61.訪問者 ⭐︎
「ルドガー様」
たまに、呼んで欲しいと言われたその名前を呼ぶ。
細く静かに呼吸を続けるルドガー様は、その呼びかけに応答はしない。小さく上下する胸の動きだけが、音のしないその部屋で私を安心させた。
殺風景なその部屋で、少し眠ると呟いて気を失うようにその瞳を閉じてしまったルドガー様と、指先でわずかに体温を繋いだまま、私は隣に座ってその姿を眺める。
先ほどまで気づかなかったが、右足のくるぶしを覆わない程度だった赤黒い肌は、今では足の甲を覆い隠し、その指先まで到達しようとするほどに範囲をじわりと広げていた。
右足が最後と言うルドガー様の言葉を思い出す。この侵食が進めば、本当に皆が予想する終わりがくるのだろうか。
何の知識もない私が、魔術師一族に対抗でき得る知識もないのは重々承知ではあるものの、本当に望みはないのか。
「ルドガー様」
うるさくないかな。聞こえているかなとぼんやり心配になりながら、再びその名前を呟く。
指先を借りたいと言い残して眠ってしまったその表情は、仮面に隠れていてもどこか穏やかに見える。
もう夜も更けて、少し前に現れた執事はひとまずお暇すると食事を運び入れ、用事があれば本邸に来て欲しいと去って行ってしまった。
曲がりなりにも侯爵家の元後継者候補に対する扱いとは思えない。
「……私の家でなら、もっとしてあげられることがあったのに……ーー」
応急処置の手当てにその場凌ぎの寝床。多少は豪華に見えるけれど、手もつけにくい夕食。
「ルドガーさ……」
呟きかけた言葉を止めて、私は部屋の扉を振り返る。
静まり返っている扉を見つめ、私は静かにルドガー様が持ち得ていたのであろう、傍らに落ちていた剣に手を伸ばす。
誰かがいるーー。
身の安全は保証すると言っていたヴァーレン侯爵の言葉が脳裏に浮かぶが、そんな不確かなものに縋るほど能天気ではない。
「ーー…………」
執事やメイドの気配ではなく、明らかに気配を殺している気配を感じる。
息を潜めてルドガー様を背後に剣を構えると、扉が静かに開いた。
「ーー……また、こんな所で会うとは……」
フードを目深に被ったその姿が室内の灯りに照らされて、あまりに場違いなその光景が逆に薄気味悪かった。
「ーーあなたは……ロデオ・ヴァーレン……様……ですか……?」
「…………自己紹介をした覚えはなかったが……」
私の問いかけに、ワンテンポ置いて苦笑混じりの静かな声が返ってくる。
「……どうして……こちらに……?」
「……別に、何でもない。……そろそろ、ソレが死にそうだと……聞いた。冥土の土産に眺めに来た。ただそれだけだーー」
淡々と人事のように紡がれる言葉に覇気はなく、ローブの奥から光る瞳だけがこちらを見ているのがわかる。
「ーーなんで、あなた方はそんなにルドガー様に執着するんですか……? ルドガー様の何がそうさせるんですか……っ」
「……執着……?」
変な間が空いて、ロデオ・ヴァーレンが笑う。
「そんな人間らしいものなんかじゃない。令嬢はそこらで捕まえた虫をどう思う? 興味本意で捕まえる。それ以上でも以下でもない。逃がした先の虫の一生や、死なせたことをひと月先まで考えるか? 目の前の虫籠にいるからいくらかの関心を引く。ただ、それだけだ」
「ーー……」
「……穢らわしい魔女のような売女の血で侯爵を誑かし、あまつさえ侯爵家に潜り込んだ虫。それがソレの真実だ。守る価値も、守る意味もない。……身をもって、知っただろう?」
「…………」
「……何とか言ったらどうだっ!!」
突如として激昂したロデオ・ヴァーレンはその勢いのままにドア横の壁を持ち得ていた剣の柄で殴りつける。
あまりの変貌ぶりに内心驚きながらも、私はその動揺を外に出さないように堪えた。
ハァハァと荒く吐く息が静まり返った室内に響く。
「……ただの虫? いや……害虫だ。何度叩いても死なない。いつの間にか増えるような……っ! 忌々しい……っ! ソレさえ現れなければ…………こんなことには……っ……兄上が死ぬことも……っ! ……あまつさえ、侯爵家の後継者に名を連ねるなど……寄生虫が、許し難いんだよ……っ!」
