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ある夏の暑い日の

もしこんな風だったら、生活は面白いかもしれない。なにもないところにはなにがあるのかな? と思いたくなる話です。

   ミエルキコエルフレラレル

  

「僕は、おかしくなったのかな」

 独り言というものを初めて口にした気がする。どことなく気恥ずかしく、また馬鹿げている。他人から見たら、きっと間抜けにも見えることだろう。しかし、独り言のつもりだった言葉は何故か返答を受ける。

「どうして?」と聞き返された。すっ呆けているのか、単にわかっていないのか、声の主は、全くわからないと首を傾げる。

 融は驚嘆した。驚いて、二三歩後ずさってしまった。心臓がばくばくいっている。家の近くの田んぼの傍にいた。六月の中頃。まだ梅雨が来なくて、その日はとても暑かった。暑いにも関わらずまだ早いと母はエアコンのスイッチをオンにしてくれない。今夜もきっと寝苦しい夜だろうな、とうんざりした想像を青空の空に思う。まだ夕方前だ。

 田んぼでは、まだ青い稲がすくすくと育っている最中だった。それは田んぼに限らない。夏を前にして、田んぼの周りの畦道やその間で雑草が繁茂しようと勤しんでいたのだ。

 そのお陰で、そこから見える一面の田んぼの景色は非常に青々としていた。空は、今日も晴れていて、まあ、そこだけ見れば夏の一場面でも相違なかった。融自身今は半袖短パンに近い格好をしている。

 融はそんな田んぼの間を縫う小さな――飛べば飛び越えられそうな――用水路に架かる石橋の上にいた。古いものかどうかはわからないが、昔のアニメでも見たこともある長さにして二メートル、幅も二メートルほどのコンクリートの特に特徴もない橋だ。いや、かろうじて、橋だ。

 その橋の一端に融はいた。融に続いて、橋を渡ろうとしてくるその人を見ていた。

「君は全然おかしくないと思うよ」とその人は言った。微笑みながら、融を見下ろしている。彼女の方が融よりも背が高いのだ。


 今朝のこと。融が母親に声を掛けられて夢から醒めて起きると、なんと部屋に知らない人がいた。融の寝ているベッドとちょうど対角の位置の部屋の隅で何やら黒っぽいゆったりした服を着て、ぼんやり視線を下げている女の人がいた。

 融は今年から一人で自分の部屋で寝ていた。初めは、何か幽霊とか出るんじゃないかとドキドキしたものだが、そんなことはなかった。ほっと安心する反面、僅かな寂しさもあった。一人で寝たら、何かあるんじゃないか、と思っていたからだ。融の中でゆっくりと現実というものが形成されつつあった。

 だから、実際に何かが起きて、見知らぬ人が融の部屋の隅っこにいて、それに気づいたときは、朝の寝起きにも関わらず、心臓が跳ね上がって、叫び声を上げ、反射的に壁の傍まで後ずさりした。朝、忙しい母はもうすでに階下に降りていっておらず、部屋にはその人と融だけだった。

「ああ、起きたんだね。おはよう」やわらその人は顔を上げて、どこか頼りない笑顔で言った。綺麗な人だった。年上だろう。整った顔立ちに左右で金と銀の目、外国人なのか銀髪の毛が垂れていて、ゆったりしていた服はスカートのようだった。

 何故、女の人が、しかも外国人らしき女の人が融の部屋の隅っこで体育座りをしていたのだ。

「そんなに驚かなくてもいいじゃない?」とその女の人は微笑む。彼女の横顔に窓から射し込む朝日が当たり、髪の毛が綺麗に輝く。その左の金色の目も輝く。

「融、どうした?」ふいにそう声を掛けられて、その方を向くと、部屋の入り口のドアに父が立っていた。背の高い威圧感のある父が、寝ぼけて阿呆な馬鹿息子を見る時のような、いつもの困った顔をしている。

 融は、救世主が来たといわんばかりに部屋の異常を示そうとする。が、慌ててしまって口がとっちらかって、結局ただぶるぶると部屋の隅を指差すに至った。

 しかし、そのときには、もうそこには何もいなかった。父の方に顔を向けた一瞬の内に、まるでワープしたかのように、消えてしまっていた。融は驚いて目を見開く。奇術を眼の前で見たときなどと比べ物にならない。

「あ、なんだ?」と父は融の部屋に入り、融が指差すほうを見る。当然ながら、何も異常はない。

「あ、いや、さっき、そこに……」女の人がいた、とは言えなかった。言ったら、きっと親はさらに融を変な目で見てくるに違いない。それに女の人、だ。父が意味深な笑みを浮かべるかもしれない。それは何か、嫌だ。

「虫がいた、ように、見えた。多分、見間違いみたい」と笑みを浮かべた。

「朝から、騒がしい奴だな」と父は機嫌よく鼻で笑って、去っていった。階段を降りていく。

 融はぱっと起き上がり、恐る恐る女の人がいたように見えた部屋の隅に近づく。先ほど、日が女の人を照らしていたように見えた朝日は今、その辺りの床を照らしている。

 見間違い、だったのだろうか。融は部屋の隅に手を伸ばすが、そこには当然何もない。手を動かしてみても空を切るのみだった。

 寝ぼけていた、ということは考えられる。以前も、朝目が覚めて、ベッドから起き上がり、ふと学習机の上を見ると、そこにキラキラ光るトランペットが置かれていたことがあった。なんだこれは、とまじまじと見ても、それは朝日に輝くトランペットにしか見えなかった。何でこんなものがあるのだろうと、目を擦り、立ち上がるとそれの正体は、くるくると纏められたゲーム機の充電コードと窓から射し込んだ光の加減ということがわかった。トランペットの太い管の部分は光加減で、細かい管は充電コードが偽装していた。朝のある時間、ちょうど融がベッドから上半身を起こして、机を見るその角度のときだけ、そこに幻のトランペットが出現するのだ。正体を知ったときの驚きと、落胆と、寝ぼけ眼の確か性の無さは今もはっきり覚えている。

 それと似たようなものだろうか。

 いやいや、さっき、女の人は話しかけてきたではないか。驚きすぎて何の返答もできなかったが、確かに聞いていた。融の耳にはまだ彼女の声が残っている。なんといわれたかも覚えている。それも朝の寝ぼけた頭が生んだ幻だというのか。

 考えてもわからない。融は首を傾げながらも、部屋を出て、朝食を食べに行った。寝起きすぐは夢の内容を覚えていて、それから次第に忘れるのと同じように、学校に行く頃には、融は朝の現象を気にしなくなっていた。忘れたわけではないが、どうでもいいことになっていた。


