後編
「来ると思っていたよ、魔族の青年」
目の前の女は馬鹿にしたように笑った。
偽物の金色の髪がそよぐ。
悲しみと苦しみと虚無と思慕と。
様々な感情が綯い交ぜになって心臓を圧迫する。
「復讐されたのだろう?」
「ーー復讐…?」
驚く程弱り、掠れた声に女は再び笑った。
その笑みが先ほどの彼女の笑みと重なって、悪寒がする。
なぜ、どうしてーーどうして‼︎‼︎
湧き上がる負の感情に押しつぶされそうだった。
彼女だけを想って生きてきたのに、なぜ今更あんなに酷な事を言われなければならないーー。
「お前がーー否、昔のお前が愚かだった故に彼女は裏切ったのよ、愚かな魔族の青年」
「昔ーー?」
なんのことだかまるで見当がつかない。
女は嗤った。
「馬鹿な前世のお前からの伝言だ、」
女の口元が弧を描いて言葉を刻んだ。
「君はこれでよかったのか?」
目の前の男はまるでいたわるように声をかけて来た。
幼い頃から途切れ途切れではあったが、交流のあったジャンは予定通りに事が運べば今日のうちに婚約者になるはずだ。
小さい頃、戯れに話した前世の記憶と彼への復讐計画を信じ、見守ったのは彼だけだった。
「なんのこと?」
「前世の恋人への復讐だよ」
彼の言葉に、持ち上げたばかりのティーカップをテーブルへと下げた。
「もちろん、大満足よ。彼は絶望した顔をしていた。私はこの顔を見たかったのだと思ったわ」
あの深い青色の瞳がゆらゆらと不安定に蠢き、静かに涙を流す彼の顔といったら。
彼を穢した事実が、どうしようもなく幸せだった。
「……本当に?」
ふう、とため息を吐く。
何度目かのその言葉に飽き飽きしていた。
如何に彼の絶望に狂喜したと語っても、目の前の彼は食い下がった。
「しつこいわ。なんか文句があるなら言ってよ」
少し苛立った口調で噛み付くと、彼は急に真剣な瞳で私を見つめた。
「ーー僕はとても君が幸せには見えない」
「っ、なにを」
無神経とも言える彼の発言に思わず立ち上がりそうになる。
しかし、感情的な私とは対照的に、彼はとても落ち着いていた。
「君は確かに彼に復讐しただろう。記憶を持って生まれた目的を果たした。けれど、君の顔は幸福な人の顔じゃないよ」
なにを、なにを言い出すの。
こんな時、こんな場で。
なぜ、そんな私を否定するような言葉を吐くの。
その言葉に首を振る私を宥めるように彼は私の手を握った。
手のひらの体温は、彼が昔責めるような声音で『本気で復讐するのか』と尋ねた時と同じ。ひどく熱い。
彼は復讐を企てる私に何も言わなかった。
けれど見守るその瞳はいつも不安そうだった。
ーーだから嫌なの。貴方と会話するのは。
責められてる気がするから。
穏やかな顔立ちで彼はいつも私を踏みにじる。
「ねぇマリア?君は前世の君とは違う人なんだよ」
ーー君もどこかで気付いていただろう。
復讐を遂げたはずなのに満たされないことに。
自分が復讐を願ったマリアではない別人だという事に。
前世のマリアにはどうやってもなり得ないことに。
本当はとっくに気付いていただろう。
「君はさっきからずっと泣きそうな顔をしてるね」
優しく微笑む彼が歪む。
目から溢れる生暖かい液体が彼の姿を霞ませた。
頬を滑り落ちたそれは止まることなく次から次へと頬から落ちた。
「そんなこと、ない…っ」
「ーー僕はこのまま君と結婚してもいいと思ってるよ。でも君はそれじゃダメだろ?」
ーー君は、フェルマが好きなんだから
「そんなわけない!」
ーー認めない、そんなの認めることができない。
私が彼を愛したら、前世の私の思いはどうなるの。
記憶が残る程強く彼を愛し、彼を憎み、殺された哀れな魔族の女の気持ちは。
復讐に捧げたこれまでの人生は?
