ショートストーリ創作工房 76~80
5編のショートストーリズ。再犯としての想定外、諸悪の根源は人間、木の本音を聞く、ライラックとスズメの会話、世界を救うコオロギとバッタ。
目次
76.再びの想定外
77.元を辿れば人災です
78.木が語ったこと
79.ライラック
80.昆虫食を召し上がれ
76.再びの想定外
遠い遠い銀河系の果てから2人の宇宙生命体がやってきた。薬品メーカーに勤務するセールスマンたちである。彼らは新製品の被験者となりうる惑星をようやく見つけて安心した。
「いいタイミングだね」
「使ってもらえそうです」
その惑星内の日本では前代未聞の意思決定をすべき危機的問題に頭を悩ましていた。
人間は愚かというか、傲慢というか、その薄っぺらい科学的知見でもって自然界をコントロールできると思い込んできた。が、自然界は単純ではない。大地震の発生時に原子力発電所の事故が起きた。同様の事故は他国において1986年に起きていた。放射能を被った街は廃墟と化した。現在から過去を想像してみることは現在から未来を想像することに結びつくのだが、人間が犯してきた愚考の幾つかはそんな想像力を欠いていたことに起因する。日本での事故もそうだった。これを「想定外」という言葉で片付けていた。
溶け落ちた核燃料(燃料デブリ)に触れた冷却水が地下水と混ざった高濃度の汚染水には放射能の一部であるトリチウムが含まれ、そのままタンクに保管されてきた。その水量は約125万トン。それに含まれるトリチウムの総量は約860ベクレル。トリチウムから出る放射能は弱いものの、半減するまでに12・3年を要する。このまま保管を続けるにも場所がない。そのうえ、これらの処理費用は約21・5兆円とふくらむばかりであった。
事故の発生から10年が過ぎようとしていた。もう待てない。もう延ばせない。被災者たちからの合意もとらないまま政府はこの汚染水を今後、30年かけて海洋へ放出する計画を決めた。国の放出基準は1リットルあたり6万ベクレル。この水を70歳になるまで毎日約2リットル飲み続けても被曝は国際的に許容されるレベルにおさまる、そうだ。実際に放出するときは安全・安心を確保するために、この基準の40分の1にまで薄める予定である。が、国民の多くは半信半疑な話題として受けとめていた。政府や電力会社の事故対応をみれば、それも頷ける。
2人の宇宙生命体はさっそく日本政府を訪ねた。
「あなた方は何の用で、どこから来られたのですか」
対応に出た官房長官は訝しげな声と顔をして訊いた。
「我われは薬品メーカーのセールスマンです。銀河系の端っこから来ました。この国の代表に会わせてください」
そう言うと、年長のセールスマンは深々と頭を下げた。つられて、若いセールスマンも下げた。
「総理は多忙だ。用はない。即刻、帰ってくれ!」
長官は声を荒げた。
「いえいえ、そう邪険にしなくても。トリチウムを消し去る素晴らしい薬品、解毒剤を持って来ました」
若いセールスマンは長官の目をしっかり見て答えた。
「トリチウム? 我が国は十分に薄めてから海洋へ放出する計画を決めたばかりだ。ふん」
長官は大きく鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「でも、薄めても時間をかけても完全には消えませんよね。なんせ放射能ですから」
年長のセールスマンは狡猾そうな目で言った。
「……(ここは騙されたと思って)そうか。代金しだいだ」
長官はカマをかけてみた。
「お金は要りません。これは見本です」
若いセールスマンは薬品の小瓶をかざした。
「ただなのか?」
長官はきょとんした顔で訊き返した。
「はい。この試供品をぜひ使ってみてください。効果は実証済みです」
年長のセールスマンの声は自信に溢れていた。
「ただならもらっておこう」
長官は笑みを浮かべて答えた。
「どうか、よろしくお願いします」
セールスマンたちは同時に頭を下げた。
実験室では、高名な科学者たちも参加して薬品の効能を確認にした。セールスマンは試しに1リットルの汚染水に一滴垂らした。するとトリチウムは瞬時に消えた。摩訶不思議という心持で科学者たちは、何度も何度もこの作業を繰り返した。パラダイムの転換とでも呼べる歴史的事実に遭遇していた。宇宙生命体が持つ能力に畏怖さえ感じていた。
「まるで魔法のようだ」
実験に立ち会った総理も感嘆の声を上げた。
「では、後は皆さん方で実行に移してください」
そう言うと、セールスマンたちは互いに目配せしてから実験室を出た。その後、2度と姿を現すことはなかった。
(これですべてが解決する)総理は、独りほくそ笑んだ。
次の日から汚染水の入ったタンクに薬品が混入された。そしてすべてきれいさっぱりと海へ放出された。放出期間は当初の予定よりも大幅に早まり放出から2年と15日で終了した。
この快挙に国際社会は目を見張るばかりであった。海洋への放出計画に批判をしていた大国も、またこれまで反原発を唱えていた各国もこれに勢いを得て、原発の増設をはじめた。
本当にトリチウムは消えたのか。その後、確実に消えたのは海の恵みである魚介類たちであった。もちろんそれを生業とする人間たちも消えた。
日本はまた「想定外」の体験をした。
すべての元凶は誰?
