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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

戦場のアイリス

作者: 林 りょう




 そこには常に死があった。

 なおかつ、同量の生があった。


 兵士たちは、明日とも知れない命を抱え、自国の勝利を疑わずに戦場での日々を過ごす。その胸に勲章を欲した。

 そんな彼らの帰りを、故郷でひたすら待ちわびるのが家族だ。

 そして、欠けた温もりを分け与えるのが戦場娼婦。彼女たちもまた、血生臭い場で欠かせない存在である。


 カテリーナもその一人だった。

 彼女が娼婦となった経緯は、既に記憶の奥深くへと沈んでおり、尋ねられても答えられないほどだ。

 もちろんそれは、本人の性格的な要素も大きいだろう。事実、カテリーナは博愛主義と薄情が同じ意味を持つような価値観を持っていたし、なにより生き延びるだけで精一杯だった。


 下手な兵士より、よほど前線に居るのだ。かといって、逃げる当てもなければ金もない。カテリーナの場合は、そこにその気もないと加わる。

 そしていつしか、彼女は不思議な呼び名を持つようになった。

 それは、客である兵士たちの間で実しやかに噂が囁かれるのをきっかけとし、同じような出来事が重なったことにより真実味を帯びた。


 艶やかな波打つ長い黒髪に、アイリスの色を瞳に宿した美しい娼婦。その女を買った者は、死と引き換えに戦場へ勝利を呼び込む。

 なんとも大層な内容であるが、これがまた頭ごなしに笑い飛ばせないものだった。

 噂が広まるまで、カテリーナが相手をする男は日に五人ほどいた。なので、全てが真実であれば、戦争などとっくに終結しているだろう。


 だが、数多いる客の中に、十人ほど名を残して死んだ者たちが確かに存在するのだ。それを少ないとみるほど、兵士たちは自らを過信していない。

 平時であれば、安い酒瓶一本分にも満たない金で身を売る娼婦の相手は、当然ながら一兵卒である。本来ならば、その死が数字以外で扱われることはないだろう。


 最初の一人は、当時十三歳だったと記憶しているカテリーナと大して変わらない、年若い新兵とされている。開戦された四年前の、最も戦闘が過激だった時期だ。

 彼は、初陣でありながら死を覚悟せざるを得ず、女を知らないままでは悔やまれると娼婦を買った。

 それがカテリーナだったのは偶然で、青年にとってはきっと、見た目が良い女に当たったことを幸運に感じた程度であろう。


 何分、戦場娼婦は、もはや足を開く以外に金を得られなくなった者たちだ。髪は坊主に近い程短いか、中途半端な長さであり、食事に困らない数しか歯も残っていない。

 けれど、カテリーナは違う。さすがに水浴びは毎日出来ないので、それなりに埃で汚れてはいるが、高級娼館の稼ぎ頭であってもおかしくないほどの美貌を持っている。


 青年はその夜、夢のような時間を過ごせた。

 そして、彼は翌日、敵側の司令官の一人を討ち取ることになる。

 だが、その内容は結果と比べると、どちらかといえば滑稽だ。なにせ、戦場の地獄さながらな光景に錯乱し、作戦中でありながら逃走した結果の奇跡だったのだから。


 なんの因果か青年は、気付けば敵がその日の戦闘の司令部を置く場所へ辿り着いてしまったのである。

 さらに、道中では一人の敵とも遭遇しなかったというのに、そのタイミングで発見されてしまった。

 無数に向けられた銃口。逃げようのない死。それを前に、やみくもに放った銃弾の一発がなんと、司令官の急所を打ち抜いたのだ。


 その日の戦闘は、両陣営ともに混乱しながら幕を閉じることと相成った。

 それを生んだ本人は、残念ながら自らの功績を知ることなく蜂の巣となったのだが、青年の名は名誉の戦死として明確に記された。


 他の者も、激戦を征す立役者となったり、諜報員をあぶり出し奇襲を未然に防いだりと、いくらかの差はあれど皆が称賛を得ている。

 ただし、全員がそれと引き換えに死を賜った。


