大きな蟲を飼うことになりました
続けられません
「でかい虫だぁ?」
「おうとも。種類は知らんけど飼いはじめたんだ」
ツリ目の生徒が言う自信満々の一言。対して、眼鏡の生徒は唐突な言葉に呆れてみせた。清々しい朝の一日が訪れたっていうのに、第一声に友人から聞かされたのは彼が最も苦手とする虫についての話だったのだから。
「前々からお前が飼って長続きしなかったろうに」
「今度は大丈夫だって!」
「何の根拠があってそんな……とにかく俺は知らんぞ。虫なんて関わりたくもない」
「まぁ緑川らしいっちゃらしい反応だけどさー、もう少しアドバイス欲しいじゃん」
「だったら葉っぱでも食わせておけ。幼虫か成虫か知らんが虫なら葉っぱでいいだろ! 葉っぱ!」
吐き捨てるように言った眼鏡の生徒、緑川は心底友人の態度にうんざりしたようであった。ずっと彼に虫について訪ねていた方は赤場。彼らは5ヶ月前からの友人で、偶然にも同じ大学に進学したほやほやの1年生。
今はタノシイタノシイ一限目前の会話だ。ちなみに、全体的に席を見た時、中間辺りに座っている辺り彼らの性格は窺い知れるだろうか。
ぐーすかと眠りこける緑川を尻目に、昼まで時間は飛ぶ。
彼らは食堂に移動していた。彼らの通う大学は山の方に建っているため、紅葉と落ち葉が風に揺らめく様子が食堂から見える。こうした客観的な書き方ならば美しくも思えるだろうが、いちいち窓の外を見て黄昏れるような人間は一人も居なかった。まぁ、そんなものである。
「それで、その虫とやらはどんなやつなんだ」
「意外。聞いてくれんの?」
「一応はな」
ドドンとラーメンを挟みながらの会話である。
へぇ。ふぅん。そんな感じでニヤニヤとした赤場に、イライラの募る表情を隠そうともせず緑川が続きを促す。まぁ、見ての通りのどこにでもありそうな関係が彼らのそれであった。
「その虫拾ったのが昨日の夜でさぁ……」
赤場は昨夜、いつもどおりバスを経由し電車を使い、そして駅から自転車で自宅へと帰る途中、いつも通るはずの公園でそれを見つけたといった。公園の電灯が長椅子を照らし、ついでにその上に乗ってるホームレスのおっさんやら雰囲気を大事にするカップルやらが映るのは時折あることだったが、その日は違った。
代わりに、黒光りする半透明なタマゴが照らされていたのだ。大きさはだいたい腰の高さまであって、ぶよぶよとした殻は意外と割れない。興味本位からなんとかそれを抱えて家に持ち帰った所、次の朝には―――
「なんか幼虫っぽいのが生まれてたんだ! な、でっけぇだろ!?」
「色々と突っ込みたい所はあるが、証拠あるのか?」
「ほら! ってもタマゴだけだけどな」
赤場が携帯の画面をタッチして移した写真。
タイマーで撮られたそれには、ピースしたのんきな赤場とそいつが抱えて膝に乗せた巨大な半透明のタマゴ。中身は醤油をいれた水のように濁って輪郭も見えなかったが、確かに黒っぽい何かが居ることは確かであった。
「おぇ、気持ち悪いな。しっかしこのご時世科学が進んでると思ったが…」
「そういや緑川は妖怪とか好きだっけか。しかも性癖は人外好き」
「まぁな。だけど1メートル以上はある虫ってヤバイぞ」
「ん、なんで?」
脳天気な赤場に、まぁ知らなくても無理はないかと緑川が頭を抱える。
虫という種が形をそのままに、巨大な体を持った時は全生物の中で最強だと言われるのはよくある話だ。詳しいことは緑川にも分からないが、そういうものだと認識している。
それを赤場に伝えたが、彼は大丈夫だとの一点張り。これでは聞く耳持たぬばかりであるか。
「まぁ生まれた奴は可愛くてさぁ。ちゃんと育てるから安心しろって! 大体育てきったら何かすごい感じになるかもしれないだろ!」
「妙にぼかしてるな」
「そうか?」
「まぁいいさ。妙なことになりそうなら処分しろよ。痛い目見るのは自分だ」
「おっけーおっけー」
それから会話を切り上げた彼らはいつもの様に午後の授業を受け、いつもの様にそれぞれの帰路についた。どうにも赤場が次の日片腕無くしてしまってるんじゃないだろうかと、そんな不安が緑川によぎる。
