前編
嘘だーー
こんなの、絶対嘘だ。
だって、貴方は言ったじゃない。
愛してるって私に、微笑んだじゃない。
彼が私の悲鳴に振り向くことはなかった。
監視役の兵でさえもこちらを見はしない。
ガチャガチャと音を鳴らす足枷だけが私の涙を見ていた。
***
「こんにちは」
居間の床に跪くことを強要されている薄汚れた男は私の呼びかけに少しだけ肩を揺らした。
「顔を上げて」
これはお願いではなく命令なのよ、という意味で語尾を強めると、彼はゆっくりと顔を上げた。
真っ黒な髪に、青い瞳。
端整な生気をなくした顔。
その顔を見た瞬間私は狂喜した。
やっと、やっとやっとやっと‼︎‼︎
やっと彼を見つけた。
あの日気まぐれに足を向けた市場で見かけたこの奴隷。
この男を、私は生まれてこのかた十三年ずっと探していたのだ。
お父様に頼み込んで彼を買ってもらった甲斐があった。
「名前は?」
「……フェルマ」
「私の名はマリア。今日から貴方の主人です、よろしく」
適当に微笑んで、ついて来るように命じた。
彼に手を差し伸べることはしない。
「とりあえず汚いから先に湯浴みでもなさい」
「……」
「主人にだんまりなの?」
彼は見る限り年齢は一つ二つ上だ。
年下の主人を認めていなくても身分が上の者が話しているのだから少しでも反応すべきだ。
少なくとも、私は貴方にそう教えられたわ。
「お前、魔族なのでしょう?」
彼を振り返れば、彼は警戒心を剥き出しにこちらを睨んだ。
「さっき居間にあった白い花はね、魔族のそばに置くと少しずつ黒くなるのよ」
彼のせいで変色したことを暗に責めたが、彼は何も言わない。
「黒髪を隠そうともせず、奴隷商も持て余したでしょうね。魔族を欲しがる高貴な方なんていないもの」
そう鼻で笑って、馬鹿にしたように口元の笑みを深めた。
「よかったわね、うちが成金商家で」
爵位を持つ人々が魔族なんて相手にしないもの。
そう嘲笑したところで甘やかされたお嬢様が上辺だけの知識で嫌味を言っている、としか彼は思ってないのだろう。
虚ろな顔で彼は私の声に反応することなく聞き流していた。
「リリア、この子をお風呂に入れて上げて」
「はい、お嬢様」
風呂場にいた女中のリリアにニッコリと微笑んでお願いすれば、彼女は笑顔で頷いた。
「ほら、行って」
「……ありが、とう」
背を向けてリリアの後ろを歩き出した彼を訝しげに見つめた。
ありがとう?
嫌味を言い放って嗤うような人によく言えるわ。
舐められているのか、それとも彼はこの状況でさえも「優しい」と形容できるような境遇に置かれていたのか。
ーー恐らく両者ともに正解ね。
妙な苛立たしさは消えないが、まあよしとしよう。
愉快なものが見れたのだから。
皮肉なことだ。
前世、魔族を憎んだ彼が魔族となって生まれ変わるなんて。
私には前世の記憶があった。
書物と記憶を検証する限り、恐らく七十年程昔に、私はこの国にマリアとして存在していた。
名前も顔も昔とおんなじだが、今と一つだけ違うことがあった。
私は魔族だったのだ。
魔族を嫌悪する者は非常に多い。
今もその流れは根強いが、昔は今の比じゃないほど魔族への嫌悪は激しかった。
この国が築かれる少し前、魔族がこの土地を支配していた。
魔族は暴虐の限りを尽くし、人間は殺され嬲られ、搾取され。
そんな時に魔族を討ち取り新たな国を建国したのが初代王だという。
そんな時代背景により、魔族は常に嫌悪され、恐れられ白い目を向けられた。
魔族の象徴とも言える真っ黒な髪を見るだけで誰もが顔を背け近寄りたくないと言わんばかりに家に引き返す。城下町に住む魔族が時折兵士に連れて行かれ、その後二度と姿を見せなかったのは恐らくーー
そこで私は、髪を金色に染め上げ魔術をひた隠して人として生活していたのだ。
十八になると恋人も出来た。
彼は明るい茶色の髪を持つ美しい兵士であった。
「マルス」と、彼を呼べば、穏やかな美しいスカイブルーの瞳を細めてくれた。