なお、この薬品が提供された惑星は地球が最初で最後だった。(了)
付記。『朝日新聞』2021年4月14日参照。
77.元を辿れば人災です
「お父さん、見てください。車を5台、やっつけましたよ」
息子の目には大破し、ひっくり返ったり、木々が突き刺さったり、ドロに埋まってしまった車が写っていた。
「おぉ、これは酷い。でも、我われも大きな犠牲を払ってしまった」
父は大枝を揺らせて答えた。
父子の視線の先は、この5日ほど降り続いた豪雨による災害現場である。そこには崩れた山肌と土石流が破壊した街、家屋、道路があった。
崩れた山肌を凝視している父は、ポツリと溢した。
「自爆テロのようで、心が痛い。車5台や家屋の倒壊では討ち死にだな」
それを聞き取った息子は言った。
「でも、その爆弾の元を作ったのは人間たちですから」
「そうではあるが……何本が犠牲になったことやら?」
父の声は悲壮な心中を吐露していた。
「今回はそうとうな数です。犠牲になったのはすべて樹齢10年の針葉樹たちです」
「これから未来のある、まだ若木たちじゃないか」
「はい。あの斜面は人間たちが盛り土をしたところで、そこに植えられた木たちでした」
息子は小枝を揺らせて答えた。
「盛り土?」
父はかいもく判らんという声で訊いた。
「3つ向こうの山にトンネルを掘って出た残土を盛ったのですよ」
「うう~ん。盛ったかぁ、それじゃ地盤は弱いはずだ」
「この豪雨であれば簡単に崩れたでしょうね」
「で、なんのためのトンネルだぁ?」
「新幹線とかいう高速で走る乗り物の線路を作るためだそうです」
「人間は、まだ人生を慌ただしく生きようとしているのか?」
「そのようです。時間に追われていないと生きている心地がしないのでしょう」
「山を掘って、崩して……人間は、なにかを壊わさずにいられないのか?」
「人間は、なにもしないでいることができないようです」
「そっかぁ。盛り土に針葉樹を植えてもなあ……」
父は無念そうな声音で言った。
「はい。根は十分に張りません。植えるのであれば、せめて広葉樹にして欲しかったですが」
息子は言葉をつないだ。
「人間は、そんな初歩的な知識さえ持っていないのか?」
父は息子を睨みつけて訊いた。
「いえ、賢いようですから知ってはいるのでしょうが、豪雨が降って盛り土が流されるなど想定していませんから、人間は」
息子は臆することなく答えた。
「想定外なことを想定して行動するのが賢いやり方だろ?」
父の声は怒気をおびていた。
「同じような大災害は所を違えて毎年、発生していますが、人間は自分の事として受け留めようとはしないみたいですよ。縁者や隣人が亡くなろうが、家屋が潰されようが、その一時だけ涙を流すだけで、すぐにきれいさっぱりと忘れて生きることに長けているようです。ですから豪雨の原因を探ろうともしません」
息子は人間に期待することなど無駄だと言わんばかりの顔をして答えた。
「豪雨の原因は自明だろ」
父は一瞬、声を荒げた。
「すべては温暖化です。人間は生きるために長年、化石燃料を使ってきましたから、二酸化炭素が大量に排出され、地球の温室効果を高めています。それが強力でかつたくさんの低気圧を作り、豪雨を降らせているのです。今にはじまったことじゃないですよ」
息子はどうしようもないという口調で周知の事実を説明した。
「これだけ多くの仲間たちが涙を流していても、人間はまだ気づかないのか? 自然を冒涜するばかりでぇ……」
父は言葉を飲み込んだ。
「なかには美しい自然を大切に思い、懸命に我われを増やそうと守ろうと努力をしてくれている人間たちもいるにはいますが」
息子は、小さな反論をしてみた。
「お前が言うところの美しい自然とは、人間だけがそこにいない風景のことだ」
父は諭すよう強く言ってから、憤りを抑えて続けた。
「人間は未だ、自然を讃える術を知らない。人間が生存できるには、その前に木、草、土、水が必要だろ。すべて自然だ」
「しかし、自分たちを知性のある 〝万物の霊長〟 と呼んで、威張ってますから」
息子はしらっと返した。
「知性なら、我われも他の動植物、微生物さえ持っている。だから、こうして生きているんだ」
