九話
「ところでひいさま。由鶴坊ちゃんに何か用があったのでは?」
小首を傾げる乙女の言葉に、美鶴ははっと目的を思い出す。
由鶴によってすっかり話が逸れてしまったが、美鶴はちゃんと目的があって由鶴の元に来たのだから、それを達成しなければ意味がない。
「まあそう焦らなくても良いじゃないか。時間はまだまだあるだろう?」
そんな美鶴の思考を読んだかのようにすかさず由鶴が笑みを浮かべて言えば、美鶴は頷くしかなかった。
「それに、多分そろそろ来るさ」
独り言のように呟かれた音を拾い、美鶴は由鶴の顔を見る。
美鶴の視線に気づいた由鶴はただにこりと笑みを浮かべただけだ。
首を傾げてきょとんとしていると、ふと廊下から近づいてくる足音が一つ。少し慌ただしく重みのある、男の足音だ。
「ただいま、由鶴兄さん」
「おかえり、鶴義。今日も早いね」
「そりゃあもちろん。愛しい妹が待ってるんだから」
そう言って、現れた男は美鶴に顔を向ける。
目が合った途端、うっとりとその頬を染めて緩めた。
「ただいま美鶴。会いたかった……」
美鶴の傍に膝をつき、するりと頬に指を滑らせる。
その姿はさながら、姫君に愛を囁くおとぎ話の王子だ。
しかし由鶴との会話から分かるように、この男は決して血の繋がりのない他人ではない。
「おかえりなさいませ、鶴義お兄様。お早いお帰りですが、鶴義お兄様はサークルなどに所属されていないのですか?」
「そんな面倒臭いことはやらないよ。俺は三男とはいえ忙しい身だからさ」
男――鶴義は美鶴の三つ上の兄で、松浪家の三男というポジションを持つ、東咲学園の大学部二年生だ。ちなみに、意識のない美鶴を病院から家へ移そうと直談判した張本人でもある。
長男である由鶴があまり丈夫ではないため、社会人の次男と鶴義が家の仕事のサポートをしていることもあり、当人の言うとおり忙しい身だ。
松浪家は次期当主に指名される前から手伝いとして仕事をさせられる。それは代々伝わる教育の仕方で、いざ職場に就いた時に即戦力となるように仕事のイロハを叩き込んでいるらしい。
それ故に現当主の美鶴の祖父や次期当主の父親は職場に孫や息子が顔を出しても、評価はすれどスルーしている。公私混同するべからず、と若かりし頃に叩き込まれた賜物だろう。
「美鶴……やっぱり、寂しかった……?」
「いいえ鶴義お兄様。私は寂しいという思いより、有能な兄が誇らしいという気持ちでいっぱいですよ」
ふと美鶴の顔を覗き込み、眉を下げる鶴義が問う。
それに対して美鶴が首を横に振って微笑み掛ければ、鶴義は頬を緩めて美鶴の頭を撫でた。子煩悩よろしくデレッデレだ。
弟妹の戯れを微笑ましげに見守る由鶴の視線が暖かく、乙女に至っては「お茶をお持ちしますね」と慣れたようにその場を後にする始末。
これが兄妹の、松浪家の通常運転だという証だ。
「さて……と。それじゃあそろそろ昔話を始めようか。美鶴はそれが聞きたかったようだし」
「昔話? ……ああ、あの話?」
「そう。鶴義も付き合ってくれるかな」
「まあ今日は家で仕事する予定だったし、別に良いけど」
そう言って鶴義は美鶴の後ろに座ると、美鶴を軽々と抱え上げて胡座をかいた自らの足の上に乗せた。
「……鶴義お兄様、これは一体……」
「うん? だって美鶴、昔から由鶴兄さんの話を聞く時の定位置は俺の膝の上だっただろ? な、由鶴兄さん」
「そうだね。鶴義が美鶴にベッタリだったからね。小さい頃から」
……普通逆じゃないですか? とは、鶴義の兄としてのプライドのために黙っておいた。妹の前に兄としてのプライドがあるかどうかすらも怪しいが。
しかし座り心地はともかく、鶴義が重いと思わなければもう良いか、と早々に諦めた美鶴は真剣な眼差しを由鶴に向ける。
「由鶴お兄様、聞かせてください。私達の血筋のことや松浪の姫のこと、私が忘れてしまった全てを」
「……急にどうしたんだ美鶴。今までそんなこと気にしてなかったのに」
「鳳斗だってさ」
「鳳斗ぉ? チッ、あいつ本当に碌なことしないな」
「こら鶴義、口と人相が悪いよ。美鶴が怖がるだろう? それに、外に出ればいずれ耳に入る話さ。遅かれ早かれ、の話だよ」
「う……。ごめんな、美鶴」
由鶴の指摘に鶴義が言葉を詰まらせ、膝上の美鶴に溜め息交じりに謝る。美鶴が苦笑して首を横に振れば、ほっと胸を撫で下ろした。
美鶴としては、もう幼い子供ではないのだから怖がることはないのだが、由鶴が鶴義に見えないところでウィンクしていたところを見る限り、それは言ってはいけないのだろう。
前々から薄っすらと悟っていたが、どうやら男三兄弟の中で末の妹を特に溺愛しているのは鶴義らしい。
「鳳斗め……あいつはいつか締める」
何やら物騒な呟きが頭上から聞こえたため、やんわりと止めておく。
「大体、鶯はどうしたよ。いつもなら鳳斗なんか近づかせないのに」
「あ、いえ、その時鶯は先生と話しをしていて……それに、桐生君と接触してしまったのは私が気をつけていなかったからです。鶯は悪くありません」
「わかってる。ただ随身としてはどうかと思うわけさ。俺はね」
(また、随身……)
鶴義の怒りの矛先は次に鶯へ向けられた。
すぐに美鶴が弁護するが、鶴義は眉根を寄せて首を横に振る。
その厳しさは鶯が美鶴の随身だからか。幼馴染ということもあり鶴義にとっても弟分的な存在なはずなのだが、そこには兄貴分としての情はない。
「……」
「美鶴、そんな顔をしないで。こう言ってはなんだけど、仕方のないことなんだよ。松浪の娘を守ることが梅影の家に生まれた者の宿命だからね」
「宿命……?」
影を落とした美鶴に気づき、その理由を悟ったらしい由鶴が言う。
美鶴が顔を上げれば、由鶴は一つ頷いて静かに口を開いた。
「梅影家の話をする前に、まずは始まりの巫女姫の話をしようか」
由鶴が目を伏せて語る。
それは一人の巫女姫と鬼の出会い話。