十話
「具体的にはどれくらい昔なのかは分からないけれど、昔々の話だ」
京の都に鬼が出た。
鬼は人々を攫い苦しめ、残虐に殺していたそうな。
当時の京は死の都と化し、助けを求められた外の祓い屋すらも近寄ることを拒んだほどだったと言う。
逆らえば殺され、立ち向かえば殺され、気に食わなければ殺された。
いよいよ京の都が終わると思われていた時、立ち上がったのが一人の女性と鬼だ。
女性は東からやってきた巫女。
鬼は関東一帯の鬼を束ねた鬼の頭。
二人は力を合わせ、京の鬼を退治して平和を取り戻すと、祝言を挙げて十二人の子供をもうけた。そうして二人はいつまでも幸せに暮らしたとさ。
「――っていう話だね。これは鳳斗からも聞いたかな?」
「少しですが。桐生君から聞いたのは、その十二人の子供達が植物の名前を姓としたことで十二月華と呼ばれるようになった、ということです」
「そう。鳳斗はそっちをメインに話したか」
形の良い顎に手を添えて笑う。
その仕草すら似合うのだから、美形はズルい。
「っと、鳳斗の話はどうでもいいや。始まりの巫女姫の話だから……そう、その昔話の女性が俺達の先祖の母親だってことは分かるね? 母親ということは十二月華の原点、全ての始まり。だから始まりの巫女姫と呼ばれているんだ」
ここまでは良い? と問われ、美鶴は冷静に頷く。
混乱も困惑もない。美鶴はただまっすぐに由鶴を見つめていた。
由鶴もよろしい、と一つ頷いて続ける。
「その始まりの巫女姫は正真正銘の人間で、弓の名手でもあったらしい」
遥々東からやってきて京を救ったとされる女性。
特別絶世の美女というわけではなく、どこにでもいるような凡庸な娘。
――彼女の姓は松浪、名を千鶴といった。
由鶴がそう言えば、美鶴は目を瞠って硬直する。
まさか……、という言葉が音もなく美鶴の口から零れ落ちた。
「松浪の姓を受け継いだのは彼女の一番目の子供でね、京を救った救世主の直系ともなればその子供、特に女児は始まりの巫女姫の再来として祀られた。松浪の娘が嫁げば嫁ぎ先に福が訪れるという話もいつからか出てね。それもあって松浪の娘は重宝され、扱いがまるで姫君のようだと言われたことから、松浪の姫と呼ばれるようになったんだよ」
乙女が美鶴を「ひいさま」と呼ぶ理由がそれだ。
松浪の姫。
それは始まりの巫女姫の再来の称号。
美鶴は詰まった息をおもむろに吐き出し、顔を上げる。
「松浪の姫の由来は分かりました。それで、由鶴お兄様。私以外の松浪の姫は今は……?」
「今は美鶴しかいないよ。なんたって美鶴は四百年ぶりの松浪の姫だからね」
「よんひゃ……」
にこりと輝かしい笑顔で由鶴が言い放つ。
こればかりは美鶴もぽかんと間抜けな顔をする。
由鶴はそんな美鶴にクスッと笑みを零すと、「仕方がないんだ」と答えた。
「四百年間、事故だったり、病気だったり、はたまた死産だったりで松浪の女児が皆一様に若くして亡くなってしまうから、一時期は退治した鬼の呪いだとか言われていたらしいよ」
「そんなことって……」
「でもだからこそ、美鶴は待望の松浪の姫ってことで大切に大切に育てられたわけ。美鶴が元気に生まれた時は、一族皆で喜んだものさ」
不意に鶴義が美鶴の腰に回した腕に力を込めて抱きしめる。同時に鶴義の明るい声音によって重く暗い空気が払拭された。
それとなくそんなことをやってのけるのだから、大したものだと由鶴は思う。
鶴義の言葉で気が軽くなったのか、美鶴の意識がそちらへ向いた。
「それは……やはり私が松浪の姫だからなのでしょうか」
「大半がね。でも俺はその頃はまだ小さかったから、松浪の姫とかって分からない歳だったから。――だからさ」
美鶴を見て、目を細める。
弧を描く唇から、愛おしくて堪らないと滲む声が発せられた。
「俺は嬉しかったよ。たった一人の、大切な妹ができて」
鼻の奥がツンとした。
自分は『松浪の姫』としてしか見られていないのではないかと心のどこかで思っていたから。
誰も、『松浪美鶴』を認識してくれていないのではないかと考えていたから。
しかし違った。
『松浪美鶴』を見て、触れて、認識してくれる人がいる。
