序章
開け放たれた障子から差し込む月光と共に、柔らかな風に乗って淡い桜色の花弁がひらりと迷い込んだ。
少女は羽毛の詰まった布団越しに膝に落ちた花弁を摘まみ上げ、それをぼんやりと見つめる。
ゆるりと顔を月光を取り込む障子の向こうへ向け、少女は呟いた。
「ここは……どこ……?」
清潔に保たれた敷布団に手をついて立ち上がろうとした少女の体は、すぐに畳に膝と手の平を強打することになる。
少女は痛みに息を呑み、出掛かった声を噛み殺した。畳に両手をついたまま、微かに震えている指先を見つめて痛みをやり過ごす。
「美鶴……?」
不意に、少女が背を向けている襖の向こう側から男の声が聞こえ、少女はびくりと肩を揺らした。ドッと心臓が大きく跳ね上がり、突然の息苦しさに短く息を吐き出す。
息継ぎに必死になっていると、やがて襖が開け放たれ、人工的な光を室内に取り込まれる。目の前に自分の影が現れ、その時になって少女はようやく襖が開けられたのだと気づいた。
少女が恐る恐る背後の気配に目を向けると、光を背負った一人の若い男が立っていた。逆光であまり顔は見えないが、適度に引き締まった肢体が緩く着流した着物の上からでも分かる。
ピクリとも動かない男に少女は怪訝な顔を浮かべたのは無理もないだろう。
お互い一言も発さないため、居心地の悪い沈黙が二人を包んだ。しかし――少女にとっては幸いと言うべきか――それも長くは続かなかった。
「美鶴……」
先に口を開いたのは男だった。
先程も聞いた声と単語に、障子の向こうで聞こえた声はこの男のものだったのかと少女は頭の片隅で思う。
そしておそらく、続けて発せられた単語が自分の名前なのだろうとも。
仮にそこに第三者が居たならば、他人事のようだと少女のことを笑うのだろう。けれど少女にとって、今この状況は決して笑い事では済まない。何故なら少女には――。
「美鶴、目を覚ましたのか。よかった……」
「……れ、ですか?」
「え?」
「貴方は……誰、なんですか? 私は一体、誰なんですか?」
畳の上に座り込んでいる少女にほっとした声色で歩み寄ってくる男に、少女は弱々しい声で問い掛ける。
男はそれに目を瞠ってその足を止めた。
――松浪美鶴は、自分の名前、誕生日、血液型、家族構成に至るまで、生まれてから十六年間分の過去を全て失っていた。