 そして話は戻る。

 昼を過ぎ、三時半には家に戻ってきて、外に出かけ、田んぼの向こうの友人の家に行こうとして、それならば田んぼ道を突っ切ったほうが早いと思い、駆け出して、暫くして、ふと振り返る。いやな予感めいた何かがあったのだ。融に予知などと言う超能力めいたものはまるでない。だから、本当に何となく、何かがあるような気がして振り向いただけだ。実際のところ何かあるわけもないとおもっていた。が。そこにいた。

 朝の女の人だ。銀髪に左が金、右が銀の双眸。朝は体育座りをしていたためにわからなかったが、彼女はドレスのような服を着ていた。洋風のそう、歴史に出てくるような、腰を細く見えるドレスだ。手首の袖口はひらひらと広くなっていて、スカートは膝下まで長く、ふわっと広がっている。白いシャツみたいなひらひらの服の上に黒いドレスを着ている、そんな感じ。融には、どうみたって変わった人にしか見えない。ここは日本で、田んぼが広がる田舎だ。

「僕はおかしくないんだ。じゃあ、お姉さん、何?」

 橋を挟んで融は、怪しげな女の人と対峙する。ひょっとして今自分は危険と隣りあわせをしているんじゃないかと考える。そう思うと、ちょっとドキドキする。このドキドキは半分がわくわくだ。

「わたし、何だと思う?」

「今朝、僕の部屋にいた、よね?」

 融はもし女の人が橋を渡って、何かして来ようものなら一気に駆け出して逃げられるように、両足を肩幅まで広げ、少し腰を落とす。

「いたかもね」心なしか彼女の笑みが妖艶なものに思えた。わからないが年齢は高校生か中学生ぐらいだろうか。とりあえず大人とは思えない。でも、子供ではない。

「消えたよね?」

「消えたね」女の人はにっこりと笑う。妖しさがにじみ出ている。

 融は自分と彼女の話が通じていることに気がついた。なんだこの変な状況。所謂怪奇現象なのだろうか。まだ日は高いし、鬱蒼と茂る森の中、というわけでもなく、日が照りつけるその下であるというのに。

「お姉さん、ゆ、幽霊?」いつでも走れる準備は出来ている。ただ短距離走はあまり自信がないので不安は残る。

「幽霊じゃ、ないかな~」ぴんと人差し指を立てて、それを唇の下に当てて、少し顔を上げ、考え込んで言う。

「じゃ、危ない人?」そう云う自分の声が震えている。もうすでに妖しい人に危ない人というのは何とも間抜けな質問に思えた。例え危ない人であったとして、はぐらかされても、ちゃんと正直に危ない人ですと言われても、どちらでもその後はこちらが困るしかない。

「わたしが、そう見える?」彼女は両手を腰の後ろにやって、小首を傾げる。

「妖しい人、には、見える」詰まりながら、融は答える。そしてはっきり言ってしまったことにちょっと申し訳ないとも思う。

 女の人は、顔を下げ、クスクスと漏らし、やがて肩を震わせた。顔を上げ、こちらの向いて、にやにやした顔でこう言った。

「そうかもね。君には、そう見えるかもね。でもわたしは危ない人でも、怪しいひとでもないよ」

「じゃ、じゃあ、何?」

 女の人は、こつと足を前に出した。今になって気づいたが、彼女はブーツを履いていた。彼女のブーツが一歩、石橋を踏みしめる。それに続いて、二歩三歩あっという間に女の人は融の眼の前に来た。融は頭を上げる形になる。

 つい、逃げるのを忘れていた。彼女が近づいてくるのを黙ってみていてしまっていた。体全体がびくびくと震え強張る。

 彼女が次に口を開くのは、どんな恐ろしい言葉だろう。融は身構えた。もし、今自分が不思議で危険な体験をしているとして、今の状況から逃げられても、その後が怖い。夜に怪物にでも襲われたら、怖くて、怖くて、泣き叫んで気が狂いそうだ。こんなことって本当にあるんだ。テレビの中だけじゃなかったんだ。と次々言葉が浮かんで消える。首筋をはじめとして体全体に嫌な冷たい汗が流れる。

 が、彼女は融の想像の範疇外のことを口にした。

「わたしは、神様だよ」とその女の人はにこっと笑ったのだ。

 融は蝉か何かが鳴いたような音を聞いた気がした。ああ、ついにか、などと考えた。青空を飛行機雲が煌きながら伸びていっていた。今日は本当に暑かった。


 頭がくらくらした。融は駆け出して、近所の公園の木下にいた。そこで休憩していた。一か八かだった。彼女の言葉に呆けていた自分を叱咤激励して、融は今までに出せたことのない瞬発力で女の人の脇をすり抜けた。そして、そのまま全速力で走って、走って、けれども家に着く前にその手前の公園で果ててしまった。もう無理だ。

 木下の日陰で膝に手をつく。肩で呼吸する。周りの空気がむわっと温度を何度も上げたかのように熱い。息が苦しい。でも、周囲には誰もいなかった。公園には遊具があるが、今は誰もいない。逃げ切れた、のかな。家まで逃げ切れば、母にこのことを言えば、きっと大丈夫なはず、という節があった。けれども、朝自分の部屋で彼女を見たことを思い出し、自分の家が安全であるとも思えなくなってしまった。ああ、どうしようと、叫びたくなったそんなとき。

「この暑いのに、そんなに思いっきり走ったら、倒れちゃうよ」と声がふわりと聞こえた。

 首が折れるか、と思うくらいに首を振って声のしたほうを見れば、すぐ横にあの女の人がいた。彼女は息も切らしておらず、走ったような形跡も見られず、何故そこにいるのか、何もかもが常識外だった。

