68.感謝
「……ハンナちゃん……」
最近よく見るなと感じる複雑な百面相。そんな顔をしているルド様に、私は苦笑する。
こんなにも心配してくれる人たちがいて、なんて幸せ者なのであろうかと、ぼんやりと思う。
「……ヴァーレン卿、何も言わないけど、今回のことは聞いていたのかい?」
「いや、具体的には何も聞いてはいなかったが、ここ数日に屋敷の空気が不穏であったのは気づいていた」
ルド様に話しを振られて、黙っていたままだったルドガー様がようやくとその口を開く。
主にお父様、お母様、アラン兄様の動揺振りは感じていたであろうルドガー様であるから、無理もない。
「……1つ、いいか」
しばしの沈黙の後、ルドガー様が私と背後のライト兄様を見つめる。
「その旅、私も同行していいか?」
「はぁ?」
「え!?」
「いやいや、ヴァーレン卿まで何言い出すの!?」
「これは面白くなってきましたね……」
「サラサ小さく呟かないで!?」
にわかにざわつく事態に、場の収拾役であるルド様が遂に取り乱す。
「ちょっと待って! 何でそうなるの!? って言うか止めないの!? 皆んな貴族って自覚あるっ!? ヴァーレン卿に至っては侯爵家の次期当主なの忘れてるでしょ!?」
「……その件については要相談ではあるが、今となっては見込みが全くない訳でもない。我々の卒業までなら時間もあるから何とかなる。……いや、する。そもそもことの発端とルーウェンの腕は私に、ひいてはヴァーレン家に原因がある。理由としては十分だろう」
「いや、そうじゃなくて! ってかヴァーレン卿ってこんな感じだったっけ!?」
いたく真面目にルド様の要点とは違う理由を述べるルドガー様に、あぁもうっ! と頭を抱えるルド様と、未だ困惑気味にルドガー様を眺める私とライト兄様。
「何言ってんだ、お前……」
「ル、ルドガー様、本当にこれは私の問題なので……っ」
まだ何かしらを気に病んでいるのかと慌てる私に、ルドガー様は真剣な面持ちで私の前に進み出る。
「ハンナ令嬢、気に病む必要はない。これは私自身のためで、私の問題だ」
「……と、言いますと……?」
有無を言わせない圧を感じて、私はジリと後退る。
「私がハンナ令嬢の側にいたい。遠くにいるハンナ令嬢の安否に気を揉むくらいなら、側で守りたい。何かあってから生きた心地がしないのは、もう嫌だ」
「え……っ!?」
何かすごいことをサラッと言われた気がして、私は固まる。
「あら」
「お」
「ちょ……っ!?」
視界の端で目を輝かすサラサと、素早く動いたライト兄様に口を塞がれてバタつくルド様が見えた気がするが、とてもではないが確認できる余裕はなかった。
「後衛として不足などはないつもりだが、必要とあらば前衛も対応できるようにしよう。同行を許して貰えるか……?」
「えっ……あの……えっと……っ!?」
仮面越しの黒い瞳が、あまりに真摯に見つめてくるために私は戸惑う。
混乱し過ぎて考えがまとまらない。わかっている。お父様たちへの交渉の場で、遂には僕も行くと大騒ぎし出したアラン兄様的なポジションで言っていることは、わかっている。
わかっている。わかっているのに、体温の上昇と汗が止まらない。
「ラ、ライト兄様……っ」
「俺に振るな! 自分で何とかしろ!」
思わず助けを求める私に、ライト兄様が目を吊り上げる。
「うぅ……っ……いぇ、でも……っ……お家の方は……っ?」
「何とかする」
「えぇ……っ」
一切も譲歩する気配のないルドガー様にただただ困惑しつつも、感情としてはただただ嬉しいことを同時に自覚する。
「……えっと…………では、あの、本当に無理が……ない……ようでしたら…………?」
何が正解なのか全くわからなかったけれど、拒否するのも変な気がして恐る恐る返答する。
「ーー感謝する。……ルーウェンも良かっただろうか?」
「どうせ俺が何言ったって聞かねぇだろ、お前……」
思ってもないことを素直そうな顔で言うなと顔を歪めるライト兄様に、ルドガー様はフッと口元を緩めた。
「おい、ぼんやりしてんなよ」
そんな2人のやり取りを見て少し冷静さを取り戻した私は、ライト兄様の言葉にどきりとする。
一呼吸を置いてくるりとルド様に身体を向けると、冷静さを装って口を開いた。
「ルド様、もし宜しければ、お食事の前に少しお時間を頂きたいのですが……」
「え、僕かい? もちろん、僕はいつでも大歓迎だよ」
ライト兄様の腕から抜け出して、乱れた髪や衣服を軽く直しながら、ルド様がニコリと微笑む。
「サラサ、ごめん、また後で詳しく話すから……」
「気にすることはありませんわ。私もヴァーレン卿とはお話しをしたかったですし、先にゆっくりさせて頂きます」
サラサは気にする必要はないとニコリと笑う。むしろ早く話せる詳細を持参するように。と言う言葉にならない声すら聴こえてくるようだった。
「じゃぁ俺たちは先に行ってるのでいいんだな」
「はい、お願いします」
そっけなくそう言って、ライト兄様がサラサとルドガー様に目配せをして歩き出す。
ルドガー様の視線が一瞬私に向けられたが、直ぐに外された後は呆気ないほどに背を向けて歩いて行った。
「お誘い頂き光栄だなぁ」
「お時間を頂きありがとうございます」
えへといつものように美しく笑うルド様に、私は少し緊張する。
