神父と騎士と満月と
静かな夜だ。
静謐を象る月明かりこそが、この教会には相応しいと、男は思った。
ステンドグラスの向こう側に、満月がある。
光を透かすステンドグラスは、外が明るい時にこそ美しいものだが、今の微かな明かりの中に浮かび上がる救世主の姿が彼のお気に入りだった。
青白く、仄かに光る。
敢えて灯りを点すなど、無粋な真似はしない。
満月の光が、彼の心をどうしようもなく惹きつける。月夜に胸が騒ぐのは、狼男かハイド氏か。ふとそんなことが頭をよぎる。何にせよろくなものではない。
「それもまた、僕には似合いでしょう」
男は一人ごち、かすかに笑い声をあげた。
暗がりに照らし出された顔は、まだ若い。髪は襟足で切りそろえられ、表情も穏やか。一見して温和な好青年のように思われる。
「ねえ。貴方もそう思いませんか?」
男が振り返った先の空気がざわめく。
教徒が訪ねてくる為の、重い扉近く。祭壇からずらりと列を成す長椅子で言えば、最後尾に当たる。
その椅子の陰に、身を潜める者が一人。しかし、声をかけられても動かずにじっとしている。
男は潜伏者につかつかと歩み寄り、懐からナイフを取り出した。
二人の距離が、一メートルにも満たないほどになって、ようやく潜伏者は勢いよく身を起こし、飛び退る。
ナイフが壁に突き刺さった。
飛び退る潜伏者に向かって男がナイフを投げつけたのだ。
避けられた。もう一撃、今度は外さない。
そう確信しての投擲だったが、カチリと金属的な音が聞こえるが早いかナイフは進行方向を変え、床に刺さる。
潜伏者が剣でナイフをはらったのだということが、長い影で分かる。
「おいおい、随分と物騒な神父さんだな」
潜伏者がようやく言葉を発する。祭壇から遠く、窓は高い位置にある。壁際にはおよそ光が届くことなくシルエットだけしか分からない男の声は、随分と若い。
能天気な声だったが、神父は再びナイフを構えた。
「ちょっと待てって。俺は怪しいもんじゃねえよ」
能天気な声がいくらか慌てる。
「こんな夜更けに教会に忍び込むような男が怪しくなくて、他に何が怪しいというんです?」
穏やかな声は殺気に満ち溢れ、狂気に歪む。
「え、えーと。ほっかむりして唐草模様のふろしき担いでるやつとか?」
「今時そんな泥棒はいません」
再びナイフが飛ぶ。
「ツッコミ代わりにナイフを投げるな!」
暗いため避けづらいようで、潜伏者は慌ててステンドグラスの方へと向かう。今、この教会の中で一番光のあたる場所へ。
その足音が随分と重く、金属の音が混じる。祭壇の前で足を止め、深く息を吸い込む。
「ジョイス・トルーマン! 職務熱心で結構なことだ!」
緊迫した空気を吹き飛ばすかのような大声。明かりに照らされた潜伏者は腰まである長髪を一つに括った男。
しかしジョイスと呼ばれた神父の目を引いたのは、潜伏者の燃えるような赤い髪でも屈強そうな長身でもない。潜伏者が身に纏っている、白銀の鎧であった。
「帝国騎士団…?」
呟くと同時にジョイスの纏う殺気が和らぐ。気付いて、男はホッと肩の力を抜いた。
「俺は帝国騎士団リドル支部のラドルフ・アイディール。この教会の監察を任されている。なんなら身分証明書もあるぞ」
「その監察が何故こんな夜更けに隠れているんです」
ラドルフの自己紹介に応じるジョイスの声には明らかな不審がにじみ出ている。未だにすぐ殺気がぶり返しそうであると判断したラドルフは先ほど抜いた長剣を鞘に収め、戦う意思がないことを両手を振って示した。
「この教会は国のものだ。告知して取り繕われた外側を見ても仕方ねえ。まず最初に隠れて様子を窺うのが通例なのさ」
腰帯に挟まれていた紙をラドルフはかざす。もっとも、月明かりのみの暗い教会の中ではその紙片に何が書かれているかなどわかるはずがない。
「あ、疑いの眼差し」
「…貴方が嘘をついているからです」
ラドルフとジョイスの距離は今は約二メートル。向かい合うジョイスの表情はやけに冷たい。
「教会ではなく、僕の調査に来たのでしょう? この教会を守るに相応しいか否か」
「何故そう思った?」
