頭の悪い話
「今、もし、私が犬の糞を踏んだと言ったらどうする?」
僕の隣で道を闊歩していたみっちょんは、唐突に立ち止まり、青ざめた顔で僕に言う。
僕は思わず距離を取った。
電信柱の横で立ち止まったままのみっちょんは、慌てて弁解する。
「ま、待て!君にはまだ確定した真実じゃない!カムバック!」
僕とみっちょんの距離はじわりじわりと離れていく。
なんてことのない歩道でも、危険はまるで地雷のように身を潜め待ち構えている。彼女はその地雷を踏んでしまったのだ。非情だが爆発する前に僕は非難しよう。
さようならみっちょん、今まで君と過ごした日々は忘れない。靴はちゃんと洗ってね。
「こら、この薄情者!
じゃあ踏んでない、踏んでないから!冗談だから!」
「ごめん、じゃあね。また明日学校で!」
「待てこらこの野郎」
みっちょんがずかずかと荒い足取りで近寄ってくる。ついでに口調も荒い。その気迫と雰囲気と足元のアレのトリプルコンボに、更に距離が開くのは仕方ないことだと思う。
「冗談だって言ってるだろ、もう。」
さっきの青い顔は到底冗談には見えなかったが、とりあえず距離を取るのはやめる。眉間に皺が寄っていたのだ、これ以上やっていたら地雷を踏んだ靴で蹴られてたかもしれない。
だが彼女の足の動きには細心の注意を払う。
みっちょんは無意識のうちに人の足を踏む癖がある。
普段はちょっとうざったい程度の癖だが、今この時ばかりは大問題だ。
そんな僕の行動を見てか、みっちょんはふんと鼻を鳴らした。
彼女が再び歩道を歩きだしたので、僕はその左隣に並んで歩く。
これがみっちょんと歩く際の定位置なのだ。
「…それで、本当に踏んだの?」
「何が?」
何がも糞もないだろうと言おうと思ったが、先ほどまでの慌てようはどこへやら。みっちょんはまるで何事もなかったように話を流してしまった。自分から暴露したくせに。
「…君はどうやら、私が踏ん付けたと決め付けた、ようだけれどね。」
と、思ったらまた自分から話し始めた。一体どうしたいんだろう。
流したいのか話したいのかはっきりしてほしい。僕は早く洗い流してほしい。
「現に踏ん付けたんでしょ。」
「それは君の中の真実であって、現実にある真実は違うのだよねこれが。」
わかるかいワトスンくん?とみっちょんはのたまう。
目が合うと、彼女は実に得意げな表情をしている。いらっとするなその顔。
「もう屁理屈はいいから…要するに踏んだんだろ。」
「何が要するにだ、全然要してないだろが。
私の中の真実では、さっきのはただの爽やかなジョークだったんだよ。」
どこが爽やかなのか。むしろどこの世界の爽やかなんだろう。
少なくとも僕の知っている世界にある爽やかではない事は確かだ。
何にせよ、強情だ。何時まで誤魔化す気なんだろう。
正直である事は大事だとワシントンの父親も言ってるじゃないか。
聞くところによると事実無根の話らしいが、良い事を言ってるので良いと思う。心に染みる良い言葉を言う人間が、必ずしも心に染み入る良い人間とは限らないのだ。
などと大分話から逸れてしまった事を考えていると、みっちょんがその煩い口を開いた。
「…いいか、君…『シュレディンガーの猫』という言葉を知ってるかい?」
僕がみっちょんの意見を全く信用していないのが、どうやら顔に出ていたらしい。まあ隠すつもりはまるでなかったが、これはこれで面倒な事になってしまった。
みっちょんは僕を信用させるため、屁理屈の解説をするつもりなのだ。長くなるぞ。
「知らない、何それ」
だがここで話を切ってしまうのも哀れだと思い、乗ってあげる事にした。彼女は自分の話を切られると、いつもの元気が嘘のように落ち込んでしまい、それはそれは可哀想な状態になる。そんな状態のみっちょんの相手をするのは、それはそれは面倒臭い。
このまま聞いていても長くて面倒臭いし、話を切っても後が面倒臭い。
どちらに転んでも面倒臭いのだから、みっちょんが落ち込まない方向に進めてあげよう。
「ふふん。『シュレディンガーの猫』というのはなあ、猫が…猫が、なんだっけ?」
自信満々に始めた割に、彼女の記憶も曖昧らしい。
果たして僕は、猫がどうなるのか知る事が出来るのだろうか。
早くも不安しか残らなくなった。
「あ、思い出した!