父は息子の考えを否定した。
「それを認めたくないのでしょうね。人間にとって、自然界はコントロールのできる対象でしかないようですから」
「我われがいなければ、人間は滅びる。頻発する災害は自然をコントロールできないことの証だろ。コントロールされるべきは人間だ」
父のこの言葉は重かった。
「そうですね。でも傲慢な生き物ですから、人間はそんなふうには理解していませんよ」
「傲慢?……そんなものかね」
父の声は明らかに不満げだった。
「そんなものですよ」
息子は断言した。
父はしばらく黙考してから、静かに口を開いた。
「『災害は 戒めとして 起こるなり』」
これを受けて息子は感心したという声で答えた。
「お父さん。うまい川柳ですね。では、私も一句。『災害の 元を辿れば 人災だ』。どうでしょうか? できばえは。ふっふっふっ」
父子の視線は崩れた山肌に吸い付いたままだった。(了)
78.木が語ったこと
父は静かに口を開いた。
「私は、この場所で爺さんの朽ちた幹から生まれ、育った。この場所で、自分でしっかりとまっすぐに立つことを覚えた」
そう言うと視線を空へ移した。
「最初に、ただひたすら日光を浴びることと、雨を集めることに努めた。それから風の音を聴き、身を守る術を覚えた。鳥たちのさえずりに心が和むことを学んだ」
次に、視線を地上へ落とした。
「根元を過ぎていく小動物たちの足音を聴き取ろうとした。草の間にいる虫たち、土の中にいる微生物たちの小さな囁きも聴き逃すまいと努めた。こうして自分とともに歳を重ねる仲間たちを得た」
「みんな家族同然ですよね」
息子は言葉をかけた。
「成長してからは根っこから体内を登っていく水分や養分の音も聴いた。みんな仲間からもらったものだ。仲間たちの糖分が不足すると、根っこから糖分を融通し合ったこともある」
ここで父はしばらく黙った。なにかを思い出そうとしているのか、目を閉じてじっとしている。
この空白の時間に耐え切れず、息子は声をかけた。
「父さん。どうされましたか?」
父はゆっくり目を開けて言った。
「もう一つ忘れてはならない仲間がいた。ともに生きていた仲間だ」
「誰ですか?」
息子はすぐに訊き返した。
「人間だよ」
父は大枝を意味ありげに揺らせた。
「人間ですか?」
息子は、また訊いた。
「いたんだ。人間たちが。みんなこの森を出てどこかへ行ってしまった」
そう言うと、父は遠くを見る目をした。
息子は声を落として、しっかりと確かめた。
「でも、人間は戻ってきましたよね」
「あぁ、私の知っている人間とは違った人間となって戻ってきた」
父は遠くを見つめたままだった。
「私たちを切り倒し、根を掘り起こし、草を焼き払い、自分たちの口を糊する食物を育てる畑を作るためでした」
息子は事実を口にした。
「手には鉄器を持って、まるで仇をやっつけるような勢いで……悪魔のような形相をして」
父は目を閉じ、首を垂れた。
「畑にする土を求めて殺し合いをした時代もありましたっけ」
「あった。その殺し合いが終わった後の時代は私たちにとってもっと悲惨だった。増え続ける人間たちの生命を維持するために、森はさらに一層、切り開かれた。そのため森にいた動物たちが人間の棲家の近くで殺戮されることが頻発した」
「森に近づきすぎたのは人間であって、無垢な動物たちではありません。彼らを害獣と呼んで忌み嫌っていました」
「私たち自然は人間になにか悪さをしたか?」
父の声は怒気をおびていた。
「いいえ、逆に……」
父は息子の言葉の腰を折って、語気強く続けた。
「我われ植物は太陽の光エネルギーを使って、水と二酸化炭素から有機物(ブドウ唐など)と酸素を作っている。人間は、この酸素を吸って生きていられるんだ」
「光合成ですね」
「さらに有機物から炭水化物、脂肪、たんぱく質など他の有機物をも作っている。人間は、自分でこの有機物を作れないから植物を食べて栄養にしているじゃないか」
「植物は人間に与えるばかりで、なにかを与えてもらったことなどないです」
「家屋を作る材料、本や雑誌を作る原料、どれもこれも木だ」
「人間は植物に生かされていると言っても過言ではありません」