 そうしてカテリーナは、いつしか【勝利の死神】と呼ばれるようになる。

 不吉極まりないその名は、しかし、長引く戦争の中で地位の低い者たちにとっては眉唾モノとして歓迎された。恐れながら、それでも〝もしかしたら自分は――〟と考えたのだ。

 開戦してから四年経った現在では、敵側にまで噂が広まっているとも言われている。


 だからこそ、その出会いが運命として創られたのだろう。


 ――それは、無数の星が作り出した川がはっきりと見える、美しい夜の事だった。


 カテリーナは、この日も変わらず客を取っていた。

 娼婦たちが仕事場として用いている林の中へと入りながら、今日はこれで終いだとぼんやり夜空を眺める。

 本日九人目の相手は、冴えないとしか言い様が無い男だった。鼻をあからさまに伸ばしカテリーナを見下ろす姿は、とうてい功績を残せる兵士には思えない。


 二人は適当な所で足を止め、大した会話もなくすぐに行為へと移る。

 どうやらこの男は、立ったままですることを選んだようだ。カテリーナは敏感にそれを察し、相手の肩に腕を回す。比較的、表面が滑らかな木を支えに選んだが、それでも背中に微かな痛みを覚えた。

 しかし、それを億尾にも出さず、相手の好きなようにさせる。


 まずは、胸元の紐が解かれた。

 そうすると、あっという間で服が肌蹴、少しばかり小ぶりでも形が良いと自負している乳房が外気に晒される。

 そこはすぐに揉みしだかれた。動きがゆっくりだったのは最初だけで、次第に強くなる力加減と同じくして、男の鼻息も荒くなっていく。


 その手に愛など存在しない。

 求める形は様々で、例えば人形のようであったり、疑似的な恋人であったり、慰めるようにカテリーナが主導権を持つこともあるが、彼らが交わるのはいつだって身体だけだ。


 かけられる時間もまた、とても短い。

 片手はすぐに、カテリーナの下半身へと伸びていく。

 一々脱がなくても済むよう、足首までのスカートに入れられた深いスリットの奥に無骨な手が到着すると、林で控えめな嬌声が響いた。


 男は気を良くし、よりこの時間に没頭していく。

 だから、気付かない。視線は相変わらず胸に釘付けで、その上にある顔が浮かべた表情と端にある黒子が特徴的な唇から零れる音が一致していないことなど――


 カテリーナにとって快楽は、もはや日常となっている。相手の技巧の良し悪しの判断にはなれど、悦びを生む要素としては足りなくなっていた。

 かといって、この仕事を厭っているわけでもないのだから不思議だ。演技を見抜けないなど、と密かに男を見下すわけでもない。

 自分でも分からないままに、この仕事も行為も嫌いではなかった。


 フクロウが奏でるもの寂しい音楽を聴きながら、星を堪能していれば、とうとうカテリーナの中へ男が入ってこようとする。

 熱い塊が添えられるのが分かり、フッと力を抜く。


 その時だった。


「うぎゃっ――――」


 声を掛けられた時以来、久し振りに合わさった視線の先で、男が突然に奇声を発したかと思えば、そのまま地面へと倒れたのだ。

 カテリーナは、しばし瞳の奥に焼き付いた男の驚愕を映した顔を反芻し、それからやっと現実を直視する。


 足元で、さきほどまで客だった人間が死んでいた。

 星の瞬きだけが頼りなこの場でそう判断できたのは、頭上の光を反射する銀の刃の半分以上が男のこめかみに埋まっていたからだ。

 一目で高価と分かる短剣だった。どれほどの力で投げれば、頭蓋骨を突き破れるのだろう。


「…………まあ」


 思いもよらない状況なせいか、カテリーナの口から漏れた言葉には、驚愕と感心ばかりが目立っていた。

 それから、ゆっくりと短剣が飛んできた方向へと視線を向ける。

 ここで焦って男の横にしゃがみ込んだりしない辺り、場馴れしているのが窺えた。


 そして、その選択はおそらく正しかったのだろう。

 カテリーナが見た先には、木々を挟んで横に広がる二十人ほどの人影があった。全員をはっきりと確認することはできなかったが、枝葉を縫って差し込む光によって相手の正体が分かる。


