ep. バロン侯爵side2
のめり込んで溺れた。その表現がぴったりだった。
旅芸人に金をばら撒いてでも女を近くに引き留めた私に、女は困惑していた。
旅芸人を丸ごと遊ばせて女を1人呼びつけるのに、美味いものを振る舞って手も出さずに話して終わり。
噂は直ぐに広がり、侯爵の初恋だとか、侯爵を落とし込んだ悪女だとか、稀代の純愛だとか、好き放題に囁かれているのは知っていた。
知っていたが、どうでも良かった。
女と会える時間だけが、安らぎだった。
それなのに、女が消えた。
いつになく機嫌がいい女と、いつになく楽しく過ごした夜。はじめてその肌に触れた。
天にも昇るその夜は、言葉に言い表せない時間であったと同時に、言い知れない違和感を残し、その予感は当たった。
女に黒魔法の素質があるのは一目見た時からわかっていた。わかってはいたが、特に伝えもしなかった。
稀少な黒魔法の素質をもち得る女に、優位な立場で自立を手にする方法を教えることが私ならできた。
だが教えなかった。女が手中から逃れる確率を、上げるだけとわかっていた為だ。
旅芸人の一団から1人離れ、最後の置き土産とでも言うように肌を合わせてから姿を消した女。
せめてもの救いは、万一を考えて女に渡した防護の魔具越しに、その生を確かめることくらいだった。
秘密裏に探した。遠ざかれば遠ざかるほどあやふやになる魔具の性能で、更に絶えず移動しているらしい女を見つけるには、私自身が出るほか手段がなかった。けれどそれは立場が許さなかった。
歳月だけが過ぎる。数日、数ヶ月、1年、数年が過ぎる頃には、時折り泥の様に眠る隙間にその存在を感じるだけになっていた。
疲れた。
屋敷の荒れ具合は年を追う毎にひどくなる。我が子たちが歳を重ねる毎に争いは水面下で激化していった。
結局、こうなった。
ふと、女から感じる波動の位置にしばらく変化がないことに気づいた。
会いたい。触れたい。会いたい。会いたい。会いたい。
あの笑顔が、見たい。
執事長の静止を振り切って長く家を開けた。雪が降りしきる北方で、毎夜夢に見るほど恋焦がれていたその姿を遂に見つける。
更に痩せていたが、記憶のままに美しい女がそこにいた。
女を攫った。そのまま連れ帰るつもりが、女が半狂乱になって懇願するので話を聞いた。
子どもがいた。それも5歳を数えるほどの。女に似た、黒い瞳と黒い髪の利発そうな子どもだった。
一目で、素質があることがわかった。
女に聞けば、違うと首を振った。路銀を稼ぐ為、身元もわからぬ、誰かもわからぬ子どもだと。
女は首を振り続けた。子どもは、女に身を寄せて私を睨みつけていた。
女を妻にした。息子も養子にした。屋敷を充てがって、屋敷にも、女にも防護の術を与え、凶刃から守れるように護衛も置いた。
女の笑顔は見ることができた。けれどそれが私に向けられることはなかった。
邪魔だった。拠り所がなくなれば、女はまた私だけを愛するかも知れない。
しかし、手に掛けてはいけない。それは破滅を意味すると、ギリギリの所で理性が働いていた。
女が死んだ。跡形もなく、無残な骸になっていた。
異変を察知して駆けつけた時には、屋敷の前で、肉塊を前に、血溜まりで小さくなる子どもがいるだけだった。
事の発端は、女狐の誰かが画策した呪い。呪いに狙われた子どもを守る為に、無茶苦茶に暴発させた女の黒魔法の結果だと、状況から推測ができた。
絶望した。こんなことになるなら、子どもごと守ってやれば良かった。身を守る術くらい、教えてやれば良かった。欲をかかなければ、良かった。
何かが、私の中で切れた。
大切な母どころかその存在した記憶さえまでもを失い、狂った運命に私が巻き込んだ哀れな子ども。
一度狙われた身であるから、今更野に放った所で女狐の餌食となるのは明白だった。かと言って、私がわずかでも興味を示せば、到底今までの比ではない当たりの強さとなることは予想に容易い。
屋敷には防護の魔法。子どもには女の呪い。狂い咲かせてしまった、女の忘れ形見1人には大き過ぎる屋敷。
身勝手に母を奪ったことの贖罪には、何をした所で到底及ばない。
書棚の奥の物置の、更に奥。積み重なった箱の1つに乱雑に入れられた埃だらけの大量の本。
使い古されたその本を記憶を頼りにパラパラとめくり、選んだ数冊と比較的保存がきく大量の食糧を手に、1人歩く。
深夜、静かに敷地を歩いて屋敷へ向かう。護衛の立つ、人気のない屋敷に踏み入るなり、飛び起きた子どもを見下ろした。
短刀を握りしめて、怯えた顔で震える痩せた子ども。
まるでケモノのようだと思ったが、確かに残る女の面影が、その幼い顔に重なる。
「すまなかったーー」
乱雑に、重たい手荷物を放り投げて背を向ける。
身を呈して女が消えた夜に、諦めればよかったのだとわかっていた。わかっていたのに、諦められなかった。
呆けたような子どもの顔が、困惑したいつかの女にあまりにそっくりで、1人苦笑する。
夢にまで見ていたあの笑顔は、これまでも、これからも、二度と見られない。
私はずるずると木にもたれ座り、顔を両手で覆うと咽び泣いたーー。