私は幸せだった。
明るい友人もいたし、恋人は優しくあったし、両親は死んでいたが優しいご近所の方々に恵まれた。
彼は「愛してるよ」と微笑んで私に花を届けてくれた。
私は真摯な態度の彼に、ついに自分が魔族であることを打ち明けた。
私の手のひらから生まれた桃色の花を彼はしげしげと見つめた。
「私、魔術で花を作れるの。魔族なの」
「俺は君と別れたりしないよ」
泣き出す私を彼は抱きしめてくれた。
キスをしてくれた。
幸せ、だった。
けれど気づくべきだったのだ。
これが滑稽なお芝居であることに。
市井の者のみならず貴族の美しいご令嬢からの引く手数多であった彼が、どうしてこんな娘を愛してると言い微笑むのか。
馬鹿な私はその違和感に気付きながら、見て見ぬ振りをしていたのだ。
そして、夢の時間は終わりを告げた。
ある日突入してきた国の兵士。
先陣を切って彼らに指示していたのは他の誰でもない、マルスだった。
「マリア・トルート、連行する」
非情にも声高らかに宣言した彼は私を拘束して城の地下に鎖で繋いだ。
彼は無様に放り込まれた檻越しに私に一瞥くれるとすぐに背を向けた。
「まっ…て…待ってよ‼︎」
彼に手を伸ばしたいのに、足枷が重くて格子にさえ近寄ることができない。
「嘘だったの⁉︎ねぇ‼︎愛してるって言ったじゃない…っ、魔族でもいいと…‼︎‼︎」
「魔族でもいい?」
彼は振り返って冷笑した。
「違うな。俺は憎い魔族を取り締まるためにお前と別れないと言ったんだ。魔族でもいい、なんて嘘でも言わない」
彼の嘲笑はとどまることを知らず、深みを増した。
「お前が好きだったことなんてないよーーそれと、身分が上の者にその口の利き方はないんじゃないか?身の程を知れ」
あまりの冷淡さに絶望した。
泣き叫ぶ私を、彼が振り返ることはなかった。
よくよく考えれば、彼の持ってくる花はいつも白い花だった。
あれは魔族が触れると変色するものだ。
彼があの花を持ち寄ったのは、交際を始める少し前からーー
つまりは彼はずっと私を疑っていたのだ。
私が気を許し、魔族である事を告白したところで始末しようと私に心にもない思いの丈をぶつけていたわけだ。
一度落ち着くと、心が急速に事態を飲み込んだ。
今度見せしめに殺されるのは私なのだということもわかった。
私が殺されたのは季節が一つ変わった頃だった。
寒い冬の日。
彼は殺される前日でさえ私の前に姿を見せなかった。
どこぞのご令嬢とご婚約されたと衛兵が祝福する笑い声が廊下に響いていた。
ーー憎い…
なぜ…どうして…何もしていないのに。
許せない。
私を騙して嗤っていた彼が憎い…幸せになる彼が憎い…‼︎‼︎
「ぜっ…たいに許さない…‼︎」
私は絶対に彼に復讐するーーー‼︎
生まれ変わっても、記憶をなくしても、姿形を変えても、絶対にーー。
湯を浴びて、隅々の汚れをぬぐい取られた彼はやはり美しかった。
「……綺麗」
汚れのない彼はやはり憎らしい程美しくて。思わず感嘆の声を漏らした。
私の反応にリリアが満足そうに微笑み、下がって行った。
私の部屋に二人きりとなると彼は重々しく口を開いた。
「魔族、嫌い?」
昔の青色よりも随分暗い青の瞳を私に向けて、彼は首を傾げた。
あどけない口調だった。
「……嫌いじゃないわ。確かに昔彼らは残虐だったけど、今は何もしてないもの」
「……そっか」
彼は安心したように少しだけ笑った。
あの頃よりずっと柔らかくて、当たり前だけれど幼い笑顔だった。
それに心臓が動いたのは確かだが、私はもう昔とは違う。
二度と貴方に心を許したりしない。
ーー馬鹿なフェルマ。
私は確かに魔族が嫌いじゃないわ。
だって私も魔族だったもの。
けれど、魔族かどうかではなく私は貴方が嫌いなの。
復讐する。
私と同じように裏切られて絶望すればいい。
最愛の人に裏切られる悲しみを、怒りを、絶望を、屈辱を、貴方が私以上に感じればいい。
あの時の愚かな私はもういない。
私は彼を好きにはならない。