一体どうなるの。
ーー全部無駄になるだけじゃない。
「無駄にはならないよ。彼と幸せになれば、それは無駄にならない」
「綺麗事よ、そんなの。前世の私があんまりに報われないわ」
自分を裏切った彼を最期まで待っていた私はその無念を晴らす事なく、無様に殺された事実だけが残る。
裏切り者の彼はーーマルスは幸せになったのに。
そんなの、あんまりだ。
「……仕方ないよ、この復讐はきっと正しくなかったんだ」
「…っ、そんなの認めない…!」
まるで子供みたいに彼の言葉拒んだ。
それでも彼は腹を立てることなく、依然穏やかな表情で私を見つめた。
ふと彼が視線をズラして、微笑む。
「ほら、王子様の登場だ」
その言葉に信じられない気持ちで振り返る。
青い瞳が黒髪の下鈍く光る、美しい彼。
「マリア‼︎」
その声に、様々な感情が呼び起こされる。
彼の顔はもう絶望に歪んでいなかった。
焦ったように私を呼ぶフェルマの声はもう震えていなくて。
私は更に泣きたくなった。
大声で泣きわめいてしまいたかった。
「マリア、もういいよ」
目の前で立ち止まった彼は、走って来たからか少し息が乱れている。
穏やかな音が彼の口元から紡がれた。
「全部、聞いたんだ。あの女の人に」
彼はそう言って後ろを指さす。
彼の背中を覗くと、少し後ろからあの日出会った金髪の女性が私たちに向かって歩いていた。
「『すまなかった、愛してた』」
伝言だよ、と泣きそうに笑った彼。
「前世の俺からの伝言だ」
絶句した。
あまりにも傲慢な前世の彼に。
「今更遅いわよ…。あの時私は死んでしまったもの‼︎貴方のせいで死んだもの‼︎」
叫ぶ私を、目の前の彼はとても冷静に見ていた。
それに更に腹が立って、悔しくて、悲しくて。
罵倒の言葉が頭をぐるぐると回った。
けれどもどれ一つとして上手く声に出来ない。
大きすぎる自分の複雑な思いが喉元を締めていて、私は嗚咽さえ出来ない。
そんな私を見て、彼は言った。
「俺は、信じたい」
「馬鹿な前世のお前からの伝言だ」
ーー『すまなかった、愛してた』
女がそう言葉にした時、一体なんの事かわからなかった。
「前世のお前は彼女を騙し、裏切り、殺した。彼女の怒りは今の彼女に記憶ごと引き継がれた」
そして、お前は彼女に復讐されたわけだ。
「彼女はずっと地下牢でマルスを待っていたのに、彼が足を運ぶ事はなかった。あろうことか出世のためにお偉い方の娘と婚約までした」
彼女の絶望は、今のお前の比ではないだろうね。
女は皮肉そうに笑ったが、すぐにその顔から表情を消した。
「ーーねぇ、そろそろ彼女は幸せになるべきだと思わない?あんな男の復讐に振り回される人生程哀れな物はないよ」
「ーー…」
「…本当に、彼女がお前を愛してなかったと思う?」
「……今となってはわからない」
俺の返答に彼女は呆れたように肩を竦めた。
「訊き方が悪かったね」
ーーお前が、彼女に愛されていたと信じるかどうかの話だ。
「マリア、俺は信じたい。貴方が俺を好きだと言ってくれたこれまでの時間を信じたいんだ」
「嫌いだとー…そう言ったはずよ」
「それは俺ではなく、前世の俺だろう」
彼はまっすぐ、少し怒ったように鋭い瞳でこちらを射抜いた。
「俺は前世の事はわからない。けれど、絶対に貴方を騙したり、裏切ったりしない。絶対貴方を愛し続けるよ」
「……わたし、は…っ」
「俺は四年間積み上げたものが虚像だとは思いたくない」
「ーーっ、私はその四年間ずっと貴方に復讐したかった…ずっと…ずっとよ」
虚像であり、まやかしでしかなかった四年間。
それを彼は信じると言う。
けれど、彼が信じた所で何も変わらない。
私が復讐を遂げようと躍起になった四年は、変わらない。
変わらないはずなのにーー
なのに、目の前の彼は凛としていて、私はまるで迷子のような気分になる。
彼は絶望したはずだった。
私は復讐したはずだった。
なのにどうして彼は今、私をこんなに愛しそうに見るのだろう。