 腰に手を当てて、困った子を見るような目をして、ふんと鼻を鳴らす。

「全速力で逃げなくてもいいじゃない。それ意味ないし」忠告の、つもりだろうか。

「だって……」息が上がって、言葉が続かない。全身が熱と倦怠感でぐったりする。もう走ることはできない。

「だって?」

「ふう、はーっ」無理矢理に呼吸を整えようと頑張って、手を膝から離し、背を伸ばして、彼女を仰ぎ見る。逆光でちょっと眩しい。

「……だって、神様、なんて自分のこと言うなんて怪しい人にしか見えないじゃん」

 女の人は、融の言葉を聞いて、腰に手を当てたまま、融を見下ろしたまま、ぷうっと頬を膨らませた。すねているように見えないこともないような表情。

「わたしは、人じゃないって言ってるでしょう」

「じゃあ、何なのってさっきから言ってるじゃん」

「だから神様だって」

「じゃあ、神様らしいことしてよ」

「いいよ。何がいい?」

 応酬の結果、融の番で言葉に詰まることとなる。神様の証明として何がいい、といわれて即座に出てくるわけがない。数秒間の沈黙の後、融は、

「フルーツジュースが飲みたい」と彼女の顔を見て言った。本当は信じていない。魔法とか、悪魔とか、異世界とか、そんなものは、みんなゲームや本やアニメの世界だけだと。だからそれにかぶれた人が出てくるということも。目の前の人もきっとそんな感じだろう。見た目はそんな風に見えても、見た目だけだ。魔法とか、そんなのない。だから彼女が融の望みを叶えられず苦々しい笑みを浮かべるだろうと予想しいた。

 それなのに、女の人は事も無げに「いいよ。はい」と返事した。彼女は融に手を差し出す。反射的に彼女の手からそれを受け取る。融はぽかんとしながら、受け取ったものをみる。透明なプラスチックのカップに何かの液体と氷のようなもの、そしてストローの刺さった何かが融の手の中にあった。

 今融が口にして、今、彼女が融に差し出した何か飲めそうなもの。それをもっている融の手はプラスチック越しに冷たさと垂れる水滴を感じてる。これは何だ?

「どうしたの? フルーツジュースだよ」

「え……え?」混乱する。さっき、彼女は手に何も持っていなかった。それは確かに見たはずだ。ではこの手がもっているものは、何?

「飲んでみなよ。欲しかったんでしょ」

 ん? と女の人は頷く。

 融はまじまじとそれを見る。中の液体は白とオレンジ色が混じったような色合いをしている。ひんやり冷たいのはわかっている。けど、飲んで大丈夫なの、かな。

「毒なんて入ってないよ」

「え、あ、うん」と促される。

 正直、融は大変喉が渇いていた。できれば眼の前の冷たそうな液体を飲んでみたい。けれど……。

 思考は本能的な欲求に勝てなかった。融はストローに口をつけた。ちゅーと吸って、その液体が融の口に流れ込む。それは冷たくて、甘かった。舌の上で、オレンジやパイナップルやメロン、ひょっとしたらバナナの味が飛び跳ねて混ざり合う。まがうことなきフルーツジュースだった。しかも今まで飲んだことのないほどに美味しい、そのまま一気に飲み干したくなるようなフルーツジュースだった。

 ズボボボと数瞬でカップの中のジュースは空になった。とても美味しかった。舌はまだあの味を探していた。しかしもう空だ。そんな名残惜しい緩みきった気持ちにはっと気づいて、融は顔を上げる。女の人がこっちを見て得意げな笑みを浮かべている。

「どうだった?」

「お……美味しかった……です」

 融がそう言った瞬間、彼女は顔を近づけてきて破顔した。

「そ。よかった」

 彼女の一言に、急に恥ずかしさがこみ上げてきて、融はさっと目を逸らす。

「わたしが、神様って信じてくれた?」

 融はちらっと横目で彼女を見る。何だかバツが悪く融はぼそぼそと言葉を出す。

「よ、よく、わかんない」

「えーなんで?」上の方から不平不満の声が聞こえる。「フルーツジュース出すっていう神様らしいことしたでしょう?」

「いや、だって、ジュース出す神様なんて、そんなの聞いたことないし」融は彼女を見ないまま、左斜め前方を逃げるように見る。

「君が言ったんじゃない。ジュース出したら、信じるって」

「信じるまでは言ってないし」

 暑さのせいか、緊張の糸がちょっと張ったような気がしたが、やがて、それを弛ませる諦めのため息が聞こえた。「はあ、まあいいわ。今のところは」

 融はちょろっと顔を上げて彼女の顔色を伺う。

「じゃあ、とりあえず、今は必要なことを言っていくね」そう彼女は話題を変えた。

「わたしはね。わたしは、しばらく君の傍にいることになるからね。他の人には見えないし、わたしの声は聞こえない。触れられるのも君だけ。あとわたしの名前は、陸。漢字ね。大陸の陸。これからよろしくね」

 陸と名乗った女の人は、握手と手を差し出す。

「え?」融は口を開けたまま、彼女を見上げてぽかんと固まる。

 この人は今、何を口走った? 反芻する。先ほど糖分を得た頭は、高回転するギアに質のいい油を差されたかのごとくよく回る。しばらく一緒にいる? 名前は陸? 他の人には、見えも聞こえも触れられもしない? しかし頭がよく回ってもただ回るだけで、そのおかげで答えを導き出すことはなく、意味がなかった。わからないものはわかるはずがない。全くもってわけがわからなかった。

「え? って、握手よ。握手。ほらっ」

 促されるまま、何もわからないまま、融は手を差し出す。そして彼女の手に触れ、それを握る。確かに触れた。実体がある。ただの人間だ。間違いない。掌に温かみもちゃんとあるじゃないか。

「よろしく。君名前何ていうの?」

「よ、よろしく。ぼ、僕は……」名前を言っていいのか、まずないのか。まだ融は危ぶんでいた。

が、ん? という陸の笑みについ、

「僕は、間融、です」と言ってしまった。

「うん。あいだとおるか。いい名前だね」友人たちにはいつも、とける、と呼ばれている。これはちょっと屈辱だった。とおる、と呼ぶのは両親や親戚ぐらいでそれ以外でそう呼んでもらうのは久しぶりな気がした。ちょっと嬉しくまたそう感じたことが気恥ずかしい。

「わたしのことは陸って呼んでね。神様だけど呼び捨てでいいから」

「陸?」と確認の声を融は出す。

「うん。そう陸。そういえば融。融はさっき友達の家に遊びに行くつもりじゃなかった?」

 陸に言われ、融ははっと気づく。学校帰りに、遊ぼうと約束していたのをすっかり忘れていた。まあ、誰のせいといえば、目の前にいる陸とか言う変な女の人のせいなのだが。

「あ、そうだった」

「でしょ。じゃあ、行ってきなさい」陸はそう言って融の両目を塞いできた。うわ、何をするんだ、といわんうちに手をどかされ、そして驚いた。その場で腰を落としてしまう。

 融はさきほどいた田んぼの中の小さな石橋の端っこにいた。今の今まで公園にいたはずなのに。

 目をしばたいて、周囲を見渡す。どこもおかしくない。また陸はどこにもいなかった。まるで今のこと全てが夢――白昼夢であったかのようなほどにさっぱりとその景色の中には何も違和感はなかった。空には一本の長い飛行機雲が遠くまで引かれていた。