 全て男で兵士。さらに彼らは――敵国の兵士だった。

 なぜなら、身に纏う軍服が青かった。カテリーナの身近にあるのは、草の汁を絞って染め上げたような緑なのだから、間違いない。


 とはいえ、自軍の拠点の方が明らかに近く、本来この場に居るなどあり得ない存在である。

 それでも現実、彼らはカテリーナの目の前に整列していた。


 誰であっても絶体絶命な状況だ。

 でありながら、彼女が持った感想は、いつの間にというまたしても感心が強いものだった。


「こんばんは、星が美しい素敵な夜ですね」


 さらには、あろうことか自分から声を掛けたのである。

 それも能天気としか言い様のない日常的な挨拶だ。腰を折らなかったことが、さらにその異質さを強調する。


 わずかながら、相手が動揺する空気が漂う。敵兵の手には、当然ながら武器が握られており、誰もがだからこそ動作を控えたのだと思った。


「……これはこれは、肝の据わったお嬢さんですね」

「このご時世ですから」


 そして、敵兵の中心に立っていた者が前へと数歩進み、星空の下に姿を現す。

 その顔には、ありありと苦笑が浮かんでいた。


 カテリーナの瞳が一瞬だけ細くなる。

 それは、知性ある者が相手を観察する時のものだが、そのくせどこか現実的ではない。見極めているのは確かだが、まるで第三者のような視線だった。


 この状況で重要なのは、目の前の者と相対し、生き残れる余地があるかどうかだ。

 カテリーナの場合だと、凌辱された末に殺されることが最悪な末路だろう。


 しかし彼女は、暢気に容姿を観察していた。

 二十代後半といったところか。男は、兵士にしてはあまり筋肉がついておらず、全体的に頼りない印象を受けた。

 整った柔和な顔立ちであり、背丈は平均的だ。前線に出ているにしては小奇麗で、髪はカテリーナと同じ黒髪で長さまであまり変わらない。

 だが、しっかりと視線を合わせれば、その全てが間違いだと思わされる。


 若干濃さの違う両の瞳は、この世の全てを灰にしそうな猛火を連想させ、男の腰にある剣が飾りではないのだと知らしめる。

 冷静にして屈強。知的にして毅然。紛れもなく、頂点に君臨する者の分身として生きる者がそこにいた。


「仕事の邪魔をして申し訳ありません」


 ところが、カテリーナが最も評価したのは、美丈夫さではなく声だった。

 男の薄めの唇から響くのは、まるで月夜に響く狼の遠吠えのような、低くも澄んだ心地良い音である。

 獰猛さの中にも優しさを併せ持つ気がしてならず、それが微笑みさえ浮かばせた。


「とんでもない。あなた様もお勤めだったのでしょう? 気が付かなかった私の自業自得ですよ」

「助かります。そう言ってもらえれば、少しは気が楽になる」

「ふふ……。こちらこそ、罪悪感を持って頂けるだけありがたいことですよ」


 そして男も、半裸なままの女性に対し眉も動かさず堂々と語りかけているのだから、二人の作る光景は余程ズレて見える。

 他の兵士の中には、平静を装いつつもカテリーナの身体を凝視している者がそれなりに居るというのに。


「それにしても、本当に綺麗な夜空ですね」

「ええ、忍ぶ方々に対しては、些か不適切なご挨拶だった気もしますけれど」

「そうですね。しかし、おかげでこうして、夜の化身と見紛う方とお会いできたのですから、私としては幸運でした」


 男の気障な言葉をきっかけとし、二人は同時に頭上を仰ぐ。

 少しの間だけ沈黙が落ちた。そして、再び目が合うと、彼らは揃って控えめな笑い声を零す。

 あまりにも息がぴったりだったので、周囲は知人なのかと勘繰ったほどだ。


 もちろん、これが初対面である。

 けれど、本人たちもまた、そんな気がしなかった。


 そしてカテリーナは、ここでやっと問いかけを一つする。

 首を傾げる動作は自然だが、他意が無いことをはっきりと伝えてきていた。


「冷えてきたので、そろそろ服を着てもよろしいですか?」

「これは申し訳ない! ……最低だな、私は。知人にもよく、お前は気が利かないと言われますが、初めて心から反省しました」


