蜘蛛の雲の糸
引き篭もりの男の前に現れた一匹の蜘蛛。
【雲】と名付けた蜘蛛と男の不思議な生活。
ふと視界の隅に何やら動く気配を感じ目線を上げると、見慣れない蜘蛛が部屋の天井の片隅にいた。
小さく、丸く、蜘蛛なのに暖かそうなふわふわの綿のような毛並み。
綿あめのような物珍しい姿が可愛くて、俺はそいつを【雲】と名付けた。
別に殺しても良かったけど、人生の大半を誰にも会わずに過ごしている俺はやっぱり少し寂しかったみたいだ。
家から出なくなってもう何年だろう。
中学に入ってすぐからだから、もうすぐ二十年か。
頑張って外に出ようと何回も思ったけどダメだった。
外は怖い。
俺に酷いイジメをした奴らがいる。
俺が殴られ蹴られても黙認していた担任がいる。
クラスの裏アカウントに流された俺の隠し撮り写真と、誹謗中傷のコメントに良いねが何個も押されている世界がある。
学校にも行かず、働いていてない俺を否定する世界がある。
外は怖い。
俺の両親は最初の頃こそ俺を慰め優しい言葉をかけてくれたが、今となっては部屋の前に食事やネットで注文した荷物を置きに来るだけだ。
それでも無職の俺を養うために共働きで頑張ってくれている。
申し訳ない、不甲斐ない、でも怖くて出られない。
両親がいなくなった後のことは考えたくないので考えない。
こんな人生もう辞めたい。
辞めたいけど死ぬのも怖い、不甲斐ない。
「おーい、ここにお前が食べられるような食い物はないぞ。」
俺は【雲】に向かって話し掛ける。
蜘蛛の【雲】は俺の声に臆することもなく天井付近を彷徨っていた。
「ま、外は雨だし少しの間ゆっくりしていけよ。」
台風の影響で長雨が続いている。
外の世界を見たくない俺は部屋の窓は常にカーテンで閉め切っているので、パラパラと降る雨の音だけが部屋に響いている。
雨が上がれば【雲】も何処かへ引っ越してしまうのだろうか。
そんな事を考えて俺は少しだけ寂しくなった。
翌日、【雲】は天井の隅に蜘蛛の巣を張り始めた。
綿のような身体から出て来る白いモコモコの糸で作られていく巣は、巣というよりもどちらかというと本物の雲に近かった。
こんな目立つ巣で獲物なんか捕まえられるのかと俺は内心疑っていたが、【雲】はお構いなしにまるで踊るように優雅に巣を作っていく。
こいつは雲が好きなのかな。
【雲】が楽しそうにしていると何故か俺の気持ちも安らいだ。
俺は【雲】と過ごす時間が唯一の楽しみになった。
俺が話し掛けるとジッと俺の顔を見て来る。
長い間ネットやゲームの世界に逃避していたが、顔が見えなくてもやはり人は怖かった。
【雲】は何も言わない。何も求めない。
それが俺には嬉しかった。
一週間もすると、【雲】の巣は俺の狭い部屋の天井を覆うほどの大きさになってしまった。
家の中にもう一つ空ができたみたいだ。
巣の中にいるのか【雲】の姿もなかなか探し出せない。
「【雲】?」
心配になって俺が天井に向かって呼び掛けると、暫く時間を置いてから【雲】がひょっこり巣から顔を出した。
「良かった、元気なら良いんだ。でも頑張り過ぎるなよ。」
俺は【雲】にヒラヒラ手を振った。
心なしか「お前も頑張れよ。」と【雲】も俺に向かって前足を振っているように見えて、俺は嬉しくなった。
しかし、それから俺が【雲】を見る事はなくなった。
天井を覆い尽くす雲ような巣に向かって呼び掛ける。
何処かにいないか床や壁を探してみる。
雨の音が鬱陶しい。
俺は自分でも驚くほど必死に【雲】を探した。
勝手に友達だと思っていたけど、【雲】にとってはまぁ、ただの人間だよな。
俺は勝手に一人で傷付いて、勝手に一人で少し泣いた。
【雲】が消えて何日か経ったある朝、目覚めた俺が見たものは、天井の【雲】の巣から伸びる一本の糸だった。
モコモコの綿のような糸。
俺はふと、昔読んだ芥川龍之介の小説を思い出した。
確か、お釈迦様が地獄にいる悪人を天国から蜘蛛の糸を垂らして救おうとする話だった。
まさか、【雲】がお釈迦様で、地獄のような世界にいる哀れな俺を救おうとしてくれているのか。
そんな馬鹿な、と鼻で笑いつつも俺は垂れ下がった糸から目を離せなかった。
俺は興味本位で糸を掴んだ。
どうか、苦しむ俺を助けてくれよ、と僅かに願いながら糸を軽く引っ張った。
プツッ。
糸は切れた。
巣の上から舞い踊るように糸がゆっくり落ちて来る。
糸の先に付いていたのは、【雲】の死骸だった。
【雲】は俺の掌の上に落ちて来た。
足を胴体に縮こませて、動かない。
「なんで。」
何で死んだ。何で動かない。何で、何で、何で。俺は瞬きも忘れて【雲】を見ていた。
エサがなかった?
糸を引っ張ったから?
元々弱っていた?
答えの出ない問いが頭の中をグルグルと回る。
「ごめんな。」
【雲】を飼っていた訳じゃないけど、自分が死なせてしまったように思えて謝りたくなった。
そうだ、埋めてあげよう。お墓を作らなきゃ。
俺は泣き腫らし、ぼんやりとした頭で考えた。
この暗く狭い部屋に埋葬するのは流石に【雲】に悪い。
あいつはきっと雲が好きだから、雲みたいな巣を作っていたのだろう。
雲?
俺はカーテンから漏れる光を見た。
雨はすっかり止んだようだ。
「母さん。ちょっと、外出て来る。」
リビングにいた母親は目を丸くして俺を見た。
息子が面と向かって自分に話し掛けるなんて思いもしなかったのだろう。
「出掛けるって、何処に。」
二十年近く部屋に引き篭もっていた俺の言動に混乱した母親が、しどろもどろに聞いて来る。
俺は手の中にいる【雲】を確認し、決意して玄関のドアに目を向けた。
「雲が良く見える場所。」
【雲】は俺を地獄から引っ張り上げてはくれなかったけど、その代わり俺の所に来てくれた。
俺は救われなかった。でも、外に出た。
【雲】に雲を見せるために。
二十年振りの空の下。
柔らかい風が身体を撫でる。
日差しに慣れていない肌がピリピリと驚いている。
見上げると広く高く深い青空に、大きな雲が一つ浮かんでいた。
まるで【雲】の巣のようだった。
〈終〉