 しばらく呆然として、融は友人宅への道を歩き出した。その段で、気がついた。右手が、さっきのプラスチックカップをもったまま、だということに。ストローがついていて、中身は空っぽの、恐らく美味しいフルーツジュースが入っていた、プラスチックカップの。

 融は辺りをばっと見渡して、でも何もなくて、それでもいてもたってもいられなくて、友人宅に向けて走り出した。思いっきり走った後とそっくりに、体がだるくて悲鳴を上げた。


 

 友人のすぐるの家で遊んで――その間も融は、心の中がもやもやしっぱなしで、どこか心ここにあらずで――夕焼けが落ちる前ぐらいに帰路に着いた。公園を越えて、幅広の路地に入って、自分の家が見えてくる。そして、見たくないものも見えてきた。それを見て、融は顔をしかめればいいのか、怒ればいいのか、それとも嬉しいのか、複雑に絡んでわからない。

 見たくないものが見える。正確に言えば、ああ、やっぱり見えるのだ、見間違いでも勘違いでもないのだ、頭がおかしいのかなあ、あそこに人がいる。こっちを見て手を振っている。場違いな黒いドレスに銀の髪の毛。目立つからやめてほしい。いや、他の人には見えないんだっけ。

 陸が、融の家の駐車場の前で立っていて、恐らく歩いてくる融に向かって手を振っていた。

「おかえりー」と彼女は言う。

 融は彼女の前まで行って、彼女の顔を見上げる。

「僕は、何も見ていないっ」融はそう叫んで、また同じように彼女の脇を擦り抜けて、家の玄関へと走っていった。すぐにドアを開けて、自分の体だけを通せるぐらいしか開けないようにして、中に入ったら、すぐ閉めて、そのまま、自分の部屋へと駆けて行った。部屋に入るとき、暑いために開けっ放しにしていた戸を後でに閉めて、電気のスイッチを入れて、そこで固まった。自分のベッドの上に陸が得意げな顔をして座っていた。何故か鼻歌も歌っている。彼女はブーツを履いたままだ。

「おわ、うわわああ」

 どたどたと融は足踏みする。

「融は騒がしいな。走ったり叫んだり。いい加減諦めなよ」

「え、ええ、だって、そんな、むり。むり絶対むり!」

「わたしは別に驚かせるつもりなんて何もないんだよ」と陸は首を傾げる。しかし彼女は僅かに微笑んでいるように見えて、それが何となく悪戯をたくらむそれに似ていると、融は思う。

「い、いや、絶対、たくらんでるし。僕を驚かせようとしてるし」

 ふふふ、と陸は笑う。こちらの反応を面白可笑しく思っているのは、見え見えだ。

「ばれちゃったかな」

「ばればれだよ」

 彼女はすっと立ち上がる。胸が鼓動が聞こえる。自分の部屋に女性がいるというのが、恥ずかしいのだけど、ちょっと嬉しい、満たされるような気持ちになる。居心地が悪い。

「なんで、僕に付きまとうの?」という自分の声が少し上ずっている。動揺を悟られまいとこちらに歩いてくる陸を睨む。

「だから、言ったでしょ。しばらく君に傍にいるって」

「その、理由が知りたい」

「まっだ、君に、は、おしえない~」陸はにこにこ笑みを浮かべて歌を唄うように、声を出す。

 融は何なんだこの人は、と思った。融が今まで生きてきて、その間に築かれた世界に敷かれる僅かな常識を軽々と飛び越えて、彼女は遥か空の上を自由気ままに散歩しているように思われた。

 彼女の背後で、夕焼けを越えて、空が暗くなっている。それは世界が日常の何事もない中にあることを示していて、いつもと同じ日々の、自分もその中にいるとわかって、少しほっとする。

 では、眼の前のこれは一体何か。

「……靴脱いで」融は呟く。

「え? ごめん、なんだって?」

「だから~。靴を脱いでって。ここは僕の部屋の中でしょ!」

 融が叫ぶと、陸は固まって、ちょろっと自分の足元を見下ろして、「ああ」と殊更に驚いた声を出す。

「ごめん。君を驚かせようと、そればかり考えていたから、忘れてたよ。ごめんね」そう彼女は言って、腰を折って、ブーツに手を触れた。やっぱり手繰らんでたんじゃんか、と融が心の中で思っている内に――彼女の手がブーツに触れた瞬間に、ほんの僅か彼女はすとんと下に落ちて、そのとき、恐らくブーツの影が消えた。消えてしまった。

「あ、消えたっ」

「うん。消した。大丈夫。部屋のカーペットは汚れてないから」

 そして陸は「ほらほらー」と片足をひょいと融の前に伸ばしてきた。彼女は黒いストッキングを履いていたようで、黒い艶のある足先を融は見つめることとなった。確かに、もうブーツは履いていないようだった。本当に消えてしまっている。

 それよりも、何故か彼女の足先から目が離せなくなってしまった。彼女が足を下ろしても融はそれを追ってしまう。

「ね、消えたでしょ。これでいいよね」

 一体全体何が良いというのか。融は勤めて冷静になろうとする。心臓は少し普段よりうるさい。

「まあ、そう気張らずに。落ち着いて話そうではないか」陸は何様のつもりか、まるで自分の部屋のもののようにベッドの傍まで戻り、そこにすとんと腰掛ける。ベッドがぎしっとなる。寝返りを打つだけでぎしぎしいう安いベッドなのだ。

 融は彼女を睨みながら、学習机のイスを引いてそこに座る。

「僕は相変わらず、何にもわからないよ。神様とか、今までそんなの見たことなかったし」そもそも信じてもいなかった。いるなんて、思っていなかった。

「よかったね。今日見ることができて」彼女は笑顔だった。それも夕日も落ちた窓の外をバックにして、とても明るい太陽のような。

「神様ってそんななの?」と融は陸を指差す。顔を指差したら何となくいけないと思い胸元を指差す。が、それも変だった。

「何?」陸は自分の胸元を見て、首を傾げる。

「神様ってもっと、えっと、おっさんみたいなじゃないの?」どうして、神様と名乗る人がちょっと年上の女の人で、それも黒いドレスなど着ているのだ。場違いにもほどがある。どちらかと言えば、魔女だろう。それならまだ納得できそうなのに。いや、きっとすぐに納得できる。