まぁ所詮は妄想だ、と切り捨てられないのがあの不思議なタマゴとそれから生まれた虫のことだ。一応仲が良いとは思っていたが、それでも本当のことはぼかして伝えてきた辺り、まだ距離は遠いと緑川は感じていた。
時刻は夜に差し掛かる。電車を降りた彼が歩く道は、すっかり暗くなった自然公園の中だった。
「明日は土曜日休みの日……俺も何しているんだか」
気にならないはずもない。確かに緑川は現実での虫は苦手だが、それはワラワラとした小ささからくる生理的な嫌悪感ぐらいのものだ。具体的に言うと夏の夕方辺りに群れで人の頭の上やら溝の上を飛んでるワラワラした羽虫とか。あとはヨモギなんかにはっついているアブラムシ。
逆に大きな虫は彼は好きな方だし、ゴキブリくらいの大きさならそんなに嫌でもない。あくまで友人の前ではオーバーな態度を取ってしまっているだけである。
そんなこんなでテクテクと、電灯もついていない公園の道なき方を歩いてみる。そんな簡単に見つかれば良いが、まぁ無いだろうなとの現実的な考えのほうが彼の思考のウェイトを占めていた。
だからだろう。それを見つけた時、緑川は理解を超えて立ち止まってしまった。
「おい、おい。嘘だろ?」
あった。
当然のように転がっている。あの写真で見たものとは色も形も違うが、それは確かにタマゴだ。大きさは彼の身長に達するまでもないが、それでも赤場の言うものより遥かに大きい。緑川は自分の身長とおおよその検討をつけて、160センチはありそうだと結論を出した。
だがどうすればいいのだろうか。あの脳天気な赤場と同じく持って帰ってみようか? それとも、政府に連絡するなりしてしかるべき研究団体に引き渡すのはどうだろうか。
「……はぁ」
焦り、興奮、恐怖、考えうる限りの様々な思いがこもったため息が公園を撫でていく。きぃきぃきぃきぃと煩い鈴虫やコオロギ。そいつらの音が響く公園にペタッとマヌケな音が加わった。
「バリウッドのパニック映画何かじゃ真っ先に死にそうだな。眼鏡、モブ顔、目立たない、好奇心が強い……あーあー」
妙な怖さを誤魔化す独り言は仕方ないのかもしれない。結局のところ、持ち帰るという選択を取った彼は、ペタペタとした硬いこんにゃくのような感触を感じながら、意外と軽かったそのタマゴを背負って持って帰ることにした。幸いにも緑川が住んでいる場所は近くに田んぼが広がるような田舎だ。歩いているのは祖母を始めとしたご老人か、帰宅するための周辺住民だけだろう。
よっこらよっこらと背中を大きく傾けて、ガンガン膝に当たる手提げかばんを煩わしく思う。そんなこんなで10分ほど掛けてようやく自分の家に到着した緑川。ガラガラと車庫の扉を開けると、片隅にそれをドンと置いた。ちなみにご都合的であるが、今この実家で暮らしているのは祖母と緑川本人のみだ。祖母も訳を話せばわかってくれるだろうし、という打算もあってタマゴを持ち込む決断をしたのである。
近くに積み上げてあった捨てる予定のダンボールを展開すると、緑川は一人でせっせとタマゴを覆い始めた。脚立なんかも取り出して作業を進めていき、最後は冬将軍が到来するまでカバーを被っていたファンヒーターを設置する。
「これで、よしと」
虫のタマゴを鳥のタマゴと同じようにじっくり温めようとしている時点で盛大に間違っているが、ある意味で混乱状態の緑川にそんな事を考える余裕はない。祖母に今日は少し外行ってくると伝えた緑川は、そのまま車庫のダンボールハウスに毛布と布団を持ち込んで寝ることにした。
携帯でセットしたアラームは6時。仮にタマゴが孵ったとしてもすぐに対応できるように。思いの外暖かく、寝心地の良いダンボールハウスに小学生頃の秘密基地を思い出す緑川。一応は2メートルに近い高さの部屋を作る作業に疲れ、彼の瞼はゆったりと閉じたのであった。
その翌日、緑川は頬のびちゃりとした嫌な感覚とともに目が覚めた。寝ぼけたまま起き上がって時計を確認するが、まだアラームには速い5時を示している。何が悲しくてこんな速い時間に目を起きなければならないんだ?
