短編『背骨』
男の顔は赤かった。酒やら涙やらで真っ赤に腫れた顔をこちらへ向けている。目元にあてられた薄手のハンカチは、せっかく掛けたであろうアイロンの功績を台無しにする程に乱れていた。静かな店内は彼の啜り泣く声がよく響く。東京の中心の騒がしい所から少し離れた薄暗いバーの端っこで俺らは互いの悩み事を打ち明けていた。
彼の泣き声はこの辺の半径数メートルを反響して、睨まれ、そして空気に呑み込まれる。さっきからやけに左隣のご婦人の二人組がこちらを見ている。もちろん、男女のロマンス的な熱い視線ではなく、ただ、迷惑であるということを暗に伝える視線だった。正面の彼の右手に握られたグラスには目一杯強い酒が大粒の涙を流して口付けを待つ。いくつかの空いたグラスにはまだ硬いままの氷が残ったままであった。先程店員が持っていった分を含めると、もう両手では数え切れないほどのグラスがこのテーブルを行き来していることになる。
ふと、店の奥の方を見ると屈強な男の店員も俺らを厄介そうな目で見ている。他のテーブルの客はそれぞれお利口に席に着いていて、時々小鳥の様にグラスの水面を舐める程度だ。決して泣き喚いたりしない。その作法に合わない俺らはさぞや厄介な客であろう。俺はとうとうバツの悪さに嫌気が差して彼を立たせようとする。けれど、彼は勢いよくその手を振り払う。これを聞いたらすぐに店を出ようと決心して、仕方なく俺は何度も聞いた彼の話を、また聞くことにした。
「私の人生とは一体、なんだったのでしょう。こんなにもたくさんの酒を飲んだって現実は何も変わりません。どうせ明朝の六時半に起きてつまらない会社に往く人生です。私は、結局そういう真面目な性分です。真面目に働いて、世界がほんの少しでも良くなればと、そうささやかに願いながら、ただ平穏を望む無害な男です。つまらないと言われてしまえばそれまでですが、別にもう今更一念発起して人生やり直そうなんて思いません。ある程度、十分身の丈にあった満足を享受しております。正しく今起きている様な理不尽が私に襲いかからない限りは本当にただ無害な男なのです。そう、私の人生にやるせない結論が見えてしまうそれが耐えられないのです。あの男、えぇ、あの、私の青春を豚の餌にやった男。忘れもしません。なんでって今になってまたあの悪魔を思い返さなくてはならないのでしょう。高校時代の彼奴の酷い仕打ちの事をここで貴方に語ってしまいたい。けれど、貴方は優しい人だから、きっと心に深い傷を負わせてしまう。あの男からの被害者を更に増やすようで、あぁ、本当に、やるせない。それほどまでにあれは酷い日々でした。ともかく、そういう、本当に鬼畜の様な行いなのです。地獄の期間でした。高校を卒業する時分に泣きました。もちろん淋しくってなんかじゃ有りません。嬉しくて、嬉しくて。だって、あの悪魔ともう二度と会わないで済むなら本物の悪魔と契約したって良かった程なのですから。そんなあの男が、事も有ろうに私の上司に、上司にですよ。はぁ、私はあの男の部下に成り下がったのです。上司ですから、もちろん向こうは仕事もきっちり完璧に仕上げて来る訳なのです。毎日彼を賞賛する声の中で、私一人が彼を憎んでいます。憎むことが間違いのように感じています。きっと、私がおかしいんです。あの男は完璧な仕事に、綺麗な奥さんと幸せな家庭と来た。一方こちらは不出来な仕事に寂しい独り身。彼が中心の世界に、たった一人取り残された彼の敵、それが私です。私は、ねぇ、篤弥先輩。はぁ、はぁ。私はこの気持ちを如何に表現したらよろしいでしょう」
向かいに座る俺は泣き腫らした顔に付いた涙を手で拭った。それから、十分に冷やされたウイスキーを口に含んむ。口内にアルコールの熱がじんわりと広がって、憎まれ口を飲み込んだ。粘度の高い液体は舌の回りにまとわりついて芳ばしい香りを醸し出す。喉の奥を伝うウイスキーの存在感は、この世界の無常に対して実に冷淡であった。
「『如何に表現』、如何に表現、ね。久し振りに会った大学の後輩は、己の人生の不摂生を他人の幸せの所為にしてしまっている様だ」