 それにしても、神様をおっさん扱いしてしまったことにちょっと後悔する。、罰が当たりそうだ。どう悪口を言おうが、そんなものいない、といつもなら思うのだけど、今はちょっと違うかもしれない。何かそれっぽいものが眼の前にいる。

「おっさんの神様ばかりってそれ嫌だよね?」何故か陸は質問で返す。それはどこか剣呑としている。

「さあ、どうなんだろ」はっきり嫌だね、とは言えない融だった。

「じゃあ、融はわたしよりもおっさんに付きまとわれた方がいいって思うわけ?」

 いわれて、融は想像する。何故か、想像上の神様は働く大人で、白いシャツにネクタイをしていた。髪の毛をしっかり分けていて、融に向かって笑う。

「どっちも変だな。でもいてもいいかも」

「何よ。それ」陸は口を尖らせる。

「僕には兄って人がいないから、いたら良いなあって」

「姉は?」

「いないよ」

「じゃあ、それでいいじゃん」とまるで不平不満を口にしたのを悟らすように、文句を言う。今、陸の言った、それって何だろ、と融は考える。

「姉がいたってさ。そう、お姉ちゃんがいるって思えばいいよ」

「急に現れて、そんなこと言われても」

 彼女の言葉を聞いて、ああ、姉のことかとわかった。ただ、それは言葉がわかっただけだ。状況は全くわからない。

「すぐ慣れるって」

 融は頭の中がこんがらがる。彼女と話していると、自分の予想の範囲を超えた返答をもらってしまって、それがあまりに突飛すぎて、どうすればいいのかわからない。

「り、陸?」融は昼間は呼んだ彼女の名前をもう一度呼ぶ。やはりちょっと恥ずかしい、呼び捨てでいいのかな、と。

「うん? 何かな?」彼女は相槌を打つ。

「陸ってさ、本当に神様なの? なんていうかすごい……」その後の言葉が出てこない。融は言葉が出てこず、ウンウンと詰まってやっとのことでそれっぽいものを見つけた。「――すごい、人っぽい。変わった」人っぽい。

「融は神様を見たことがなかったんでしょ。だったら、わたしみたいのが、いるかどうか、なんてそもそもわからないでしょ?」

「でも、神様ってよくもっとこう」融はイメージとして、白い布を巻いた、金髪の人たちを想像した。それはどちらかと言えば天使に近かったが。

「もっとこう、仰々しいものじゃないの」

 陸は首をかしげて悩ましげに目を上に向ける。

「神様だって沢山、色んなのがいる。融が知らないような神様が一杯。それにそんなじゃ融、疲れちゃうよ、きっと。仰々しい格好の神様とずっと一緒じゃ。かたっくるしいしね。それにきっと変って思う。わたしも、あんな着飾った格好好きじゃないし」

 今着てる服は、好みで着てるんだ、と融は思った。それはちょっと不思議な感覚だ。神様なのに、好みがあるなんて。何者も満遍なく愛するとか、そんなんじゃないんだ。

 それにしても、

「陸の格好も……」十分、変わってる。

「わたしはこれが気に入ってるもん」ぷいっと彼女はそっぽを向いた。

 やっぱり、どう見たって神様には、見えないのだった。どこかにいそうなけれど少し変な女の人、にしか見えない。そんな人と会話しているように錯覚してしまう。巧妙に騙されてるんじゃ、と思いたくなる。

「さっきの話、だけど。僕の傍にいるってのは、いつもってこと?」

「いつもってこと」

「学校行ってる時も」

「時も。あ、他の人には見えないからね」

「何で?」

「秘密だっていったでしょ」

「本当に見えないの?」

「それは後で確かめてみればいいんじゃない?」

 何から考えればいいのか、わからない。ああ、いっそベッドに入って寝てしまおうか、と考える。

「陸、ご飯とかは?」

「いらないよ。寝床もいらないし」

「どこかに行くの?」それは僅かながらに、希望だった。が。

「行かないよ。わたしもここで寝るし」

 寝床の言葉に反応する。今朝の明るさが網膜に浮かび上がる。

「そういえば今朝、そこで寝てたよね」融はイスを回転させて斜め後の部屋の角を指差す。彼女が今朝いた場所だ。

「うん。寝てたよ」彼女の反応は事も無げだ。

「まさか、今日もそうやって寝る気?」

「そのつもり」

「神様がそんなんでいいの?」

「残念だけど。神様だからそんなのでも十二分に寝れるんだよ。それに別に寝る必要って強いてあるわけじゃないしね。寝るのは好きだけど」

 なんともいえなかった。陸の言っている事が全部本当だとして、そんなので本当に大丈夫なのだろうか。

「……ふうん」融の気分は少し沈む。声がとろんと落ちる。

「本当に?」そう訊ねたのは、勝手に押しかけた相手にだけども、融はちょっと申し訳なさを感じていたからだ。

 彼女はクスっと笑う。

「大丈夫だよ」

「そう……」

 陸は下から融の顔をのぞきこむように見てきた。

「どうした? そんなに気にすることだった? 急にしおらしくなっちゃって」

 融はぷるぷると首を振る。

「傍目に見えたら、僕がひどい人に見えそうだなって。自分だけベッドに寝て、年上の陸は部屋の隅っての」

 融がそう言うと、陸はすくっと立ち上がった。そして融の背後に廻って、肩に触れてきた。両肩に恐らく彼女の両手が置かれている。そして肩をぎゅっと握られた。思わず声が出る。

「いたいっ」

 融が叫ぶに構わず、陸は肩を親指で揉み続ける。ただ痛みしか感じない。

「やめっ、痛いって」

 背中から笑い声が聞こえる。もう一体何なのだろう。痛みに反応して融の肩がガクガクと揺れる。

 やがて彼女は融の肩を揉むのを終えたのか、二度肩を叩いた。

「よしっ」となにやら満足げな声が聞こえる。融はイスを回して陸の方を向く。彼女を見上げる形になる。

「もう、何するんだ!」融は自分の肩をさすり撫でる。本当にとてつもなく痛かったのだ。

「融はいい子だね。まあまあ、そう考え込みなさんな。徐々にわかってくるんだからってことさ」と陸は満足そうにそう言った。今の行動が何を意味しているのか、さっぱり融にはわからなかった。ただ何故か褒められて無性に恥ずかしくなる。彼女に会ってから今日は、恥ずかしがってばっかりだ。