そう思いながらもう一度布団にくるまろうとして、床に触れたねっとりとした液体が背筋を凍らせた。そして瞬時に思い出す。そう言えば、俺は昨日の夜に。
「き、き」
耳元で聞こえた擦り合う音。続いてぴちゃぴちゃと水が跳ねる音が背筋を更に冷やしていく。
拾って一晩。孵化した。どれもこれも赤場と同じ現象だ。そこまで考えた彼は錆びついたロボットのように音がした方を振り返った。
「き、き」
虫だ。でかい虫だ。
とっさに思ったのはそれ。何よりも核心をついた言葉に違いない。
「でも……人?」
続いて出た言葉も正解だった。
「あ、あいつがぼかしたのって、そう言う……」
「き、き」
「うぁ」
脚の一本がまたぴちゃりと液体を滴らせながら、彼の布団に移動する。
じぃっと顔を近づけたソレは不思議そうに、カクンカクンとコマ送りのような動きで緑川を観察していた。なによりも虫っぽいその動きと、動く度に擦れ合う虫の声が昆虫を髣髴とさせる。
或いはその巨大さ故に音が出てるだけか。ぼうっとした意識の中で緑川は硬直する。自分よりも大きな生物を目の当たりにして、勝てないと悟ったが故の反射的なものだ。動かそうにも、今度は人間が持つ恐怖の感情が彼の体を支配していた。
これから自分はどうなってしまうのだろうか。戦々恐々と相手の出方を待つしかない緑川に、その生命体が取った行動は覆いかぶさるというものだった。
声も出ず、食われるという想いを頭のなかに押し潰されながら目をつぶるが、待っていた衝撃は来ない。むしろ、あのタマゴのような重さが少しばかり腹部にあるだけで、体が傷ついたわけではない。
「え、はえっ?」
恐る恐る目を開けてみれば、例の生命体は緑川にもたれかかって目を閉じていた。死んでいるわけではないが、人っぽいパーツを見るに寝ているのだろうか?
人のパーツと虫のパーツが交じり合ったキメラ。半人の虫。なんとでも言えるだろう。だが、真っ先に緑川が注目したのはソレが持っていた巨大な腹部と8本の足であった。
「……蜘蛛?」
混乱が解けたわけではないが、命の危機ではないと知って緑川の思考にも余裕が出てきた。そのあまりにも恐ろしかったはずのソレを見据えて、蜘蛛のようだと断じた彼はもたれかかる「顔」を布団にぽしゃりとズラして落とす。その衝撃でも起きなかったソレに安堵すると、今度はマジマジと観察し始めた。
蜘蛛、のような体であった。全体はふさふさとした触り心地のよい黒檀色の毛で覆われている。大きさはタマゴの大きさに見合ったそれであるが、あれに詰めるには胴体や脚を含めてギリギリだろうか。加えて、ただの蜘蛛というにはあまりにもかけ離れた容姿。本来頭のあるところに人のような胴体がある。そこから上はしっかりと肩、腕。そして人のような首があった。
けれども、顔や手、肌はあまりにも人とは程遠い。目は、∴∴という形で6つの瞳が紅く輝いていた。顔は人間に似ているが、口元は唇が存在せず、上顎と下顎、そして耳元の辺りまで裂けた端には蜘蛛特有のキバが覗いていた。鼻は見当たらないが、人間で言う頭のあたりに触肢が二本生えている。これが鼻代わりだろうか。
最後に腕だ。人間と同じように指のついた手が二本。蜘蛛の方の八本脚とはまた別に付いている。しかし指の先は爪も皮もなく、代わりに鋭い爪のようになっていた。人を殺傷するのは容易いだろう。
「……リアルだとこうなのか」
緑川は人外萌えではあったが、この異形と称したほうが近い蜘蛛の生命体をじっくりと観察した結果、気持ち悪くはないが美人でもないなという謎の結論を下す。もっとも、人間の顔の判断基準になるものが排除された顔。そしてオスかメスかも分からない化物なのだから仕方あるまい。
パシャッと一枚を撮影した緑川は赤場へとメールを送った。
お前の言ったとおり、こっちにも居たぞと。