66.遠い記憶 ⭐︎
「……だいぶ増えましたね……」
ルドガー様の着替えを両手に抱えたままに、私はぽそりと呟く。
必要最低限ではあるものの、シックな調度品でまとめられた客間のベッドの横には、護符や魔法陣と言うような紙をメインとした術具が日々積み重なって山となっていた。
ルドガー様のルーウェン家滞在から数日、充てがわれた客間のベッド上でルドガー様はひたすら内職のように術具作りをしている。
ルーウェン家の滞在については、ヴァーレン家から2つ返事の了承が届いたそうで、ここ数日は嘘のように穏やかな日々が続いていた。
「……これは下準備と言うか、魔術を留まらせるための媒体で、これに力を流し込んで固定させる。術具はだいたい同じ原理だし、いくらあっても困るものではないから」
窓を背景にふっと仮面ごしに笑うルドガー様を眺めて、私は手にした着替えをぎゅうと抱え直す。
「お身体の調子はいかがですか? 何か必要なものがあれば、言ってくださいね」
「いつもありがとう」
「いえ」
実はと言えば、メイドから着替えや用事を奪ってでもルドガー様の客間に顔を出しているとは口が裂けても言えなかった。
「……こちらに座るか?」
「いいんですか?」
穏やかに尋ねられ、私は着替えを置くとトコトコとルドガー様のベッド横に置かれた小さな椅子に腰掛ける。
「ちょうど休憩しようと思っていたから」
開けられた窓から入り込む風が、2人の間を通って髪をもて遊ぶ。
「……ずっと……忘れていたんですが、最近……少し思い出すことがあるんです」
私の言葉に、ルドガー様が私を見たのがわかった。
「今にも雨が降りそうな日……。ライト兄様のご友人が何人か見えていて、ニースもまだ小さくて。バタバタとした雰囲気の中、皆で屋敷に帰る時……。私、湖のほとりでうずくまっている人を見つけたんです」
「………………」
話す私の言葉を、ルドガー様は静かに聞いていた。
「……ライト兄様のご友人の中に、いつも静かに、湖のほとりで読書をされている方がいて、その人だと、思って」
キュッと、スカートを無意識に握る。
「屋敷に帰る人たちから離れて、その人に声をかけに行きました。ビクリとして私を見上げたその人は、私の知っている顔ではなくてーー……」
痩せこけた頬に伸びたヒゲ。汚れて黒ずんだ肌。私を見て動揺し、私を映した虚な瞳に灯った仄暗い光。伸びてきた腕と黒くなった爪先。汚れた指に塞がれた声。絶え間なく降り落ちてくる雨粒を仰いだ先の、暗い空。
「もういい」
握られた手に、私はハッとして思考を止める。見上げると、こちらを心配そうに伺うルドガー様の瞳があった。
「無理に思い出す必要はないだろう」
「ーーやっぱり、ルドガー様だったんですね……」
「………………」
こちらの様子を注意深く伺う気配に、私はふっと頬を緩める。
「……助けてくれたのも、ルドガー様……ですよね……?」
降りしきる雨の中で、視界を覆う見知らぬ男が横から突き飛ばされた。
恐怖と、涙と雨と泥でぐしゃぐしゃになっていたであろう幼い私は、足元に飛んできた本をぼんやりと見下ろして、見上げる。
いつも物静かに1人本を読んでいた人とは思えないほどに肩を怒らせて、まだ成長途中の細い身体で男に殴りかかっていた。
声を張り上げて、言葉にならない言葉を叫ぶその姿を、滲む視界で呆然と見る。
にわかに騒がしくなる周囲。叫ばれた名前。雨に打たれる、幼い私から見れば大きなその背中。
土砂降りの雨の中で振り返ったその人が、怒りと焦りと悲しみがない混ぜになったような、今にも泣き出しそうな顔をしていたのを覚えているーー。
「……ルドガー様に直ぐ気づいて頂けたおかげで、結果として身体的には何もありませんでしたが……極度のストレスか風邪なのか、そのままひどい高熱を出して寝込んで…………起きた時には……私はルドガー様ごと……あの出来事を……」