 溜まったというか納得しないことを吐き出すかのように鼻で息していると、ふと時計が目に入った。時計の針が融の思っていた以上に未来に進んでいた。

「あ、宿題しなくちゃ」自分で言った言葉によって急に現実に引き戻されるようだ。一瞬陸という名の神様がいたことも夢のように思えて、瞬きしたが、彼女が消える、なんてことはなかった。その時の融の気持ちは表立っては残念だったが、よかった、とほっとしているという気持ちも多分にあった。

 しかし彼女が消えてなくてその時に感じた暖かな安堵が何に至るものか、までは理解できなかった。

「あ、わからなかったら、わたしが教えてあげるからね」またもや彼女は得意げな笑みを浮かべて自分自身の頬を指差した。腕に纏うドレスの広がった袖がひらひらと舞う。

「……わからなかったら、ね」ぶっきらぼうに融は釘をさし、目も机に逸らす。意地でも全部解いてやろうと意気込んだ。

「よし、その息だぞ。融」と陸は融の肩を叩いて笑う。

 陸に、融の意気込みはどうやら見透かされているようだった。

「でも、わたし融の融にしか見えないお姉さんだから、そのときは、まかせなさいよ」と彼女は言う。

 そのとき、彼女の言葉が甘美に聞こえたなど、ちょっと嬉しかったなど、融は雨の一粒ほども感づきはしなかった。


 宿題を粗方終えた頃に、母に夕食と呼ばれた。イスから立ち上がり、部屋にいる陸に問いかける。

「どうするの?」

「わたしは、ここにいるよ」

「じゃあ、電気点けとく?」

 融は部屋の蛍光灯のスイッチに触れる。

「消していいよ。消してないと変でしょ」

 確かに、家族が誰もいないのに電気付けっぱなしの部屋を見たら母はきっと怒るか、そうでないにしても注意されるに決まっている。

「じゃあ、そうする。陸がいいなら」

 そう言って融は電気を消して部屋を後にした。電気が消えた部屋を振り返ると暗がりに彼女の姿は見えなくなってしまう。融はやっぱり何だかな、と思ってしまった。結局、再度電気を点けてみた。

 ブウンという音と共に部屋が照らされる。陸は融のベッドに腰を下ろしてニコニコしていた。

「君は一体何をしているんだい?」

「やっぱり、悪い気がして」

 これだとまるで猫か何かを隠して飼っているようなそんなものに似ていると思ってしまうのだ。それを自称でも神様に対して行うのは、甚だおこがましいことに思えた。

「……じゃあ、わたしも付いていってあげるよ。ほんと、しょうがないなー」

 陸は立ち上がり、融の前までやってくる。

「ほら、行くよ。お母さんが呼んでたでしょー」

 促されるまま、融は「あ、うん」と頷いて電気を切って階下に下りていった。背後に階段を下りる音はしない。しかし彼女が付いてきているのはわかった。彼女の息遣いが聞こえたのだ。息を殺して笑っているような、そんなもの。融は今度は振り向かないぞと決心した。


 間家の食事はテーブルだ。父と母と三人だけのテーブル。父と母が並んで座り、その向かいに融。融から見て左側にはソファと足の短いテーブルが置かれている。その横にテレビがあり、食事中も点いている為、家族は大抵テレビの方を向くことになる。今日もそのはずだったが。

 陸はそのソファに座っていた。彼女はソファに座って、テレビをぼんやりと眺めている。そして、たまに融の方を見てきて目が合うと笑いかけてくる。

 その度に融はびくりとするのだが、その様子を父も母も意に介すことはなかった。父と母の目線を追っても陸が入っていないように振舞う。どうやら、本当に見えていないようだ。

「融?」

 父の顔を、正確には視線をじっと見ていたら、こちらを向いた父と目が合った。「さっきから儂を見て、何だ?」

「お、お父さんてさあ」融は誤魔化すために、適当な文句を何も考えず口にする。「お化けとか、信じてる?」

 父は口を広げてにやついた。

「そんなの、いる訳ないだろ」

「もしいたら?」

「いたってどうとでもないだろう? それで何か変わるのか? ただの幽霊だろう」

 父の口調は自信と言うか当たり前を口にする地に足をつけた言葉を生んでいた。融は、はあ確かに、と思った。いたとしてもどうということはない。

「そう言えば、お前、朝なんか言ってたな。あれか、変なものでも見たのか?」

「いや、なんか。……見た気がしただけ、かな」

「お前よく変なこと言うから、どうせ寝ぼけてたんだろ」

 そう言って父は、過去の融のどこか間抜けな行動を食卓に並べだす。融は恥ずかしくなって、「聞きたくなーい」と首を左右に振った。


 夕食を終えて、融はそのまま、風呂場に向かった。風呂の順番は決まっていて、父が夕食前、融が夕食後、母は朝となっていた。風呂場の棚から着替えを取り出していると、背後に気配を感じた。振り返ると陸が仁王立ちしていた。彼女はにやにやと笑みを浮かべる。

「ひどいな。お化けとか」

 融は一瞬何のことかわからなかった。が、すぐに食卓でのことか、と思い至った。思い至って焦った。

「あれは、別に、陸のことじゃないよ」思わぬ早口になってしまう。

「ふーん。じゃあ、どういうつもり?」

 上から見下ろされる。少し威圧感がある。

「だからさ、普通……」

 普通からの言うつもりだった言葉が、飛んでしまい後が続かなくなってしまう。「えっと……」

「融、風呂に入ってくれば」と彼女は嫌らしくにこりと微笑む。彼女の顔がちょうど電灯の陰になり、暗く怖く写る。融は顔を下げる。

「う、うん」と陸の横を通り抜けて、そそくさと下を向き続け彼女を見ないようにしながら風呂の戸を開けた。そしてそのまま閉める。


 シャワーを浴びて身体を洗い、湯船に浸かる。熱い風呂に、身体が火照ってくる。湯船の中でなぜか、融はいつも体育座りをする。湯船の隣に大きな一枚ガラスの窓があり、そこから空が見えている。室内灯が映っているが、その向こうは夜の暗がりだ。