それが嬉しかった。『松浪美鶴』を求めてくれる人がいたこと、それが何よりも。
視界が徐々に歪んでいく。美鶴はそれを咄嗟に手の甲でこすれば、由鶴に優しく掴まれ、止められた。
「鶴義だけじゃない。俺達兄弟をはじめ、家族皆が美鶴を歓迎したよ」
優しい声音と微笑みを浮かべて、由鶴が美鶴の手をそっと両の手で包み込む。
美鶴の目に溜まったそれを食い止めるのは、もう限界だった。
「ありがとう、美鶴。俺達の妹に、家族に生まれてきてくれて。美鶴は美鶴として、これからも生きていていいんだよ」
ぽろり、一度零れ落ちたら、もう止めることはできない。
美鶴は俯いたまま、由鶴の言葉に何度も大きく首を縦に振った。
「あれま、ひいさま。どうしましたかその目」
しばらくして、温かい緑茶を運んできた乙女が僅かに目を丸くして美鶴に問う。
鶴義に抱きすくめられたまま苦笑する美鶴の瞼は、泣いたのがすぐに分かるほどに腫れていた。と言っても、そこまで酷くはないが。
「なんですか坊ちゃん方! 女性を、ましてや妹を泣かせるなんて兄としても殿方としても最も最低な行為ですよ!」
「いや誤解だからトメさんっ。俺達は別に美鶴を泣かせてなんか……なくはないけど……」
「理由はどうあれ、原因は俺達だよね」
「まあ!! 坊ちゃん方、トメは悲しゅうございます。そんな兄の風上にも置けないような殿方に育てた覚えはございませんよ!」
そこに直りなさい! と緑茶を傍に置いて畳を指差す乙女の剣幕に押されながら、由鶴も鶴義も大人しくそこに正座する。
何故弁解しないのか、美鶴はそう疑問に思いながら乙女を止めに入るが、「ひいさまは緑茶でも飲んでいてください」と打って変わって優しい笑顔で言われ、頷くしかできなかった。目が笑っていなかったからだ。
しかしこのままでは由鶴も鶴義も怒られてしまう。どうしたものかと二人に目を向けると、由鶴も鶴義も微笑を浮かべて首を横に振る。
構わない、とでも言っているのだろう。
二人にそうされれば美鶴はもう何もできず、肩を落として乙女に言われたとおり緑茶を飲んで待っていることにした。
「いいですかお二方! この世はもう男尊女卑の世界ではないのですよ! 男子も女子も皆平等! それを真っ先に示す立場にいるはずのお二人がそんなことでどうしますか!」
説教をしている傍で一人緑茶を飲むとは、なんとシュールな光景だろう。
美鶴が正直居た堪れない思いを抱きながら乙女の背中を見つめていると、不意に廊下から使用人が顔を覗かせた。
「あの、美鶴様。お時間よろしいでしょうか?」
「はい。どうしました?」
これ幸いとばかりにすぐに廊下に出る。
乙女は説教に夢中になっているのか、使用人にも気づいていないようだ。構わず続けられるそれを見て、使用人が二人に哀れむ眼差しを向けていた。
「先ほど、梅影の方からお電話がありまして。美鶴様をお連れするようにと言われたのですが……」
「わかりました。準備をしてすぐに行きます」
「では私は運転手の佐藤に連絡し、門の前に待機させておきます」
「お願いします」
美鶴に小さく頭を下げると、使用人はすぐさま動き出す。
乙女には敵わないものの、彼女もまたベテラン使用人だ。行動は素早く、的確だから、美鶴も記憶を失ってから何度も世話になっている。
「というわけですので、私は失礼させていただきます」
踵を返し、聞こえていないとは思うが乙女や由鶴と鶴義に一応伝えておく。
由鶴と鶴義がちらりと視線を向けただけだが、それは今もなお怒る乙女の前では仕方がないと、美鶴はその場を後にした。
(梅影家からの呼び出し……。なんだろう……?)
心当たりといえば、見知らぬ男達にどこかへと連れて行かれそうになったことしかない。しかしそれは鶯にも言っていないので、可能性は低いだろう。
それでなければ鳳斗のことか。何も乱暴なことはされていないのだが。
(……なんにせよ、これはもしかしたら随身のことを訊けるチャンスかもしれない)
美鶴はそう考え、胸の前で手を握る。
今まで訊くに訊けなかったこと。鶯でなくとも梅影の者ならば、という思いがあったのだ。
できるだけ早く準備を済ませると、美鶴は門の前で待機していた車に乗り込んで梅影宅へ向かった。