ラドルフの問いは、どこか愉快そうな響きが含まれている。
「普通に考えておかしいでしょう。教会を見るなら礼拝、孤児院の様子で十分ですし、不正が行われていないかの確認なら正面から書類を差し押さえに来ればいいんですから」
パチパチパチ…
突然の拍手。ジョイスは呆気に取られ、目を丸くする。
「お見事。そこまで分かったやつはあんたで初めてだ」
「…ということは…」
「ご名答、まさにその通り」
拍手の音が反響する。そこでやっと、本来この教会の中が静かであったのだとジョイスは思い出した。
賑やかな男だ。ラドルフが来てから、当然のごとく存在していた静謐がどこかへ消え失せてしまっていた。
「で…僕のことはどう報告するおつもりで?」
すっかり毒気を抜かれ、力なくジョイスは問う。
「ん? 勿論ここを任せるに相応しい神父だってな」
「本気ですか?」
「まあ、ちと過激すぎる気もするけどな。それだけここを必死に守ろうとしてるとも言える」
ラドルフは先ほどの紙片を元通り畳み、腰帯に挟む。
「この教会なんてどうでもいいですよ…」
ジョイスの応えに、お?というようにラドルフは目を瞬かせた。
「ただ僕は、子どもたちを守りたいだけです」
「ここの孤児院のか」
ジョイスは俯いた。己の腕を掴む手に力が込められる。
「それでも、ここを任せるに相応しいと?」
「そんなに、出て行かせられたいのか?」
間髪いれずにラドルフは問い返す。顔を上げたジョイスの瞳は、月の青白い光を取り込み妖しく輝いた。
「月夜は胸が騒ぐんですよ」
腕を掴む手の爪が立てられる。
「知っていますか…? 満月の夜というのは、月の魔力に魅せられた魔物が力を得るのだと…」
「で?」
「僕もね、満月の日はどうも自分を抑えられそうになくなる。狂気の中に取り込まれそうになるんですよ」
静謐が濃さを増した。
実際の音など関係なく、ジョイスの発する雰囲気がそう感じさせるのか。
「大丈夫だ、満月と言えばうさぎも出てくる」
大真面目に、ラドルフは言い放った。先ほどからやけに発言が極東の国じみているが、それは触れておかないことにしよう。
「ぷっ…」
「ぷ?」
「あははははは。面白い人ですねえ、あなた」
噴出して笑い始めたジョイスを見ると、ラドルフはがりがりと粗雑な手つきで頭を掻いた。
「そんな笑うほどのこといったか?」
「言いましたよ、もう。私がうさぎに見えますか?」
「見えない。が、俺には他の化け物にも見えねえな」
腕を組み、ラドルフはジョイスを見下ろす。ジョイスもけして背が低くはないが、何分体格のいい騎士と比べるとやはり差がある。
「どちらかと言えば、まだうさぎに見えるかな。あんたは優しいから」
声をあげてラドルフは笑う。一方のジョイスの笑顔は引き攣っていた。
「あなた、気は確かですか? 私はいきなりナイフを投げつけるような奴ですよ?」
「勿論だ。そんな自分の嗜好を気にして出て行ったほうがいいなんて思う奴が優しくないなんて、俺は思わないね」
「なんとまあ…幸せな思考回路ですね」
「褒め言葉として受け取っておこう」
にこりと笑い、ラドルフは扉に向かって歩を進める。つまりは、ジョイスの方へ。
「夜も白んできた。俺はもう帰ろう」
擦れ違いざまにジョイスの肩を叩く。
「あんたのことは、優しく職務に忠実な神父で問題ない、と報告しておくよ」
「それはどうも。――神様のご加護を」
ひらりと手を振り、いまだ暗い西の空に向かいラドルフは去って行った。
扉が閉まり、反響する音も静まった頃。
それからどれだけの時間がすぎただろうか。急激に静まり返った教会で、ジョイスは祭壇の前に立つ。
「優しい…か」
徐々に朝日が照らし始めるステンドグラスを見てジョイスは呟く。
「こんなにも偽りに満ちているのに?」
月とは違ったまばゆい光、魔物たちが眠る時間。だけれど、ジョイスはまだ目を覚ましている。
「仮に神様がいるのだとしたら…いつか罰を与える時を思って笑っているのでしょうよ。こんな偽善者には、ねぇ?」
どうにもうまく文がまとまりませんでした…。
この二人で短編連作などをしようかどうしようか、現在迷っています。