双子の弟レイ
時を同じくして。
夜の森には冷たい風が吹き、鬱蒼と生い茂る木々を揺らしながらかすかな音を立てていた。
その静寂を破ったのは、か弱い赤子の泣き声であった。
木々に反響するその声は、獣たちの興味を誘い、やがて暗い影はいくつも近づいてくる。
泣いていたのは双子の弟、レイであった。
兄とは知らぬ距離の向こうで、この子もまた同じ夜に生を受け、そして同じ夜に捨てられた幼子であったのだ。
籠の中で小さな手を振る赤子に、獣たちはさらに歩み寄る。
しかしその前に、ひらひらと黒い羽根が舞い降りた。
「なんだこれ?……ちっちゃくて、可愛いなあ」
赤子を覗き込んだのは、甘く掠れた声で笑う一人の悪魔であった。
それは漆黒の翼を持つ、インキュバスでもあったのだ。その名は、ムウという。
赤子は泣き止む気配もなく、空を見上げて手足をばたつかせる。
その仕草があまりにも小動物めいていて、ムウは思わずにっこりと目を細める。
「よしよし。こんな可愛いの、森に置いといたら食われちゃうだろ?面白そうだし、拾ってこ」
ムウは籠ごと赤子の身を抱え上げ、ひと息に夜空へ向けて飛び立った。
***
その行き先は、魔王城であった。
そこは人ならざる物どもが蔓延り、夜の闇を誇る最大の要であるはずの場所でもあった。
だが今その場所は、ひどく静まり返っていた。
主である魔王は封印されて久しく、従う悪魔や魔物たちは皆、その役目を失い退屈を持て余していたのである。
「魔王様。今日は、面白いものを拾ったんですよ?」
一応報告をと、ムウは封印された魔王の身。いや、眠るように横たわるその身へと声をかけていた。
返事があるわけではないが、それはもはや日課のようになっていたのだ。
黒い結晶に覆われた寝台の上で、魔王はまるで永い眠りを続けるかのように呼吸ひとつこぼしもしなかった。
「あーあ、いつになったら目覚めてくれるんですか?退屈すぎて、どうにかなりそう」
ムウはわずかに寂しげに笑い、魔王の頬に軽く口付けを落としていた。
彼は魔王に一方的に心酔し、長い間仕えてきた腹心でもあったのだ。
だからこそ、その不在は胸に大きな穴を開けるほど退屈で、寂しいものでもあったのだ。
そのときであった。
抱えていた赤子が、強く泣き出してしまう。
「わっ……!どうしたんだ?」
その涙はぽろぽろと溢れ、慌てるムウの手をすり抜けてひと粒、またひと粒と魔王の胸元へと落ちていく。
次の瞬間、魔王の身からは焼け焦げるような匂いとともに、もくもくと黒い煙が立ちのぼる。
ムウは驚き、反射的に飛び退いた。
「……なんだ、これは!」
煙の中、魔王のその身がわずかに。ほんのわずかではあったが、動いたように見えたのだ。
「魔王、様……?」
思わずムウは、目を凝らす。
しかしその日、それ以上の変化は起こらなかった。
赤子は絶えず泣き続けるために、ムウは静かに誘惑の歌を口ずさむ。それは日頃女たちを惑わせるために使っていたものであったが、この際どうでもいいと軽快な節回しで無垢な赤子に向けて唄ってみせた。
やがて涙は止まり、静かな寝息が耳に届く。
ムウはため息をつき、いま一度魔王と赤子とを見返した。
見間違いなどではない。
確かに、魔王は反応したのだ。この、赤子の涙に。
「この子に、何かあるってことなのか?」
ムウは急いで、他の悪魔や魔物たちを招集した。
サキュバス、ダークエルフ、ゴブリンなど。獣たちもわらわらと集まり、その全員が、久方振りの騒ぎに目を輝かせていたのであった。
「この子が、魔王様の封印を解く鍵になるのかもしれない!」
そのようなムウの言葉に、ざわめきが広がった。
「なんだって?こんな赤ん坊が……」
「おい、人間の子供じゃないか!」
「魔王様復活の日が、近いってこと?」
「とにかく、今はこの子の未来に賭けようと思う!」
ムウの声は、強く響き渡った。
そのような中、サキュバスのうちの一人から落ち着いた声があがる。
「そういえばこの子、名前はないの?」
「名前?たしか、ここに紙があったような……。ああ、あった!”レイ”、レイっていうんだ!」
こうして魔王城の者たちは、ムウを筆頭にレイを育てることとなったのである。
***
それからの日々、城には久しく活気が戻っていた。
レイが泣き出すと、その涙は悪魔たちの手によって宝石の器へと集められ、封印された魔王の身へ落とされた。
日に何度か繰り返されるその動作によって、確かに封印は薄れていく。
「聖なる者の涙で復活する……。って、レイ!お前はそんなにすごい子だったのか?」
ムウは分厚い魔術書を何冊も読み漁りながら、昼寝をするレイを横目に呟いた。
レイはまだ言葉も覚束ない幼児ながら、悪魔たちに囲まれてのびのびと育っていた。
特に懐いていたのはゴブリンのグウと、寡黙なダークエルフのシェリルであった。
グウは主な遊び相手となり、シェリルは不器用に世話を焼いていた。
ムウはその様子を少し離れて眺め、時折嬉しそうに笑みを浮かべていた。
「うんうん、いい感じに育ってるねえ」
***
月日は流れ、レイは心優しき少年へと成長していた。
他の悪魔や魔物たちとも笑みを交わし、ムウの後をついて回る。
泣くことは少なくなったが、封印された魔王のその身に触れるたびにその脈動のようなものが少しずつ戻っているのが分かるような気がしていた。
ムウは大いに喜び、魔王に向けて唇を寄せていた。
「魔王様、復活の日はすぐそこに……!」
レイはその姿を、小さな顔にわずかに眉を寄せながら静かに見つめていた。
ある日、レイはぽつりと告げた。
「魔王様が復活したら……。俺はもう、用済みってこと?」
その声には、不安と寂しさが混ざっていたのであった。
ムウは大きく笑い、細長い手でレイの黒髪を撫でつけた。
「何言ってるんだ?……レイ。お前はもう、俺たちの大切な家族なんだ!」
その言葉に、レイの瞳は大きく揺れた。
そして強く、ムウの身にしがみついた。
「おっと!」
「ムウ、本当に?」
「ああ、本当さ」
レイは、気付いていたのだ。
この城の者たちは優しいが、誰も自らの本当の親ではないのだと。
役目が終わったら、いずれ捨てられるのではないか。そのような恐れが、心に巣食いはじめる年頃でもあったのだ。
しかしムウの声色は、偽りもなくあたたかなものであった。
「大丈夫。魔王様が起きたら、一緒に出迎えよう。レイがその身を救ったんですよって、報告しないとな!」
その言葉に、レイは大きく頷いた。
しかしその胸の奥では、言いようのないざわつきが静かに膨らんでいた。
自らの涙で、誰かが目覚める。自らが育てられた、本当の意味とは。
そのすべてが、やがて兄であるライとの運命的な再会へと繋がっていくことを、この時のレイはまだ知らない。