『シュレディンガーの猫』というのはね、猫の生死を問うなんちゃらなんだ。」
「なんちゃらって…。」
「だから、毒が50%の確率で発生する箱の中に猫を入れるんだよ。
そしてその猫の生死を問うという…話、だよね?」
だよねと言われても僕は知らない。言葉自体初めて聞いた。
自慢じゃないが、みっちょんの恋人と言うだけあってそれ相応に頭が悪い。みっちょんと円満に付き合うには、頭が悪いことがまず第一条件として挙げられる。
「まあ、つまりだね。
その猫が死んでるか生きてるかは、箱を開けるまでのお楽しみ…ってことでいいや。」
「死んでたらまるでお楽しみじゃないよね、グロテスクだよね。」
いいやと彼女は言い切ったが、僕は多分違うだろうと思った。少なくとも、でいいや、で語りつくせるほど簡単なものではないのは確かだろう。
みっちょんがうろ覚えで話す知識ほど信用できないものはない。
「だから私の靴の裏も『シュレディンガーの猫』状態な訳なんだよ。
君が靴の裏を見るまで、私が踏んだのか踏んでいないのかは君にはわからないんだ。
君が踏んだと言う主張が例え君の中の真実であっても、君は現実にある真実はわかっていないのさ。」
つまり彼女は、確かめてもないのに踏んだと言い切るなといいたいのだろう。しかし何といわれようと、彼女の言う僕の中の真実は変わっていない。踏んだんだろうどうせ。
「…やっぱり全く信用してないね君…。」
「うん。」
また表情に出していたらしい。
僕ってなんて正直者なんだろう、みっちょんとは大違いだ。
「それにしても、折角頭の良さそうな単語を出したんだから…。
その意味くらいちゃんと覚えておいてよ、格好が悪いな。」
『シュレディンガーの猫』を考えた人に失礼だろう。
名前がついてるだけあってシュレディンガーさんが考えたのだろうか。それとも猫の名前がシュレディンガーなのか、毒の名前がシュレディンガーなのか。
「頭の良さそうな単語なんて、頭のいい人が使うものだよ。
頭のいい人の頭のいい話を小耳に挟んだら、自慢げに多用するのが馬鹿のやり方なのさ。」
ああ、そういえば彼女は自慢げに話し始めていた。
僕も小耳に挟んでしまったからには、他の誰かに自慢げに話すしかないのだ。意味も理解せずに誰かに伝えても、その相手もどうせ馬鹿なのだから関係はない。
「頭のいい話ってのは人から人に伝われば伝わるほど鮮度が落ちるんだ。
特に馬鹿が馬鹿に話したら尚更、鮮度どころが腐り落ちちゃうね。
例えるなら鯛から一転、嘔吐物だ!」
「腐ってないし、下品だよ。」
「例えは馬鹿みたいで下品な方がわかりやすいんだ。」
苦し紛れの言葉か、彼女の信念か。
何にせよ、みっちょんが頭が良くて上品な話をしているところなど、一度たりとも見た事がない。どうもこのみっちょんと言う人物と会話していると、いつの間にか話が逸れる。そして下品になる。
そういえば犬の糞がどうのこうのも、結局本当だったのだろうか。
僕は彼女の足元をみる。
―――踏んでいるな、確実に。
よく見ると摺り足で歩いているのだ、何てまあ無駄な抵抗。何が私の中の真実だ。踏んだなら踏んだで正直に言えば、僕は先に帰っていたというのに。
彼女の靴をじっと見ていると臭ってきそうで、僕は目を逸らした。
「靴、ちゃんと洗いなよ」
「別に汚れてないし、洗う必要なんかないし」
また強がりかと、今だ摺り足の彼女を見る。
僕の熱烈にして絶対零度の視線に気づいたのか、みっちょんは目線を僕の顔に移す。目が合うと彼女はにやりと笑い、なんと足を上げて靴の裏を僕に見せてきた。はしたない。
思わず目を瞑るが、予想していた悪臭はない。
恐る恐る目を開けると、何とまあ綺麗な靴底か。
まさかここまでの距離で、全部道々に擦り付けて来たんじゃあるまいなと、僕は思ったが、後ろの数mを見る限り物証はまるで残っていなかった。
僕を騙すために摺り足をしていたのだろうか、もしかして。
「君の真実は実に脆い!」
みっちょんはこつこつと、わざとらしく足音を立てながら、呆れる僕をおいて行く。隣に並ぶ気にはなれなかった。どうせ小憎たらしく爽やかな笑顔を浮かべているのだろう。
こんなに、まるで身のない話だと言うのに
ここまで読んでくださいまして本当に有難う御座いました。