 風呂から上がると、そこに陸はいなかった。居間にもおらず、融は部屋へと向かう。暗い部屋の電気を点ける。そこに陸はいた。やはり、ベッドに座っている。

「お風呂は気持ちよかったかい?」

「暖かかった」

「そう。それはよかった」

 陸はにこにこ笑っていた。融は部屋の真ん中に敷かれたカーペットの上に座り、じっと陸を見つめた。

「なんだい?」

 問われると、顔を下げる。口は開くが言葉が出ない。しかし、出さなくてはいけない。

 陸に顔を向ける。

「陸、さっきは、ごめん、なさい」

 さっきのこと、を想像したのだろうか、陸は少し間を空けてから笑った。

「何だ、そんなこと気にしていたんだ。わたしは気にしてないよ」

「なら、よかった……」

「融は、どうやら良い子みたいだね。わたしは運が良いみたい」

 陸は何故かご機嫌になって、そう言っている。

「さて、宿題もやってお風呂にも入ったんだ。寝るまでまだ時間、あるよね。融、何かする?」

 そう問われるが、融は特別即答することがなかった。いつもなら、ゲームをするか、テレビを見るか、模型でも作ってみるか、はたまた本でも読むか、である。そのどれも特別なことじゃない。

「何か、する? 何がいい?」

「じゃあ、散歩でもしてみない?」

「散歩?」

 散歩? 胸の内でもう一度呟いた。

「そう散歩、今日は天気良いんだよ。そう! 昼間は夏みたいだったね。あ、融、散歩なんてって思っているでしょう?」

 思っていないと言う前に、見透かされてしまった。自分の心の声を見抜かれたのか、そんな力まであるのか、とそれはなかなか恐ろしい。

 突然、ふっと笑みを浮かべ、陸は声を出してそれを押さえるようにして、くすくす笑う。

「残念だけど、融の心を読んではいないんだな」

 え、じゃあ、と問うとすれば。

「融は顔によくでるみたいだね! わかりやすい!」

 陸はそう言った後、融の頬を人差し指でつついた。融は、うっと喉に言葉を詰まらせる。

「散歩! 散歩行ってみる。陸が言うならっ」

 と言うことで誤魔化した。誤魔化したことは当たり前にバレている。しかし、陸は微笑むだけで追求することはなかった。

「よし来た。融、そっと靴を持って来な。普段履いているものじゃなくて、仕舞ってある方をね」

 言われたとおり、靴を取り戻ってきた融の頭の中ははてさてどうして靴を部屋に戻るのだろうという疑問符が揺れていた。

「さあ、見てみようか、融、窓の外の天気を」

 部屋に戻ったところ、陸が腰に手を待っていた。腰が細い。長いふわふわしたスカートが越し辺りから広がっている。今一度、場違いな光景と思う。

「それ、何?」

 融の白いシーツのベッドに、灰色の紙の束、新聞紙が置かれていた。

「今日の新聞。夜の天気は晴れになってるんだけね」

 陸はそれを手に取って、陸に渡してくる。見れば、日付は今日である。父も母も新聞は朝のうちに読んでしまい後はテレビ欄のみとなる。最近はそれすらもなく、新聞はこの時間大抵新聞回収の袋の中である。

「融、窓開けて確認してみてくれないかな?」

 陸はうやうやしく頭を下げて部屋の脇に退いて、融のベッドまでの空間を開ける。融の部屋はそう広くないのだ。真実かどうかは兎も角、神と名乗る年上の女性に頭を下げられる。冗談とわかっていても、妙な気分だった。やはり気恥ずかしさがある。

 そのため、さっさとベッドにあがり、ベッドの横の窓を開ける。昼間は熱かったが、夜になって窓を開けたときに入ってきた空気はすでに、冷たい。

 窓から顔を出し、見上げる。残念ながら、空には雲が溜まっているようだった。

「ね、曇ってるんだけど」

 ちらっと顔色をうかがうように、室内にいる陸の方に振り向いた。彼女は悲しむかもしれない。そんな想像があって、融はなんとなく、小さくはあっても申し訳なさのようなものを感じた。

 しかし、室内に、陸はいなかった。忽然と、消えてしまっていた。

 ぽっかりとした室内。自分の部屋。

「陸?」

 声に返答は。

「何?」

 あった。けれど、それは反対側からであった。つまり、窓の外から陸の声がしたような気がしたのだ。

 咄嗟に振り返れば、窓の外の方を見れば、やっぱり、そこに陸がいた。

「いいじゃない! 曇っているなんて!」

「陸? あれ? いつのまに? どうして?」

 融は焦って、心臓バクバクさせながら、矢継ぎ早に質問を浴びせる。

「ふふ、今、さっき、わたしは神様なんだから。さあ、行くよ、融!」

 陸は手を差し出してきて、融は戸惑った。じっと、見つめて、それから掴んだ。

 捕まれると、彼女は、融を窓の外に引っ張る。奇妙な感覚だった。身体が軽くなったかのように、水の中にいるかのように、ふわっと引っ張られた。そのまま、陸は数歩、後ずさる。

 陸は、屋根の上にいなかった。彼女はなんと、浮いていた。融は、屋根の上に降り立った。

「ほら、靴履いて」

 戸惑いながら、言われるまま靴を履く。足下の屋根の瓦がぐらぐら少し揺れる。

 融が靴を履くや否や、陸に腕を捕まれて、彼女は、そのまま、身勝手に中空を歩き出した。

 とても沢山の疑問、驚き、混乱、様々なことが頭を駆けめぐるが、どれもが消化できない。陸はそんな時間与えてくれなかった。

 普段、見上げるだけの建物が、どんどん眼下に降りていく。見慣れた世界の見慣れぬ景色だ。

 彼女は融を引っ張って、どんどん、空を上っていった。階段を上るような感じではなくて、坂を上るのに似ていた。

 そして、融の住む街が見下ろせるくらいのところで立ち止まった。

 融は、陸が握っている融の手を、もし陸が離したら、落ちるのではないかと、怖くなって、振り向いた陸の手を咄嗟に掴む。

「ちょっと落ち着く必要ある? ねえ、融?」

 とりあえず、大きな声で、「あります!」と返答した。

 融はしっかりと陸の手を握った。繋いで離さないようにする。

「そんなにぎゅっと握らなくても、落ちないよ。心配性だな、融は」

 暗がりの中で、けらけらと陸は微笑む。今、融と陸は、中空に浮いていて、絶えず、風が吹いている。陸のひらひらする服は僅かながら、靡いていて、また、足下はまるで、木道の上に立っているようなしっかりとした感覚だった。だから、落ちないと言うのは、そうかもしれない。けれど、この手は離せない。