 すると男が、慌てた様子で許しを与えた。

 本当に言葉の通りだったのだろう。この場合は、カテリーナの微塵も恥じらわない態度も一因なはずだ。


 そして彼女は、やはり余計な警戒を与えないゆっくりとした動作を取る。

 だが、手首で引っかかっていた袖を二の腕辺りまで上げてから、ふと動きを止めた。


「それとも、皆さんで楽しみますか? さすがにこの人数は骨が折れますが、お時間と私の体力が許す限りならお付き合い致しますけれど」


 これといって色づけていない唇は、濃艶な弧を描き、強烈な言葉を吐く。

 おそらく兵士たちにとっては、挑発な意味を持っていた方が良かったのだろう。

 その視線と雰囲気がカテリーナの本気を悟らせた為、生唾を呑み込む音がいくつも響いた。


「嬉しいお誘いですが、今回は遠慮しておきましょう」


 これを受け、今度は男の目が一瞬だけ細くなる。彼だけが動じることなく、さらりと受け流していた。


 が、その瞳は見極めを強くしており、カテリーナが聡明だと結論付けた。

 巧みに誘導して欲する情報を得るのではなく、自然な会話や相手の些細な動きの中から情報を読み取り、それをつなぎ合わせて状況を察する。それは、人間観察を長きに渡り積み重ね、なおかつ頭の回転が早くなければ出来ない芸当だ。


 この時点で、男にとってカテリーナは、今まで出会った中で最も理知的な女性となった。

 だからこそ、問いかける。

 その質問が飛んできたのは、カテリーナが胸元の紐を結んでいる時だった。


「ところで、あなたは死が怖くないのですか?」


 俯いていた顔を上げれば、強烈な赤が待っていた。

 それは、カテリーナにとって命の色だ。男の瞳は、片方がまるで浅い傷で流れる血で、もう片方が死を招く深い傷で流れる血の様であり、余計にそう思わせる。


 自身でも分からず、体の芯が震えた。


「なぜでしょう?」

「いえ、今の状況がおかしいことはお分かりなはずなのに、あなたはその男が死んだわずかな間に少しばかりの困惑を見せただけでした。それはまるで、こうなるのを事前に知っていた様に思えます」


 その言葉により、他の兵士が下がりかけていた武器を持ち直すも、カテリーナは鈴を転がすように軽やかに笑う。

 男が、かすかに眉を寄せた。


「どなたかの子飼いなのですか?」

「まさか。私は、ただの娼婦ですよ」

「それにしては、些か美しすぎる」


 やっとと言うべきか、ここにきて初めての詰問である。

 それでもカテリーナは、微塵も揺らがない。むしろ、心底分からないといった様子で頬に指を添えた。


「それは、髪や歯のことをおっしゃっているのでしょうか。それでしたら単純に、春を売る事よりそれらを欠く方が、私にとっては重いだけですよ」


 さらに彼女は、男が答えるより早く、とんでもない発言をくりだす。


「そろそろ戦が終わるだろうとは思っていましたけれど」

「……それはなぜ」


 男が腰の剣へ手を伸ばしたのは当然だろう。

 学が無いとされるただの娼婦が、戦況を把握できるはずがない。

 たとえ兵士と民であれ、二人は敵対する立場なのだから、勝敗に限らず平然としているのだって異様だ。


 周りからすればとても今更なことではあるが、とうとうカテリーナの不可解さが顕著となった。

 それでも彼女だけが、態度を変えることなく佇み続ける。


「これまで一進一退の攻防を続けていながら、そちらが最近になって、まるで死者を出さないよう立ち回っているように思えましたので。かといって、白旗をあげるのは今更ですし、ならば戦闘以外での勝利に確信が得られたと思っただけですよ」

「普通の娼婦が、どうすれば情報を得られると?」

「あら、この地に居る娼婦のお客は、戦場を生きる兵士ですもの。楽しみ方は人それぞれ、中にはお喋りが好きな人もおりますよ」


 カテリーナにとって、それはごく当たり前のことだったが、高官ならまだしも客はただの一兵卒。たとえ情報を得られたところで、それはひどく断片的で繋げるなど容易ではない。