「じゃあ、もっともっと森や木を大切に扱ってもいいんじゃないのか」
父の声はまるで息子を責めているふうに聞こえた。
息子は父をなだめようと現状を話した。
「でも、人間はむやみやたらと森を切り開き、野生動物に接近したものだから、その野生動物に宿っている未知のウイルスに感染し苦しめられました。そうとうな数の人間が命を落としたパンデミックも発生したようです」
「天罰だよ。自然をないがしろにしてきたのだから」
「そのうえ、大津波を受けた原子力発電所が壊れ、飛散した放射能で海も陸も再生できないほど汚染されました。その除染、処理に苦慮したあげく、汚染水は薄めて海へ放出しているようです」
「それも天罰だよ。自分で自分の首を絞めて……科学を過信しすぎている。驕りというものだ。科学には絶対ということはありえない。自然界に存在しない物を作っておいて、それを自然にまき散らして浄化させようなんて無理な話さ。未来永劫なくならない。その被害を受けるのは未来の人間だ。人間の愚かさにも程がある」
父の声は沈んでいた。
息子は続けた。
「その未来に希望を抱き、別の計画もあるようです」
「計画?」
「宇宙空間を目指す計画です」
「汚した地上から逃げようってことだな。ふん」
父は大きく鼻を鳴らした。
「はい。でも生命をつなぐ土のある惑星はいまだ存在しないようです」
「地上であれ、宇宙空間であれ人間も生きていくには、土が欠かせないってことだな」
父はようやく納得したようだった。
「その点は私たちと同じですね。朽ち果てて土へ戻って行く」
「土からもらったものを土に返すだけのことだよ。天国は空の上にだけあるんじゃない」
最後に、父は静かに言った。(了)
79.ライラック
1羽のスズメが、ライラックの枝に止まり、薄桃色の花を見つけた。
「あれれ、ライラックさん、どうしたの?」
スズメは不思議そうな声で訊きます。
「『どうしたの?』ってなにが?」
ライラックは訊き返します。
「だって、今日は8月26日の木曜日だよ。もうすぐ9月になるよ」
「それがどうかした?」
「ライラックさん、初夏の6月に花を咲かせましたよね?」
スズメは小首を傾げ、また訊きます。
「今、咲いちゃいけないルールでもあるの?」
ライラックはスズメの知りたいことがうすうす分かったようです。
「生まれて初めて、この季節に花を咲かせたライラックを見たものですから……」
「な~んだぁ、そんなことかぁ」
やっぱりそうかという声を返した。
「『な~んだぁ、そんなことかぁ』じゃないですよ。僕たち鳥には不思議だし、一大事です。だってぇ」
「『だってぇ』と言われても」
ライラックはスズメのとまる小枝の先を少し揺らせます。
「だってぇ、ライラックさん、変になっちゃったんじゃないかと思って。1年に2度も花を咲かせて、これってありえないでしょ。それから……」
スズメは一応、気づかった。
それを打ち消すようにライラックは明るく話します。
「どこも変んじゃないわよ~。健康そのものよ。理由は簡単」
「じゃあ、教えてよ」
ライラックはまた小枝を揺らせてから続けます。
「7月に台風から変わった熱帯低気圧の余波で大雨と強風が吹いたでしょ。覚えてない?」
「覚えてるよ。3日間も降って吹き荒れて、気温も下がって、あのときは酷かった。根元から折れた木もあったし、葉っぱをむしりとられてしまって、裸になった木もあった。僕たちはオンコの中へ集団で避難したんだ。その後は猛暑が続いたし」
「そう、理由はそれよ。ここは日当たりも風当たりもよすぎるから」
「う~ん、それじゃ分からないよー」
スズメは頬を膨らませ嘴で小枝をツンツンと突きます。
「じゃ、説明するわね。どの木にとっても葉っぱには大切な役割があるの」
「それなら知ってます。光合成ですよね。二酸化炭素、水と太陽エネルギーを使って、酸素とデンプンを作るんですよね。その酸素で僕らは生かされています。葉っぱには感謝してます」
スズメは明快に答えた。
「感謝してくれて、ありがとう。でも、木にとってもっと大切なことがあるのよ」
「木にとって?」
「それは葉っぱで夜の長さを知ることなの……」
