表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

仕事をしていれば

作者: 竹仲法順

     *

 ずっと大手予備校で日本史を教えている。最近現役の高校生も放課後来るようになり、うちの東大進学率は以前よりも上がっていた。受験で使う日本史は丸暗記だ。要領がよければ、ちょこちょことした勉強だけで、マークシート式のセンター試験などでも簡単に万点が取れる。俺もそういった学生が増えているのを知っていた。別に気にはならない。受験などテクニックさえ覚えれば、後は何とでもなるからである。それに俺も正直なところ、教科書や参考書などに載せてある受験勉強の日本史など、教えても仕方ないんじゃないかと思っていた。血が通ってないからである。単に丸暗記、単純暗記で面白くも何ともない。別にいいと思っているのだった。これが学生たちに対する歴史の教え方であると割り切ってしまえば構わない。午後八時前まで行われる授業が終わってしまった後、タバコを吸いに講師室の隅の喫煙コーナーへと行く。ゆっくりと味や匂いがややきつめのタバコを吸いながら、寛ぐ。不意に背後から、

「奈良岡先生、ちょっと」

 と言って、予備校に常駐するチューターが来た。確かこの女性は在原(ありはら)未砂子(みさこ)だ。在原がやや渋い顔をして、

「生徒から査定来てますよ。私も一通り目を通しました。先生の授業は残念ながらあまり評価が高くありません。むしろ酷評されてますよ」

 と言う。

「僕の授業評価が来てるの?」

「ええ。東大を狙うにしては少しレベルが低いんじゃないかなどとも書いてあります」

「それはね、君、東大受験の日本史は確かにレベルが高いよ。でも、今の高校生とか浪人生はちゃんと虎の巻持ってきてるでしょ?それを元手に授業やってるだけで」

「でも現にレベルを上げて欲しいという要望が多数来てます。先生はそれに応えられるのですか?」

「もちろん授業のスピードを上げることは出来るけど、それで生徒たちが付いてこれるかな?国公立は私立と違って全科目あるわけだから、生徒たちも日本史にばかり時間は割けないと思うよ」

「まあ、そうかもしれませんが……」

 俺もタバコの火を消し「フゥー」と軽く息をついて、

「チューターさんは生徒指導して。僕は僕でやることがたくさんあるから。特に添削なんか大変だ。徹夜だよ」

 と言い、講師室のデスクへと舞い戻った。これから生徒たちの書いた答案を持ち帰り添削する。それだけでも大変だった。ちゃんと明日も通常通り午前九時には出てくる。自宅マンションから。

     *

 やるべき仕事が山ほどある。仕事していれば、苦い過去も忘れられるのだ。いいと思っていた。実際仕事が立て込んでいる。きついと思うことはあった。ただ、予備校では九十分間の授業時間中に学生の現浪問わず、どれだけの密度がある授業を出来るかが問題であり、一番の課題だ。日本史の授業もセンター対策などは三ヶ月もあれば終わる。そして二次試験対策に授業の重点が置かれる。二次は筆記なので、覚えていることを全て答案に出すことが求められた。単なる択一などじゃなくて、論述など論理的思考力を試す問題が出題される以上、しっかりとした知識の蓄積が必要だ。俺もそういったことは承知していた。「奈良岡の日本史には密度がある」と思わせたいのだが、いかんせん授業を受ける学生は文句ばかり言う。俺も当初参っていた。東大受験クラスに行くと、ほとんどの生徒が教科書や参考書を丸暗記していて、授業がやりにくい。逆に質問されたりすることもあった。「こんなことが参考書に載ってたんですけど」などと。一応パソコンで作っていた虎の巻には東大受験のハウツーが網羅されている。文句はないだろうと思えた。ただ、このクラスの生徒たちは男女問わず、東大受験をターゲットに据えている。実は俺も東大文学部出身なのだ。入学して史学専攻で日本史をやっていたのだが、学校自体に辟易してしまい、四年の後期に退学届を出して中退した。それから今の予備校に拾われたのである。もちろん講師として入ったのが二十二歳のときだったから、まだ若かった。ずっとここに世話になっている。確かに人気講師じゃなかったのだが、<奈良岡の日本史>という謳い文句で首都圏では多数の生徒たちを東大に進学させてきた。クラスには東大ターゲットの人間しか来ない。滑り止めに受ける私大など一校もなくて、皆背水の陣で臨んでいる。真剣そのものだった。この子たちには大学進学にも相当な意欲があるなと思う。実際、センター対策で他の科目も勉強していたのだし適わない。ただ、言えるのはここに来る子たちは皆親が裕福で、将来就きたい職業などを問うと、医者や弁護士、検事、官僚、一流企業のサラリーマンなどと言うからレベルが違う。俺も知識を総動員して授業に臨んでいた。この子たちに応えてやりたいと。実際公立高校でも私立でも意識は高い。適わないなと思っていた。授業するにしても、板書したことは全て写し取り、確実に知識にしていく。優秀だと思えた。一つ一つ確実に物にしていく。九十分間喋りに喋ってから、次の授業用のプリントを渡し、クラスを出る。このクラスの子たちはほとんどが現役で東大に進学できると踏んでいた。そして俺も最高学府に生徒を送り出せば、また講師としての知名度や人気度が上がる。地味にやろうと思っているのだった。焦らずに一つずつ。実際この予備校からも、毎年相当数の人間が難関大学に進学している。応えるしかなかった。そういった子たちに。