 聞けば聞くほど、やはり只者ではないと思わざるを得ないだろう。


 そもそも、第一声をカテリーナから発し、その後も流れるように会話をしているため気付いているのは未だに男一人ではあるが、彼女は実に流暢な共通語を使っている。

 だがこれは、本来ならば上流もしくは限りなくそこに近い中流階級の標準的な教育によってのみ身に付くものだ。

 つまり、大多数の人間にとっては無用な長物。出自そのものにも疑問が出てくる。


「……お名前は?」

「カテリーナと申します」

「出身を教えてもらえないだろうか」


 しかし、カテリーナは答えることが出来なかった。

 分からないと返すだけでは不味いだろうと、ようやく迷いを見せた。


「私はどこかおかしいのでしょう。記憶するのは人より得意なのですが、時を思い出としてこの身に残せないのです。人の顔や名前は覚えておけても、このような強烈な出会いでもない限り、一月も経たずきっかけすら忘れてしまいます」

「つまり、分からないと」

「申し訳ありません。娼婦に身を落とすぐらいですから、さほど特出したものは無いと思うのですけれど」


 長く黒い睫を伏せる仕草には、嘘偽りが見当たらない。本人の認識については、異論があったとしてもだ。

 男は顎に手を当て、思案した。


 それを黙って待つカテリーナだったが、そこで最初の質問に答えていない事を気付く。

 だから、徐に口を開いた。


「それで、死が怖くないのかでしたね」

「あ、ああ……」

「昨日、新入りの子がお客の見極めに失敗し、腹を突き破られて死にました。先週は、古参の者が戦闘の巻き添えになっています。ですから、次は自分だったのだと思うぐらいで、なんと言うか……。外れクジを引いた感じがしています」

「そういうことは覚えているのですね」

「これは、情報であり記憶ですから。ただ、そうですね……」


 そしてカテリーナは、ずっと足元にあった死体の隣で膝をついた。

 男が右掌を周囲へ見せて制止を促すのを視界に入れながら、魂の抜けた肌よりは温かい気のする髪を優しく撫でる。

 それから、赤い瞳に向かって微笑み、星を見上げながら告げた。


「痛いのはあまり好きではありませんので、一思いにお願いします」


 これには、男でさえ唖然となった。

 彼は、これまで幾度となく死に際の人間と相対してきたが、ここまで穏やかな者は初めてだった。

 回避できる可能性があり、救いにしているならまだしも、カテリーナは己でそれを潰してさえいる。懇願もしない。


 なにより彼女が死体へと向ける視線は、あまりにも慈愛で満ちていた。

 鮮やかに咲き誇るアイリスの花、その上に乗る朝露が陽の光を反射して輝いている景色が目に浮かぶ。


「お知り合いでしたか」

「いいえ、今日初めて会った方ですよ。そもそも私は、一度しかお相手しませんので」


 答える間も、撫でる手は止まらない。

 カテリーナとしても、こんな気持ちになったのは初めてだった。


 兵士たちが現れた時から死は免れないと思っており、先に逝った死体の男が最後の相手になるのだと思った途端、どうしようもなく愛しさが込み上げたのである。

 たとえ、下半身をさらけ出しただらしない姿であっても、ただただ果てさせてやれなかったことを申し訳なく思った。


「なるほど。【勝利の死神】は、自身の死にすら寛容なのですね」


 けれど、一方的な睦みは、敵兵の男が急接近し腕を掴んできたことで強制的に終了させられた。

 目を丸くして驚くカテリーナを他所に、彼はさらに無理やり立たせてくる。


「まあ、ご存じでしたか」

「もちろんです。あなたの祝福を受けた者たちの事がなければ、おそらく一年ほどは早く終結できたでしょうから、こちらでもお噂はかねがね耳にしています」

「それは、ご迷惑をおかけしました。といっても、私には何の力も無いのですけれど」

「もとより、ただの娼婦と語らえるほど、私も暇ではありません。艶やかな黒髪に、アイリスを思わせる瞳を持つ美しい娼婦。【勝利の死神】の存在を知った時から、お会いしたいと思っていましたよ」