俺は彼の話をまた再び聞いて、なんだか妙な落ち着きを得た。彼は不思議な顔をしている。痩せこけた頬に血色の悪い色白の肌。お世辞にも美しいとは言えない、淋しい顔付きだ。きっとその憎い男というのは明らかな好青年なのだろう。人当たりもよく、同僚から慕われている、そんな人。どうにも敵わず、職場に気の置けない友人一人居ないものだから最後にここへ逃げてきたのだろう。なんて淋しい男だろう。彼を思って目頭が熱くなる。真面目に真面目にひたすら真面目に生きて二十余年、行き着く先は口の悪い嫌味な先輩の背中。俺は普段口にしない様な慰めの言葉を探した。もちろんそんなものはどこにも無い。けれど、どこかに彼の拠り所を俺の中に見付けようと努めた。
「良いかい、後輩くん。君が強くなる以外に方法は無いんだよ」
「いいえ、篤弥先輩。ご意見を突き返すようで心苦しいのですけれどね。私は、今の私のまま、ほんの少しの工夫でどうにか忘れたいのです。ほんの少しだけ溜飲を下げたいだけなのです。世界の見方を変えてみたり、世界に味方を作ってみたり、そんなほんの少しの工夫がいいんです。そんな何かが欲しいんです」
俺は、彼の目を見詰めた。それは決して彼の言葉を口答えと受け取ったからでは無い。人生に着いて深く語り合おうと誘う視線だった。薄暗い空気の向こうで、不安な顔はこちらの様子を伺っている。彼は私の目を見て、それからサッと視線を逸らせた。俺は背筋に走る不気味な冷たさを感じた。立ち上がって彼の傍に寄る。
「なぁ、後輩くん。君はいつからそんな弱い男になったんだい」
俺は座っている彼の背中へ手を伸ばした。
「私はいつだって弱い男ですよ」
「いーや、後輩くん。君は弱い男なんかじゃない。僕らはいつだって弱いふりをしていただけだろう。大丈夫、大丈夫。俺がついてる。君は、強い男だよ。弱いふりをしていただけさ。そうだろう。大丈夫、大丈夫」
それから背中を二回三回、ゆっくり撫でた。猫背の、広い骨と骨の間を確かめるように、確りと撫でた。次第に彼の身体が震えてくる。しかし、彼は首を振って、勢いよくグラスに手をかける。俺は空いた手でグラスを丁寧に静止させる。
「もうやめなさい、明日は君にとって大切な日さ。君が君であることを忘れる日」
そう言って、彼の手からグラスを受け取った。小さな氷が最後の音を奏でる。グラスの底に氷の残骸が落ちて、それからグラスが机に着地した。
「さぁ、俺の目を見て。大丈夫、大丈夫。俺の目を、確りと見て、それから、こう言いなさい。『私は私を忘れます』と」
「私は、私を、忘れます」
俺は頷いて、席に着いた。それから店員を呼んで、たった一杯のギムレットを注文した。彼は二万千円をテーブルへ叩きつけるように置き、ゆっくりと立ち上がった。
「頑張ります」
彼に相応しくない、力強い、良い声だった。
「そうか、頑張って」
彼は一礼するとその流れで出口へと向かった。その背中は変な力が入っていて少し不安になる。
「あ、そういえば」
去り際に振り返って、人差し指を立てた。
「篤弥先輩も何かあったら言ってくださいね。貴方、いつも困っているくせに、私らにはなんにも教えてくれないんですから」
そのまま彼は笑いながら店を出た。元より他人の幸福を妬んで生きていこうと思っている人なんて、居やしないのだと思う。そんなに皆、暇じゃない。ただ、不幸の欠片がどこかに舞っていて、それを吸い込んでしまうから、穢れた痰を吐き出してしまう。俺は彼と入れ替わる様に到着したギムレットを額より少し上まで掲げた。
真面目さが常に彼にとって良い影響を与える事は無い。いつだって俺たちの信じるものは俺たちに対して全く無関心に振る舞う。つまり、彼に訪れる必然的な幸福は偶然性で構成された鎧である。鎧か、卵の殻か。本質的には変わらないけれど、どうしたってそういう類のものになる。彼の殻だか鎧だかの中でその身を蝕む毒になる。身体の中心を冒す一本の毒は、今になってようやく彼を苦しめている。彼の信じるものは、俺らの信じるものは何処にもないのだ。風通しのいい空洞の中に、彼は一人で寝転がっている。寝転がったまま、目を閉じているのだ。
俺らはそうやって、忘れながら生きている。学んだフリをして学ばず、覚えたフリをして覚えず、忘れられないものを忘れていく。この空洞を歩いている内に、俺もふと横になって天井を見上げるのも億劫になる時が来るだろう。その時にようやく忘れる事さえ忘れ去って、新しい自分を発見する。俺は、今の俺を忘れ去るのが恐ろしい。忘れ去るには俺という人格は俺を助けすぎたのだ。