そこで言葉を切った私をしばし眺め、ルドガー様はゆっくりと仮面を外して口を開く。なぜかルドガー様の方が、私よりも辛そうだった。
「……後日見舞いに顔を出した。……私の顔を見るなり、ハンナ令嬢はひどく取り乱して……にも関わらず、私のことはわからないようだった。……医者が言うには突発的な心因性の記憶喪失で、事件を思い出す引き金になる恐れがある私のことも含めて、防衛本能で忘れたのだろうと、結論付けられた」
「……それで……それ以降、ルーウェン家に……私の前に…………現れなくなったんですね……」
「それがいいだろうと、ルーウェン家で結論が出た。私も……それがいいと思った。本能的に忘れるほどの記憶を、私の顔を見ることで悪戯に刺激する必要などない。全て忘れて、本来のハンナ令嬢らしく、花が咲くような明るい笑顔でいて欲しかった」
ルドガー様の顔が、不意に遠く忘れていたその姿と重なる。
「………………お兄さま……」
ポツリと、言葉と一緒に一筋の涙が溢れた。溢れてしまえば、あとは止めようがなく溢れていく。
最初は、無理やり引っ張ってこられた風で、引っ張って来た割にその場に馴染めていない痩せて影のあるその人を、ライト兄様はまるで忘れたように過ごすその関係が幼心にも謎だった。
頻繁ではないにしろ、その風変わりな人はライト兄様に引きずられるように時折訪れて、1人で本を読んで日が暮れたら豪奢な馬車で帰っていく。
何度か興味を持って絡みに行っても、その鉄壁は遥か高くて近寄れなかったけれど、どことなくアラン兄様に似た優しさが、その姿を見つければ何となく側に寄って「お兄さま」と懐いていた。
体調の悪かったその人を屋敷に泊めた時は、こっそりと客間に忍び込んで一緒に寝て、こっぴどく叱られた。
そうこうしているうち、相変わらず1人で本を読むことは変わらないままに、その人の姿を以前より頻繁に見かけるようになった頃、それが起こった。
私の顔を見つめていたルドガー様が、私の手をそっと離して俯き、顔を覆った。震える声が、押し出される。
「ーーあの頃より……少し前。……私がヴァーレン家に引き取られてすぐ……味方のいない私にも、温情をかけてくれる使用人が何人かはいたんだ。……ただ、その全ての人に怪我や病気など、よくないことが起こり続けた……。学園に入る頃には多少の力も知識もついて、屋敷の外が私の世界を広げてくれたことで、使用人のようなことは……余程起こらないことは、何となく頭では理解できていた。……それでも……怖くて、壁を作って、作った壁の壊し方もわからず…………なのに、ルーウェン家が……あまりに……居心地がよくて…………私は……っ」
「お兄さま……」
「全部……っ……今回も、……過去も……私が…………全ての原因かも知れないと……わかっていながら……っ…………言えなかーー」
「ルドガー様」
ぎゅうと、その震える身体を抱きしめた。
「例えそうだとしても、私がルドガー様に助けて頂いたことに変わりはないんです。過去も、今回も、ルドガー様に助けて頂いたことだけが事実です。巻き込んだと言うのなら、巻き込まれに行ったのも私です。巻き込まれたのは、ルドガー様もです」
どうしてこの優しい人をこんなにも追い詰めることができるのだろうかと、悲しかった。どこまでも絡みつくその見えない呪縛が、途切れることなく折り重なって続いていく。
「私、お兄さまのことを思い出せたこと、嬉しかったんです。昔と同じように変わらず守ってくれた姿が、私に思い出させてくれました。幼くて弱い私をずっと守ってくれて、ありがとうございます」
おぼろげな遠い記憶。
暖かな木漏れ日の下。お兄さまの膝を借りてうたた寝した私の髪を、遠慮がちにそっと撫でる優しい手の感触を、私は思いだしていた。