「では、私がその名を持っていなければ、既にこの命が尽きていたわけですね」


 その言葉に、男は淡く笑む。

 それは肯定であり、なおかつカテリーナがその枠に入らないことを意味する。


「しかし、なぜそこまで?」


 さらに彼は、その質問で挑戦的に唇を歪めた。


 とことん真逆な二面性を持つ人だと、カテリーナが内心で呟く。

 わけ隔てない穏やかさがあると思えば、冷酷でもある。こうして幾らか好感を持ってもらえても、おそらく殺すときは一切の躊躇を見せないのだろう。


 だからこそ、理由として使われた言葉に疑念を抱かなかった。


「同族に興味を持つのは当然でしょう」

「同族……?」

「はい。名乗るのがだいぶ遅くなってしまいましたが、私はクリストフェル。畏れ多くもこの戦いで、【現世の戦神】と呼ばれることがあります」

「まあ、あなたが」


 それは、【勝利の死神】より余程死を招き、数多の衝突で功績を残している者のことだった。


 カテリーナが持つ情報によると、彼女が居る戦場で若くして最も偉い司令官であり、知略に長け、さらには武術の才にも恵まれているらしい。

 ただの兵士でないのは分かっていたが、一兵卒では会話どころか視界に入れることすら難しい相手だったのは予想外だ。


「此度の勝利、まことにおめでとうございます」

「はは! まさか敵国の者から最初の祝言をもらうとは。それに私の仕事は、まだ終わっていません」

「そうなのですか」

「そちらの王が、若君の手により討たれたのは確かですが、その報せがこちらに届くのは、あと一刻ほど掛かるでしょうから。なのでこうして、すぐに動けるよう隠れていた次第です」

「四年も費やしての幕引きにしては、いささか拍子抜けですね。それにしても、気の早い方。部下の方も大変でしょう」


 かといって、態度を変えて遜ることもせず、それどころか失礼な物言いまでする始末。

 突然に話を振られた周囲は、肯定はしなかったが否定もできなかったのか、ひどく慌てふためいている。


「これは手厳しい。しかしまあ、些事にこだわっていては、変わるものも変わらない。というわけで、少しばかり不躾な質問をよろしいでしょうか」

「なんなりと。可能な限りお答えしますよ」


 すると、男――改めクリストフェルは、ずっと掴んでいた腕を離し、なぜかカテリーナの腰を抱いた。

 そして至近距離で、断りを入れたといってもあんまりな内容を尋ね始める。


「血縁者は存命ですか?」

「生死云々の前に、記憶には一人として存在すらありません」

「愛国心は?」

「そもそもここが故郷かどうかすら」

「では、子を産んだことは?」

「無いですね。一応、避妊効果のある薬草を煎じて飲んでいます。病については、さすがにお医者さまに診てもらわないと……」

「産めるかどうかは……、分かりませんよね」

「授かりものですし。しかし、これにはどのような意図があるのでしょう」


 さすがのカテリーナも、気分は毛ほども害していないが不思議に思う。

 これではまるで、審査されているようだ。


「私はね、カテリーナ。ずっと探していたんですよ」

「何をですか?」

「自ら咲くことの出来る一輪を」


 そして、思いもよらないことを願われる。

 クリストフェルはその場で跪くと、どよめく周囲を放置してカテリーナの右手の甲に口付けを落とす。

 それから、上目遣いで熱い視線を注いだ。


「どうか私に、あなたの思い出となる資格を頂けないだろうか」

「え……?」


 どう考えても、それは求婚だった。

 敢えて繰り返すが、二人は初対面だ。しかも、敵対する国に住まう関係である。

 さしものカテリーナも、捕らわれていない手を口元にやり驚愕で固まる。


 しかし、今までで一番長いとはいえ、普通と比べればかなり短い時間で立ち直り、涙が出るほど笑い出した。

 声をしっかり殺していたからよかったものを、そうでなければ口を塞がれていただろう。


「現実的な確認をしてから、よくそんなにも情熱的なセリフを仰ることができますね」

「重要なことでしょう?」

「そうですが、私はそうしなければならない立場にいる者ですよ?」

「先ほども言った通り、些事を気にしていては得られるものも得られません」

「あなたにとって、娼婦は問題にならないと」

「むしろ、何を恥じる必要があるのでしょうか。特に戦場に居る方々は、死を恐れずにまさしく全身全霊で我々に尽くしてくれている。その存在がなければ、末端の兵士たちは罪もない者へ無理強いし、さらなる混沌を生むかもしれない」