「へーっ。葉っぱって、そんなことができるんだぁ」
スズメは思わず、ライラックの話の腰を折ってしまった。
「んんっ」ライラックは幹をブルンと揺らせてから、「その夜の長さから冬の訪れを察知して、夏にできたツボミは、冬の寒さをしのぐために越冬芽になるのよ」と、続けた。
「次の春に花を咲かせる準備をするんだね」
「そう。この越冬芽にはツボミを包み込んだものと、葉っぱが包み込まれたものの2つがあるの」
「花になる部分と、新しい葉っぱになる部分だね」
「そうよ。ここからが肝心よ。葉っぱは夜の長さに応じてアブシシン酸という物質を作って、ツボミに送るの。そうするとツボミは越冬芽になれるのよ」
「ふ~ん。夜の長さだけじゃなく、葉っぱがとっても大事なんだね」
「そのとおり。ところが、猛暑で葉っぱが枯れたり、強風かなんかで落ちちゃうと、夜の長さを測れなくてアブシシン酸が作れなくて、それをツボミへ送れなくなるの。そうすると、どうなると思う?」
「ツボミは越冬芽になれない」
「でしょう」
「『でしょう』って、冬になるのに、そりゃあ大変だー。ツボミは……、まさか死んじゃったりして」
「いいえ、大丈夫よ。越冬したくても、できないってことだけのことよ。そこでぇ、越冬芽にはなれないけど、この季節は春の暖かさとほぼ同じだから、ツボミは春だと勘違いして花を咲かせちゃったのよね」
「へ~っ。そうなんだあ。ツボミは生きていて花を咲かせるんだ」
「桜なんかも、台風が去った秋に咲くことがあるんだけど、理由はほぼ同じよ。どこも変じゃないからね」
そう言うと、ライラックは小枝をまた小さく揺らせた。
スズメには、まだ疑問があった。
「じゃあ、次の春はどうなるの? 今、咲いちゃったわけだから」
「今、咲いたツボミは、これでもうお終いよ」
ライラックは静かにゆっくり答えた。
「えっ。咲かないんだぁ?」
スズメの声は不安でいっぱいだった。
「でも今、全部咲かせたわけじゃないから、残ったツボミは次の春にも咲くよ」
ライラックの声は明るかった。
「あ~ぁ、よかったぁ」
スズメは思わず、羽を広げてから胸を張った。
「あら、ずい分、心配してくれていたのね」
ライラックは小枝を優しく揺らせた。
「そりゃあ、心配したよ~」
「どうして?」
「だってさあ、秋よりも春のほうがライラックさんに寄ってくる小虫は多いじゃない」
スズメの声は弾んでいた。
「な~んだぁ、私はスズメさんのいい餌場だったってことね」
ライラックは迷惑そうに小枝を大きく揺らせた。(了)
付記。これは実話です。2021年8月26日、木曜日、2階の書斎から庭を見下ろした。その端っこに植わっているライラックが自然と目に飛び込んできた。すぐに外へ出て、木の下に立って見た。確かに、薄桃色の花が5房咲いていた。桜が台風の過ぎた後に咲くことがあることは、次の文献で読み知っていた。
ライラックで同じことが起こっただけだ。実は、このライラック、雪が溶けた4月、5月になっても葉っぱを付けなかった。「枯れたかな」と心配していた。もちろん6月になっても花は付かず、ようやく葉っぱが付いた。この夏は猛暑続きで木には酷であったろう、と思う。なぜ、4月、5月に葉っぱが付かなかったのかは不明です。
参考文献
田中修(2008)「第一話 葉っぱがおこしたミステリー」『葉っぱのふしぎ』サイエンス新書、9~16頁所収。
80.昆虫食を召し上がれ
「おぉ、これは美味い」
王様は頬を緩めた。
「では、こちらの料理も召し上がってみてください」
「どれ」と言って、王様は前に置かれた皿を見下ろした。が、さっと怪訝な顔をした。
すかさず給仕は一歩前へ出て促した。
「召し上がれば、きっと美味かと思いますが」
「そうか」
しかめ面をしつつ王様は得体の知れない物を口にした。
「うん。これも美味い」
一転して、顔をほころばせた。
「ありがとうございます」
給仕はうやうやしく頭を下げた。
その頭が元の位置に戻ると、王様は訊いた。
「さて、これらの料理の素材はなにかな? これまでに口にしたことのない味だったが」
「はい。王様。最初に食された物の素材はコオロギです。次に食された物はバッタです」