もう一度店員を呼んだ。始まらない物語に換わって、ある信頼出来る友人に物語を始めてもらうことにした。到着したのは俺という偽物の味を薄めてくれる本物の味だった。酒に物語を求めることだって、言ってしまえば俺のそういうくだらないエゴの一つ。真面目さら不真面目さやらそれ以外の全ての何かに正解を求める事のなんと愚かなることか。いつだって決まった物語の価値観に囚われている。しかし、簡単に変わり得る土台がその物語を支えているのだ。
天井にはいくつかのランプが灯らずに待っている。麻酔をかけた脳みそが思考を忘れて妄想に溺れる事を期待した。綺麗な光だった。大きなランプは真ん中にポツリと一つだけあって、その周りに同心円状に並んだ中くらいのランプ、そしてその周りに沢山の小さなランプが配置されている。乱雑に並んでいるようで規則性がはっきりと分かるような、そんな曖昧な星々だった。
俺は酔い潰れても正常なままの脳みそを抱えていた。酔っ払った振りをして店を出、外を歩く。それが最も心地好い歩き方だからである。キラキラとやかましく輝く世間は、先刻の彼をすっかりどこかへ隠してしまった。道路には血液の様な光がアスファルトへ染み込んでいて、その近くに三人の男が力なく倒れていた。歩く度に何か試してみたい気持ちになった。歩いて、走って、それからしゃがんでみる。行動がひと段落つくと思い出したかのように回り始める世界が可笑しくてもう一度。このままどこまでも歩いていけそうな気がした。
しゃがみこんで、下を覗いて見れば、地面の中に俺が居る。じんわりと足の温度が散って身体が地面へ向かっていく。その冷たさに驚いてふと我に返ると俺は冷たい水溜まりの中に両足を突っ込んで居た。転ぶ様に逃げると、水溜まりは大きな飛沫を上げて辺りに散る。誰か知らぬ若者が、俺を指さして笑う。自分の情けなさに涙が出て、俺は必死に走り出す。
靴下まで染み込んだ水は足を地面に着ける度に無数の泡を立てる。嫌な感触に酔っ払った振りさえ出来なくなった。さて、どうしたものか。俺はこの気持ち悪さに抵抗することが出来ない。ずぶ濡れの靴を忘れようと努力して、堪えて、それからこの思考から逃げる。さっきだって、酒で逃げようとした。あの相談からだって、逃げてしまえと思った。俺の逃避という正義には、中身なんてなんにも無い。逃げたことでどうにもならないなんて俺が一番、本当に、よく知っている。
「アツヤ、バイト続かんよね」
不意に懐かしい言葉を思い出す。高校時代の、俺の親友。このセリフは的を得ている。俺は高校時代、いくつものアルバイトを一ヶ月以内に辞めていた。当たり前のように簡単な仕事なんてないからだ。どんな仕事も社会に貢献するに足る苦労があった。俺はそんな当たり前の苦労から逃げて、忘れ去って生きてきた。もうこの時から俺の背骨ははっきりとそこにあったのだと思う。そんなことを思うとなんだか可笑しくなって、愛おしさすら感じてきた。
「アツヤ、このまま逃げちゃおう」
これは、もっと、もっと古い記憶。優しい女の子の声。真っ黒く夜によく溶け込む長い髪が肩まで伸びて、その間をすり抜けるように真っ白い肌を覗かせている。いつだって傷だらけで目元には泣いた後がはっきり写っている。
俺はずぶ濡れの靴のまま朝へ歩いた。忘れてしまった思い出達は詰りが治った様に噴き出して溢れる。思い出せば出す程に、懐かしく、愛おしい。俺にもあったあの絶望。今になってようやく自由に取り出してみた。
汚らしい品のない音がする革靴で歩くのを辞めた。脱いでみると今度は生暖かい靴下が気になる。もういっその事靴下も脱いでしまった。ガラスの破片がそこら辺に散っているような道を歩く訳にも行かないので、俺は諦めて座った。
朝が世界に浸透し始める。塗り潰すように過去の光が現れる。夜風はすっかり色を変えて、朝日はいつの間にかただの太陽に成り果てた。あの子の名前を思い出そう。不幸で、虚しくて、やるせない。彼女の存在にきっと何の意味も無かった。世界でたった一人の僕に、今の今まで忘れ去られてしまっていた不憫な人。泣き顔ばかり浮かび上がる。街中の水溜まりに彼女との思い出が反射している。心地の良いコンクリートの冷たさを背中で感じながら、俺はゆっくりと静かに目を閉じた。