 顔に似合わず無骨な手が、荒れた肌を優しく撫でる。

 カテリーナは、自分の背中が痺れるのを感じた。それは、久しく得ていなかった絶頂のそれに近かった。

 同時に、自分がなぜ娼婦であったのかも悟る。

 となれば、クリストフェルの言葉を拒絶できるわけがない。


「ありがとうございます。私はきっと、それを望んでいたのでしょう。たとえ身体だけでも私という存在を覚えて欲しいが為、娼婦としてここに居た」

「是非ともそれは、私と出会う為と言って欲しい。しかし、まさか死体に嫉妬する日が来ようとは……。やはり人生は、何が起こるか分かりませんね」


 そして、カテリーナの手がクリストフェルの手の上に重なり、今夜、世界中で最も美しい笑顔が生まれた。

 瞳の端には、月の滴が一粒だけ飾られている。


「こちらこそ、あなたと沢山の思い出を残したく思います。その為ならば、どのような場所にでも参りましょう」

「大丈夫ですよ。戦場に比べれば、どこも可愛く感じるでしょうから」


 それはそうだと、二人はまた笑い合った。


 この出会いはいずれ、劇的にして情熱溢れる語られ方をすることになるのだが、事実を知る者たちだけは畏怖にも近い感情を抱いたという。

 やはり人の身でありながら神と称されるだけはある、と――。


 とにかくこの日、一人の娼婦がこの世から消えた。

 その後、【勝利の死神】の祝福により死を迎える者は、二度と現れなかった。

 【現世の戦神】もまた、血を浴びる機会がなかったそうだ。他でもない本人がそれを厭い、戦を回避する為に尽力したと歴史書には記されている。







 □□□






 喧騒と無縁な、とても静かで自然あふれる邸宅が、とある国のとある場所に建っている。


 そこには育まれ始めたばかりの生があり、時間と共に歩み寄る死があった。


 庭を覗いてみると、夜を宿したかのような見事な黒髪の女性が日光浴をしており、大きめなテーブルの上には生まれてまだ一年経っていない赤子の入った籠が置かれている。

 どうやら女性は書き物をしているらしく、アイリスの色をした鮮やかな瞳が手元で固定されていた。


 しかし、草を踏みしめる音が聞こえた気がして手が止まった。

 顔を上げて音のした方向を見ると、女性が途端に笑みを浮かべ、視線の先では一人の男性が手を挙げている。


「ただいま」

「おかえりなさい」


 二人はかつて、戦場にて神とまで呼ばれていた者たちだ。

 妻たる【勝利の死神】カテリーナは、肉体を交えた兵士の数人に対し、魂を奪う代わりに名誉を与えた。

 夫の【現世の戦神】クリストフェルは、時には知略で、時には剣で多くの敵を屠り、勝利を呼び込んできた。


 戦場娼婦、しかも敵国のと付くカテリーナと、主君からも信の厚いクリストフェルの婚姻には、かなりの障害があったのだが、二人はそれを物ともせず、今ではこうして溢れんばかりの愛を育み、新たな命さえ生み落している。


「私の息子は良い子にしていましたか?」

「もちろんですよ」


 クリストフェルが我が子を抱き上げて空いた椅子に座ると、席を立ったカテリーナがその隣で芝生の上に直接座り、控えめに寄り添う。

 彼らは幸せだった。出会いや人生の大半を過ごした環境は血生臭くとも、今ある平和をかみしめて過ごしていた。


「坊やは、沢山のお父さんに愛されて幸せね」

「え?」


 ただし、どこか変わっているのは相変わらずだ。

 聞き様によっては恋多き女のようなセリフには、さすがのクリストフェルも狼狽えている。

 戦いに赴くことが無くなったとはいえ、彼は忙しい身分にあり家を空けることも多いので、信頼していても疑う余地がありすぎるだ。


 しかし、カテリーナ本人は、夫の慌てる姿を笑い、さも彼の方がおかしいように扱う。

 さらには、諭すように語った。


「だって、この子の今があるのは、あなたや私を抱いた人たちの努力や痛みがあってこそでしょう?」

「いや、しかし――」

「あらあら、欲張りなお父さんですね。私の唯一の人であるだけでは足りませんか?」


 言いよどむクリストフェルへ尚も告げれば見事な追撃となり、さすがの【現世の戦神】も惨敗を喫した。どうやらこれまでの時間の中で、【勝利の死神】の方が上位に君臨したらしい。


