでもないことでも幸せそうに笑うのだから、鶯は美鶴のためを思い、動くのだ。

 それは親愛か、友愛か、それとも――。

「あらあら」

 不意に聞こえた第三者の声に反射的に顔を向ければ、いつの間にか恵子がそこにいた。

 その目元は楽しげに細められ、口元には堪えきれない笑みを浮かべている。

 即座に鶯は顔をしかめた。

「いや、あの、母さん、」

「やっぱりお義父とうさんの孫ねぇ。一途だから心に決めた人に対して手を出すのが早いのよ」

「そんなんじゃないっていつも言ってるだろう」

 深い溜め息混じりに鶯がゆるりと首を振る。

 ぱっと離された指に名残惜しさを感じながら鶯を見やれば、先ほどの柔らかな雰囲気は少しも残っていない。

 美鶴の視線に気づいて一度横目で見るが、すぐに何事もなかったかのように自然な動きで立ち上がると、鶯は「濡れタオルを持ってくる」とさっさと客間から出て行ってしまった。

 残された美鶴の耳に、恵子の溜め息が届く。

「ああいう短気なところはお父さんあのひとそっくりだわ。やっぱり梅影の子ね」

 困ったような、呆れたような顔で言うものだから、美鶴は首を傾げた。

 そんな美鶴を見て、恵子は苦笑する。

「梅影は難儀な人が多いのよ。まあ、そうすることで自分を制してるって言った方が良いのかしら。同じ過ちを繰り返さないようにね」

「過ち……?」

「あら? もしかしてまだ聞いてないの?」

 瞠った目を瞬いて、恵子は美鶴に問い掛ける。

 なんのことだと首を横に振れば、恵子は冷めた顔で「そう」と呟いた。

「まったく。根性がないったら……」

「え?」

「こっちの話よ、気にしないでね。

 ところで美鶴さん、貴方は鶯が随身という立場にあることを疑問に思ったことはない?」

「あ……それは、いつも思ってます」

「そうでしょうね。梅影と松浪の関係は、少し複雑だから」

 恵子はそう言って、溜め息にも似た息を深く吐き出す。

 そうして顔を上げると、恵子は慈しむような笑みを浮かべた。

「梅影家にはね、決して消えることのない松浪との約束があるのよ」

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