給仕はなに食わぬ顔と声で答えた。
その瞬間、王様の脳内をコオロギとバッタが飛び交った。胃の底から胃液とともにそれらを吐き出したい気分に襲われた。不満げな顔と声をそのまま給仕にぶつけた。
「なに? 私は昆虫を食させられた、いや食したのか?」
「はい。昆虫食といいまして……」
給仕の言葉をさえぎり、王様は「イナゴの佃煮やハチの子などは、大昔から食されてきたことは知っているが」と言う、その声はいかにもコオロギ、バッタでは気色が悪かったようだ。
その心境を察し、給仕の(どうかご安心ください、とは言わず)「ちゃんとした天然物です」と答える、その声は得意げだった。
「天然物?」
そう訝る王様に給仕は説明した。
「従来、動物性タンパク質といえば、肉が主流でしたが、その生産コストは高く、また生産プロセスにおいて地球の温暖化を促進しかねないということから、今やどこの国においても昆虫からタンパク質を摂る時代となっております」
「んんっ?」と咳払いをしてから、王様は(それでは答えになっていない、という声音で)「天然物とは?」と、また訊いた。
給仕は説明の足らなかったことを解し、「コオロギ、バッタ、シロアリ、・・・などは養殖工場で生産されております。天然ウナギと養殖ウナギの味に違いがあるように、やはり昆虫も天然物がピカイチかと……」
王様は右手で制止し、
「養殖? いつから?」
と、きょとんとした顔で訊いた。
「昆虫自体は、家畜の飼料として先行利用されてきました。が、人間の食糧として位置づけられたのは、国連食糧農業機関(FAO)が2013年に出した報告書がきっかけです。世界の人口は、2030年には90億人近くまで増える見込みだそうです。昆虫の養殖は、その食糧問題を解決する一つとして注目されております」
「なるほどぉ。食糧問題なら聞いたことがある。我が国では、まだ食べられるのに捨てられている『食品ロス』が年間570万トンも発生している。これは世界の年間食糧援助の1・4倍にあたるそうだ」
「はい。そのとおりです」
「養殖にかかるコスト、生産性はどうなっている?」
王様は給仕の知識を試すよう訊いてみた。
「牛肉1キロを生産するのに8キロの飼料が必要であるのに対し、昆虫は2キロで済みます」
「ほう、食糧変換率が高い、ということだな」
「コオロギであれば、そのエサは小麦ふすまなど100%食品ロスを活用することもできます。養殖に必要な水や土地も少なくて済みます」
「それは、先ほどの地球の温暖化につながる温室効果ガスの放出量が少なくて済むということかな」
「はい。さらに昆虫には動物性タンパク質の他に脂肪、必須アミノ酸、鉄、亜鉛などの微量栄養素も含まれています」
「ほう。いいことずくめだな」
王様は、顎を右手でなでながら、いかにも感心した、と微笑をもらした。
「さらに土地を持たない人間にも採取や養殖ができるメリットもあります」
「じゃあ、その生産者数は? 市場規模は?」
王様の声は大きくなった。
「はい。2019年7月時点でみますと、世界で昆虫を扱う企業は270社ほどあります。同年には、世界の昆虫市場は24・4%成長しました。2030年には79・6億ドル(約8600億円)になる、と予測されています」
「では、国民の多くも食しているのだな?」
「はい。我われ庶民が食するときは養殖物に限りますが……」
給仕は言葉を噤んだ。
「ほう」
王様は「どうして?」という顔をしていた。
「天然物は少々、高価ですので」
給仕は憚ることなく、本心を口にした。
「……」
「……がしかし、養殖工場は増えても需要は思うように伸びていません」
「認知不足、コマーシャル不足かな?」
「それもありますが、昆虫というゲテモノを食するというイメージが強くあるようです」
「イメージ? 料理を頭で食している、ということか?」
「さようかと思います」
ここで給仕は言葉を切ってから、しばし視線を落としながら「国民がぜひとも食したいと思うよう多様な製品開発も必要かと考えます」と答えた。
「ほう。別の製品とな。それは何?」と訊く王様に顔を向けて、給仕は力強く言った。
「黄金虫が良かろう、と思います」(了)