 そして、逃げるように逸れた視線が、テーブルの上の紙へと向く。

 そこには大量の文字が記されていて、それが何か分かっているクリストフェルはとあることに気付き、愛しているが容赦のない妻へと顔を戻す。


「もしかして、だから物語を?」

「今更ですね。看取られることなく死した名も知らぬ兵士や、生還して平和を取り戻せた兵士たち。どちらも埋もれさすには、私は彼らを記憶しすぎていますから」

「そうすると、カテリーナの記憶力は、まるで自分を忘れることを対価にしているようですね」

「その分、あなたが覚えてくれているのでしょう?」


 その言葉に頷き、クリストフェルは片手のみで息子を抱くと、カテリーナによって刻まれた真実かどうか分からない誰かの人生へと手を伸ばして流し読んだ。


 彼女の本は、必ずしも幸福な物語ではないというのに、不思議と良く売れる。

 作り名で出版しており情報を隠しているので、最近では、正体を血眼に探っている者もいるという。


 どのような場所、どのような状態でも、他人に興味を引かせて止まない人だと苦笑せざるを得ない。

 もっとも、誰よりも捕らわれたのがクリストフェルなのだから、人の事を笑える立場ではないのだが。


「そういえば、我が君が自分の事は本にしないのかと仰っておられましたよ」

「まあ、お読みいただいているのですか?」

「私は今のところ、あの方以上のファンを知りません。まだカテリーナが作者だとお教えしていなかった頃、密偵を使ってまで探そうと一騒動起こしたのを伝えたでしょう?」

「そういえば、そうでしたね。では、宜しければ新作は、夏が終わる頃には出せるとお伝え下さい」


 それからカテリーナは、クリストフェルの太ももに頬を乗せ、息子の小さな手のひらへ指を置いた。

 温かく、そして力強く握られ、自然と口元が綻ぶ。


 とても深く眠っているのか、起きる気配が全くない。時折、ピクリと目元や指が動くのは、夢でも見ているからか。

 これから、もっと沢山の夢が待っている。その胸に抱く時もきっと来る。

 そう考える度、どうしようもなく自分の存在の希薄さをカテリーナは感じるが、その分いくつもの思い出を家族で作っていこうと思った。


 その為にも、彼女は死ぬまでクリストフェルを見続ける。

 彼の幸せが自身の幸せでもあり、生涯の全てがそこにあるのだから。


「それで、私の物語ですが」

「うん?」

「主人公が私ではないので、ご期待に添えるかどうか。それと、ご迷惑でなければご協力頂きたいのです」

「我が君に? それは困った。仕事を放り出されると、私が家に帰れなくなってしまいます」

「まあ……、ふふ。私の物語はまだ始まったばかりですから、ずっと先の事ですよ」


 不思議そうな表情をしたクリストフェルだったが、その後、息子が起きてぐずり出した為、深く尋ねることはできなかった。


 答えを知ったのは、カテリーナが死ぬ直前だった。

 彼女が最後に書き上げたその本は、二人の神が出会う夜で始まり、たくさんの愛で満ちていたという。

 そして、その主人公は【現世の戦神】と呼ばれた男だった。


 






 ちなみにカテリーナの出自は、クリストフェルと敵対していた国の重鎮の娘としています。ただ、彼女は双子の妹として生まれ、その国では双子が不吉とされており、母親の慈悲で殺されはしませんでしたが、長きに渡り幽閉されてきました。

 それが、戦争をきっかけに逃げ出す機会を得、そうしてクリストフェルと出会うことになります。


 しかし、二人共が細かいことを気にしない性質なので、結局それを知ることはありません。


 というわけで、お粗末さまでした。



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