「復讐なら、とうの昔に完成しているわ」
クスクスと笑って、傍観者だった彼女は私に穏やかな表情を見せた。
「彼はーーマルスは幸せにならなかったわよ。貴方が死んでから彼は憔悴した。件のご令嬢と結婚することも拒否し、ひっそりと戦場で敵に討たれて死んだわ」
彼女の金髪が風にそよいだ。
うなじから零れた数束の髪の色は、黒曜石のようだった。
美しい黒髪だと、思った。
「彼を討った敵はね、貴方と同じ髪の色と瞳の色をした少年だったそうよ」
ーーなんて無様な最期でしょう。
彼女は嘲笑する。
「彼は貴方に似ているその兵士を殺せなかった。そして殺された」
「……馬鹿じゃないの…」
「貴方が彼を殺した、と言ってもいい結果じゃない?」
「……それは復讐なのかしら…」
「ーー確かに、復讐ではないかもしれない。けれど、君も彼も不幸な結末を紡いだ」
それで十分じゃない?と首を傾げた彼女。
私はその言葉に思いを馳せた。
自分で殺した女を想って殺された馬鹿な男の事を考えた。
後悔という名前で、マルスは私の事を背負い続けたのだろうか。
自分が殺した魔族の女を必死に焦がれながら、戦場で死んだのだろうか。
私の名を呼びながら、死んだのだろうか。
だとしたら、それはなんて愚かで滑稽な事だろう。
「もし本当に私の復讐が完成していたら…今まで全て無駄になるのね…」
「ならないよ」
ジャンが微笑む。
彼は先ほども言った言葉を噛みしめるように繰り返した。
「君がそこの彼と幸せになれば、きっと無駄にならないよ」
グラグラと心が揺れる。
自分の心の根底にあった思いを認めて、彼と幸せになるべきなのか。
そもそも、幸せになれるのだろうか。
マルスの転生である彼と、幸せに?
「マリアが、幸せになれると信じられるかの問題だ」
その声にハッと顔を上げれば、深い青の瞳が私を捉えた。
そして私は気付いた。
フェルマはマルスよりずっと穏やかな表情をする事。
背丈も同じなのに、フェルマの方が華奢な雰囲気がある事。
顔は似ているのに笑い方は違う事。
マルスは艶やかに微笑んだ。
フェルマは困ったように眉を下げて、笑う。
そして何より、その青の瞳はマルスとはまるで違う、暗くて深い色で塗られている事。
嗚呼、二人はこんなにも違うのか。
ーー当たり前のことだ。
眉を下げて愛しそうに私を呼ぶフェルマは、彼ではないのだから。
フェルマはマルスではないし、マルスはフェルマではない。
そして二人ともお互いになり得ることはない。
そしてジャンが言ったように、私も前世の私とは別の人間なのだ。
そんなことに今更気づくなんて。
震える唇から乾いた声を振り絞った。
「私は…今はまだ…気持ちの整理ができない」
ーーけれどきっと、いつかその整理もつくのでしょう。
長い時間をかけずとも、自然に。
私は彼とーーフェルマとマルスが違う人間だと今この瞬間認めてしまったのだから。
「でも、絶対いつか気付けると思う」
彼の生まれ変わりであるフェルマじゃない。
一人の人間としてのフェルマが好きだと。
殺された魔族のマリアとしてではなく、今存在している一人のマリアという人間として。
彼を愛していると。
「私は、そう信じる」
そう言った刹那、私は彼の腕の中。
「ーーマリア、」
彼の声が鼓膜を揺らす。
彼の体温は高い。
温もりを感じて私は確信する。
きっと私は幸せになるだろうと。
数十年前に存在していたマリアとしてではなく、今ここに存在するマリアとして幸せになるのだと。
そっとフェルマの背中に腕を回した。
彼との幸せな未来を確信しながら、もしかしたら前世を忘れて今この時幸せになるのが、一番のマルスへの復讐かもしれないなんて思って少しだけ笑った。
復讐物としては、もしかしたら微妙な結末だと思われるかもしれません。
けれどきっと彼らは幸せになると思います。
そう信じます。
番外編は、実はお芝居していたあの方目線です。