僕の気持ちに変わりはない
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病院の個室のベッドの上にいる佐緒里は目を閉じていた。眠っているのだろうか……?それとも意識があるのだろうか……?僕は彼女が末期のガンで、もうすぐその命が消えようとしていることを知っている。室内には生命維持装置がたくさん置いてあり、佐緒里の体中に付けてある。だけど、もうすぐお別れなのかもしれない。せめて死ぬ前にキスだけでもしたかった。ゆっくりと唇を重ね合わせ、この世界で出会えた奇跡を感じ取りたい。何も特別なことは必要なかった。ただ、最後ぐらいは一緒にいたいのだし、あの世へと旅立つところまで見送りたいと思っていた。
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「宏」
突然目を開けた佐緒里がゆっくりと口を開く。転寝していた僕も気付き、慌てて、
「どうした、佐緒里?」
と訊く。彼女が、
「海……見たいわ」
と言った。
「海?」
「ええ。街の外れにある海岸に行きたい。せめてあそこから旅立ちたいわ」
「弱気なこと言うなよ。俺が連れてってやる」
気丈にそう言ったのだが、佐緒里の意識は遠のきつつあるようだった。もしかしたらこれが彼女とのこの世での最後の時かもしれないと思い、ゆっくりと口付けを交わす。そしてその一時間後、佐緒里はこの世での生を終えた。僕も最後まで付き添った。彼女が亡くなるところまで。涙溢れた。泣き濡れてしまう。さすがにどう言いようもなかった。これが僕と佐緒里の過ごした最後の時間であり、生きては二度と会えない。もうあの笑顔を対面して見ることが出来ないのだ。悲しい気持ちが強かった。愛する人と別れるのがこれほどまでに辛いとは。
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亡くなった人間が二十七歳という若さだったので、葬儀は身内だけで執り行なわれた。僕も喪服で参列し、ポケットに忍ばせてある小さなビンを握り締める。出棺した遺体が火葬場に運ばれて火葬されるまで見届け、佐緒里の骨を拾ってもらうためだ。海を見たいと彼女は言っていた。その願いを叶えてあげるためにあえてそうするつもりでいた。僕も遺族に同席し、街の外れにある火葬場へと向かう。山の中だったが、マイクロバスで行けば三十分ぐらいで着く。そして告別式の後、遺体が焼かれた。棺には遺品などいろんなものが詰め込まれ、蓋をされて竈へと入れられる。しばらく時間を経て、遺体が焼き上がり、真っ白な骨がたくさん残っていた。一掬いだけ手に掬い取り、ビンに詰める。そしてそれを喪服のポケットに忍ばせた。佐緒里の遺族には内緒で。
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Tシャツにジーンズというラフな格好でオートバイを飛ばし、海へと向かったのはその週の週末だった。葬儀から三日ほどが経っている。蒸し暑い日だった。ちゃんとビンは持っている。中にはサラサラとした骨が入っていた。僕もバイクを飛ばし、街の南側にある海岸に辿り着いた。夏らしく絶えず南風が吹き付けている。ビーチに行き、風の方向が南向きであることを確かめてポケットに詰め込んでいたビンを取り出す。そして手に取り、撒き始めた。フワッと浮いた白い粉状の骨がゆっくりと宙を舞う。すると次の瞬間、目の前に佐緒里が現れた。しかもにっこりと微笑んで。
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「宏」
「ああ。来てくれたんだね、佐緒里」
「ええ。あなたが骨を撒いてくれるのをずっと待ってたのよ。ここから旅立つわ。あの世に向かってね」
「せめて最後だけでも抱かせて」
「うん。抱きしめてくれると嬉しい」
シルエットだった佐緒里がそう言い、ゆっくりと僕に抱きつく。僕も抱き返した。ギュッと抱くと、何も生前の彼女に対する気持ちに変わりがないことに気付く。夢中で抱き合った。ゆっくりと腕同士を絡め合わせて。そして甘い口付けを交わす。霊魂である今の佐緒里も生前の彼女と変わりなかった。それに僕の彼女への気持ちも全く変わりがない。抱き合って口付けを交わす。佐緒里が旅立つのはこれから先だった。僕との抱擁を終えてからである。
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「じゃあまたね」
「ああ。いつそっちに来れるか分からないけど」
「いつでもいいわよ。ずっと待ってるから」
佐緒里の霊がそう言ってゆっくりと向こうの世界へ向かう。もうしばらくは会えないだろうと思った。骨の入っていたビンを海に向かってポーンと投げる。放物線を描き、ビンが飛んでいった。そして僕は駐車していたバイクに跨り、エンジンを掛けてアクセルを踏み込み、走り出す。これでいいんだ。俺は彼女を海へと還した。何も違和感などない。
不意に背後から大型トラックが来て、僕の乗っていたバイクへと突っ込んできた。避けようがなくてバーンとぶつかる。そして吹き飛んだ体は、バーンと思いっきりアスファルトへ叩き付けられた。意識が遠のく中で思う。「佐緒里、もうすぐそっちに行くからな」と。救急車が来たときのサイレン音だけは辛うじて覚えている。僕も天に召されるのだ。何があるのかは分からないにしても。その後の記憶は一切ない。多分、この世があればあの世もあるだろうぐらいに思っていて。そしてまた会えると感じていた。佐緒里に。
(了)