段々と苛立ちを隠さずに喚き散らすその姿は、何をするかわからない恐れを感じさせるのと同時に、言い知れぬ息苦しさを感じさせた。
「……なんで…………お前ばかりが……っ……!」
なんで、私ばかりーー。押し出すように紡がれる悪意の裏で、感情が見え隠れする。
「ーー私は……侯爵家のことも、……ロデオ様……のことも、ルドガー様のことも、よくは存じ上げません……」
「……なら、そこを退け。これ以上面倒事に巻き込まれたくもないだろう。どうせくたばる命だ、義理立てる意味がどこにある?」
どの口が言うのか、じりとにじり寄るロデオ・ヴァーレンと間合いを取ったまま、けれど私は一歩も譲らない。
「……だとしても、何と言われようと……例えルドガー様に望まれていなかったとしても、私はここを動きません。……ここでは魔術が使えないのではありませんか? それなら、ロデオ様に私が敵わないか……わかりませんよね……?」
チャキリと構え直した剣が、小さく音を立てる。
「ーー…………ソレの何が……そうさせる……? 婚約者として会ったのも、数えるほどだろう……?」
こちらのことをあらかた調べてでもいるのか、怪訝な声で尋ねられた。
理由、理由、理由。理由を探せば、それっぽい理由はあるはずで、でも、どれもしっくりとなんて来ないし、きっとロデオ・ヴァーレンの納得する答えにもならない。
「ーー……自己満足でも何でもいいんです。私が放っておきたくない……私がそばにいたい。ただ、それだけです」
「ーー…………」
長い沈黙が降りる。ローブの奥から伺い見る瞳が、静かに伏せられた。
「ーー……何もなかった……痩せ細った怯える小さな子どもだったのに……いつの間に……そんなに手に入れたんだ。……私は……無くしてばかりだったのに……っ」
「…………っ」
私はビクリと身体を震わせ、思わず瞳を見開く。振り向きたい衝動に駆られるも、目の前のロデオ・ヴァーレンから視線を外すことは出来なかった。
「ーー私は、何も、見つけてなんかいないし……何も手に入れてなど……いない……」
衣擦れの音と共に、私の背後に立つ気配と、肩に置かれた手の感触。頭上から降ってくる落ち着いた声。
スッとロデオ・ヴァーレンとの間に立ちはだかるその背中を、私は見上げる。
「ただ……彼女たちが……私を見つけてくれた。……側から見たらささいなことが、私を救ってくれた。……それだけだ」
ぽわりと白い光と、黒い靄の両方を纏ったルドガー様が続けた言葉に、ロデオ・ヴァーレンが息を吐く。
「……それが、羨ましいと言ってるんだよ」
ハッと吐き捨てるように溢れた本音に、ルドガー様が少しの間を置いて口を開く。
「……私から見たら、……色々……あったが、貴方の方が全てを持っていた。次期当主の座も……命懸けで助けに来てくれる家族も、何もかもあったのに……なぜこんなとを……?」
白い光が生まれては消えて、黒い靄が巻き付いては離れて、ルドガー様の周囲を漂う。まるで、離れたくないとでも言うように。
「ーー……バレットか……確かに、アイツが助けに来るとは思わなかった。正直、私も驚いたよ」
ハハハと乾いた笑いを零して、ロデオ・ヴァーレンが私を見たのがわかった。
「……令嬢……すまなかった。信じて貰えるとは思わないが、令嬢には……本当に危害を加えるつもりは……なかったんだ。……バレットも、私を守ろうとしただけで、アイツも……関係ない。皆……私が巻き込んだだけなんだ……」
ぜぇぜぇと荒い息を吐きだすロデオ・ヴァーレンに、それでも警戒を緩めずにルドガー様は声を押し出す。
「ーー貴方と……終ぞ相入れることはなかったが……こんな手段を使うような人でないことくらいは、知っているつもりだ。……この間の質問に答えて欲しい」
フードの奥から、瞳だけがこちらを見ている。気のせいか、剣が薄く柔らかい印象に変化した気がした。
「何が……あった……?」
「ーー…………声……が…………声が、ずっと、聞こえてーー……」
少しの間が空いた次の瞬間には、ロデオ・ヴァーレンの身体は背後から剣に貫かれていた。