     *

 夜、睡眠時間を削って生徒たちの答案を添削し、翌日通常通り授業するため、また予備校へと行く。昼間は浪人生の集まる東大クラスに授業をしに行き、午前中一コマ教えてから、午後からはまた別の東大クラスに講義に行った。どっちもハイレベルだ。浪人生はセンター試験を一度や二度経験しているので、センター対策は万全だった。問題になるのは二次試験だ。二次で得点を稼がないと、合格できない。もちろん過去問一年分を一度の授業時間中で解かせ、後で解答解説する。俺も徹底しているのだった。この子たちの一人でも多くが赤門を潜って欲しいと。予備校に通う浪人生も必死だった。過去問二十年分ぐらい、軽く解くのである。それに二次でも文系は国語や英語があるのだし、理系だと英語に加えて数学や理科もある。理系の学生たちは単にセンター対策だけだから、サラッと一通り試験に出そうなツボだけを教えておいた。文系の学生は二次で日本史か世界史のどちらかが課されるので、文理では状況がまるで違う。俺の主な講義相手は文系の学生だ。さすがに浪人生も一年や二年遅れとはいえ、しっかりとやっていた。不合格だった経験があるからだろう、かなり入れ込んでいた。いったん合格圏内に入れば、後はそのランクを維持していけばいい。俺もしっかりと教え込んでいるのだった。もちろん予備校に通えない現役生や浪人生もいる。そういった子たちでも稀に東大に進学する人間はいた。学校の教科書や参考書などを覚え込み、赤本もしっかり解いて、出題パターンを把握するようだ。受験などテクニックだけで何とでもなるのだった。俺も昔はそうだったからだ。東大文学部に入ったのも独力で頑張ってからだった。一度も予備校の授業などを受けたことがない。その分、受験で得ていた知識を総動員する。それに予備校講師が今の仕事だ。知識の切り売りだが、いいと思っていた。東大を始めとする難関国立大学に行きたい学生に日本史を教え込むのが、今の俺の仕事である。そう思ってやっていた。確かに講師の査定はあるのだが、それは仕方ない。必要に応じて板書しながら、九十分間喋る。優秀な生徒は予習・復習しているので、十分付いてこれていた。俺も現浪問わず、しっかりと教え込んでいる。授業はとても貴重な時間なのだった。学生たちの進路が掛かっているからだ。一つ一つ教えながら、俺も自信を取り戻しつつあった。自分の講義の仕方に悪い点はほとんどないと。そして今日も指定の時間に指定の場所で講義をする。予備校というのは、実にこういったことが内情なのだし、一人でも多くの生徒たちに難関国公立大学に行って欲しかった。それが今、俺のような講師に求められていることだ。予備校もちゃんと金儲けの仕組みがあって、ビジネスとして成立しているのだし……。

                                 (了)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 小説を書くのは大変なことだと思いますが頑張ってください! 応援してます!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