「あの、遅くなってしまったのですが、もし宜しければこちらを受け取って頂けませんか」
ポケットからスッと差し出したのは、金色の細工に蒼い石のブローチで、てんとう虫をモチーフとしていた。ルド様の髪と瞳の色と同じ色合いで、緻密な装飾が施されている。
「ーーもらっていいのかい? てんとう虫は……幸運の象徴だね。僕の髪と瞳の色みたいだ」
「世界を飛び回りたいと……仰っていましたので、てんとう虫は幸せと、成功と、財を運ぶと言われていますし、同時にルド様の魔除けになればと思いまして……」
「ありがとう、ハンナちゃん。大切にする」
ニコリと笑うルド様を見上げ、笑顔を返す。
あの夜に馬車で伝えられたことは、私を慰めるためだとはわかっていた。それを改めて蒸し返すのも、かと言って何も返さずになかったことにするのも違う気がして、切り出し方に迷っていたその時ーー。
「ーーヴァーレン卿のこと、好きなのかい?」
「えっ!? あっ……いえ……っ…………もう、婚約者でもないですが、何より、ルドガー様もそんな風には……っ」
茶化すでもなく穏やかに、世間話でもするように微笑まれ、私はギョッとする。
「ん……そうなのかい……?」
尚もあまりに穏やかに尋ねられ、私はしばし言葉を失うと、しばし視線を彷徨わせた後に口を開く。
「……し、正直に言いますと、そうであるのか、よくわからなくて…………っ……それどころ……ではなかったですし、会ったばかりでも……ありますから……っ……」
どちらかと言えば好意を持たれているとは感じているが、ルドガー様にとってそう思われる存在かは、現時点でわからない。
そしてそれは同様に、私にも言えた。
「……ふむ、そっか。……それじゃぁ確認なんだけど、僕の気持ち、ハンナちゃんに、きちんと伝わってる?」
ついと取られた手の甲にキスを落とされる。人形のように美しい、金のまつ毛に彩られた蒼い瞳がこちらをじっと見ていた。
「……っ」
あまりの破壊力に、ボンッと沸騰した身体中の血液に思考を分断される。非現実的過ぎて、頭がおかしくなりそうだった。
「あの……っ……ルド様が……本当にお優しくて……っ……素敵な方だと言うのはもちろんわかってーー」
「うん。で、どうする? お嫁さんに来る? ヴァーレン卿とは、婚約破棄したんでしょう?」
「や、あの……でも……っ……旅に……っ」
「いいよ、それでも。さっきは正直びっくりしたのが勝っちゃったけど、僕もハンナちゃんがしたいことは応援するつもりだし。ハンナちゃんが強くなってくれるのは、僕も心強いし……ね?」
「え……っ……と……っ!?」
バッチんとウインクをして、いつになくぐいぐいと来るルド様に押し流されそうになりながら、私はしばしその美しい顔を眺める。
ルド様が女性に慣れているのもわかっているけれど、同時にひどく優しいことも事実だった。
一夫多妻がまかり通る世であることから、ルド様にとっての婚約が私が思うほどの深い意味もないのかも知れないし、本当に気に入ってくれているのかも知れないし、罪悪感からの同情なのか、はたまた他の理由かは私に判断できない。
聞いた所できっと優しい言葉しか返って来ないのは火を見るより明らかで、その言葉と優しさをくれるルド様を知った上で、私がどうしたいかなのかも知れないと唇を引き結ぶ。
「ルド様、あの夜も、今も、私には勿体ないようなお話しで、ルド様の優しさに助けて貰い続けています」
「うん」
「もしかしたら、その手を取らなかったことを、後悔する日が来るのかも知れません」
「うん」
「それでも、今の私で……守ってもらうばかりの私で、その手を取りたくないんです」
「……この手は、そんないいものでもないかも知れないよ?」
ニコリと微笑む様を崩さず、ヒラリと手を踊らせるルド様に、私は笑顔を返す。
「ルド様、言って下さいましたよね。周りには何も言わせないし、言わせないようないい男になるって。そう言って貰えて、不安と恐怖しかなかったあの夜、私自身を受け入れて貰えた気がして、嬉しかった。でも、それは私も、一緒なんです」
すぅっと息を吸う。
「隣に並んでも恥ずかしくない私で、何も言わせない私に、なりたい」
「…………剛情で真面目だねぇ……」
フッと息を吐くと、ルド様は苦笑して首を傾げた。
「あの夜、私の心を救ってくれて、本当にありがとうございました。冷静に自分を保てたのは、ルド様の言葉のおかげです」
ザァッと流れる風がルド様の長い髪を攫う。蒼い瞳にしばし見つめられ、その瞳が横に逸らされ、また戻る。
「僕もついてこうかなぁ、なんか楽しそうだし」
「えっ……っ!?」
ギョッとする私の顔を横目で見て、ルド様がぶはっと吹き出す。
「そろそろ行こうか。僕らが行かないと、皆んなご馳走を前にお預けでしょ」
「あ、はい……っ」
スッと横を通って歩き出したルド様を慌てて追いかけようとした私は、差し出された手に動きを止めてその顔を見上げた。
「……僕、あんまり役に立たないかもだけど……助けてくれる?」
「えっ……あ、はいっ! もちろんですっ!」
少し照れた様な顔をしたルド様は、ふふっと少し困ったような顔をして笑う。
そんな顔を隠すように向けられた背と踊る金色の髪を、私は手を引かれながら眺める。
繋いだ熱の感触が、トクトクと穏やかに音を立てていた。