「こんなの、不安じゃないわけない」

「そっかそっか。融、どうここからの景色は?」

 そう問われ、その時、初めて、周囲を見渡した。

 街並みが、暗がりの中で遠くまで見えていた。今まで、そんな光景があるなど、考えなくてもわかる。知らなかったわけではない。しかし、見たことはなかったのだ。知っていることと、理解は遠いと何かの本に書いてあった。それがその通りだとこの時にはっきりと思った。

 街並みを見下ろすというのは、はじめてだった。まるで、はじめてのように感じた。ずっと、吹いている風、遠く遠く音がする。街はずっと、ずっと、続いている。ぽつぽつぽつ明かり。見えないところ、暗がりは田圃か、遠くは山並みか。自分の住む世界が全くの別物に見えた。

「風が冷たい……」

 融はそう呟いた。

 融の手を握る陸が、融の顔をのぞき込む。そして、目を会わせると、にっと笑う。

「風、冷たくて、よかったね」

 融には言っている意味がわからなかったが、されど、確かにそうだと思うことができた。

「さ、融。まだまだ行くよ!」

 陸は、再び、中空を上り始める。融もそれに続く。

 何もないところを踏みしめる。違和感がすごい。異常だ。変だ。これは本当なのか。

「陸」

「なんだい?」

「これは、夢じゃない?」

「夢じゃないね。融は本当に歩いている。空を、ね」

「本当、なんだ」

 少しずつ、空が近くなっているような気がする。少しずつ、街が遠くなる。

「融、怖いかい?」

 大人が見せる優しい口調で、陸が問うてくる。

 風が少しずつ強くなる。

 雲はまだ、ずっと上だった。見上げる遙か彼方にある。

 とてもとても高く遠いところに雲波が広がっている。

 それを見ていて、じっと見ていて、それがどのように映るのか。

 融は古代に生きた恐竜が化石になる前の遙かな、決して届かない世界を思わせるような遠さを、夜空を静かに泳ぎ遍く雲に思いを馳せた。

 やがて、それでも雲が近づいてきた。まだ、体験をしていても信じられないという気持ちがあった。

 雲の切れ目を上り、横目に、雲が、形のわからない雄大な雲がすぐそこで流れていく様をみる。本当に、不思議だった。そしてそうであっても、雲はこれほどに大きくても、静かに、無音の中に流れていく。

 次第に明るくなってきた。夜である。

 不思議に思いながら、雲の隙間を上っていく。

「陸、ちょっと、怖くなった。雲が大きいから」

 彼女は笑う。

「大丈夫。ここに神様がいるのだから」

 読み上げるような口調だった。

 このときほど、彼女の存在が、頼もしいと思ったことはない。

「としてもさ。融は、どうしてだと思う。ここで問題です!」

 突然、陸はそんなことを言いだした。

「なんなの? で、問題なんなの?」

「何故、空中散歩をしているのか? だよ」

 なぜ? と問われても、全く理解し得なかった。勝手に連れられてここまで来たのだ。

「わからないよ」

 それを待っていたのか、陸はにこにこと微笑む。

「ふふん。そうともさ。だから、今訊いたんだ。ほら、もうすぐ見えてくる!」

 雲を抜け、天頂には何もない。見上げたところには、薄く星の輝き。そのときは気づかなかった。

 完全に雲を抜けて、雲海が広がった。もくもくと、奇妙な丸みを帯びた丘が、沢山の陰影携えて、どこまでもどこまでも草原のように続いていた。そして、生きているように、旅するように流れていく。

 草原のような、海のような、その果て、地平線か、水平線か、それが、遠く、夜の帳の向こうで消えていた。そして。

「……月だ」

 雲海は光に照らされていた。そう、月があったのだ。ここからさらなる上空、永遠を体現するようなそこ知らぬ深き夜空に、丸い衛星が輝いていた。そこにそれがあることがさも当たり前であっても、とても不思議であるような輝きの月だった。

「月だよ。さっき新聞でみたんだ。今日は満月なんだから」

 陸は自慢たらしげにそう教えてくれた。

「どう、どう、すごいでしょう?」

 彼女はにやにやと訊いてくる。

 しんと冷えて煉瓦を焼くような炎を覚える融はぼんやりと景色を眺めていた。

「うん。すごい。こんな、月、僕はじめて見たよ」

 感嘆の意に恥ずかしさを普段覚える。けれど、今はそれを越えていた。淡々と、ぼんやりしてしまうしかない。

「……わたし思うんだ。月に叢雲、花に風っていうけどさ。それはちがうと思う。月に叢雲、花に風、それはとても美しいこの世界のことを言っているじゃないかってね。神様はね。あ、さっきの質問の答え。答えは今日月が見えるからだよ」

「月に叢雲、花に風?」

「そう」

「ふうん……」

 そうというものそんな諺訊いたことなかったのだ。

 風が吹いていた。この風は、あの雲海の平原の向こうの暗闇から、くるのだろう。それは言い表せないが、とてもすごいと感じた。世界が広いと感じた。それらはテレビではないと知った。

「こんな世界、知らなかったよ」と融は言う。

 すると、ふんふん、ご機嫌よく、陸がしゃべり出す。

「融。教えてあげるよ。気づくというのは、よほど利口な人でないならば、大抵それを失ったときなんだ。よかったね。君は、何も失っていない」

 どことなく怖さのある言葉だった。

「それ、よくわからないけど。つまり、陸のおかげってこと?」

「そう。そうだよ」

 急に元気良く、陸は返事する。

 陸の顔に月光が当たっている。周囲の雲海はゆっくりとそれすべてが動いて去っていく。されど、それは尽きることはない。

 陸は融に向き直り、姿勢を正した。なお、手は繋いだままである。融自身、離したくない。

「改めてこれからよろしく、融。わたしは神様の陸です」

 陸はすでに繋いでいる、握手している手をぶんぶんと振った。

「陸は、本当に神様なんだ。こんなことできるなんて。僕は知らなかった」

「融、ついに認めてくれた! やった!」

 突然、陸ははしゃぎ出す。

「実はね」とうわずった声で、しゃべり出す。「融をここに連れてきたのは。その答えは雲海の上の月を眺めるため。でも、でも真実は、融にわたしを神様と認めさせたかったから、でした!」

 月下の雲海の上で。陸は楽しそうに言う。

 なんて神様だ。

 そして、ああ、本当に神様なのだと、思った。

 これが、神様との始まりの一日の終わりである。


もし面白そうと思っていただけたら、積極的に続きを書いていこうと思います。話は夏ですけどね。普段隠れる日常の中の気づかない何かが見えたらなあと思います。

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