60.ふたり ⭐︎
「ヴァーレン様、お水は飲めそうですか? ひとまず傷の手当てとお身体を綺麗に致しましょう……っ」
「ーー……………………」
クラウン様とのやり取りの中で有耶無耶になった水の代わりに、ようやっと届けられた薬湯を注意深く飲んだヴァーレン様を私は伺う。
湯の入った桶と清潔なタオルや包帯などの衛生用品を、一通り部屋に並べた後に私は腕まくりをした。そんな私を、ヴァーレン様は何とも言えない瞳で床に転がったまま見つめている。
あれからいくらか時間も経ち、気づけば夕刻近くなっていた。ヴァーレン様の別邸には、現状私とヴァーレン様だけになっている。
話がまとまったのを皮切りに、ヴァーレン侯爵とクラウン様は部屋を立ち去り、ライト兄様もなまじ屋敷の護衛に追い立てられるように屋敷を後にした。
残された私はと言えば、ヴァーレン公爵の口添えで必要なものは何でも用意させるという言葉通り、あてがわれた御用聞きの執事とメイドに慌ただしく欲しいものを頼み倒していた。
「……ハンナ令嬢……気持ちは……有り難いほど伝わっている。……私は1人で問題ないから……どうか家族の元へ帰って欲しいのだが……」
「ヴァーレン様が元気になったら帰ります」
「………………」
幾度かも繰り返された問答に、ヴァーレン様は口を噤む。ヴァーレン様の顔には、見苦しいからと言って聞かずにつけられたいつもの仮面が被せられ、その細かい表情は見ることができない。が、機嫌が良くないのだけは感じる。
「…………お身体に触れてもよろしいですか……?」
熱めの湯に浸したタオルを固めに絞り、ひとまず床に敷いた毛布の上に転がるヴァーレン様ににじり寄る。
「……令嬢に……そんなことをさせる訳には…………っ……」
「……そのセリフも聞き飽きましたし、それこそ私がここにいる意味がありません。……もう聞きませんから、失礼致しますねっ」
「…………っ……」
この後に及んでも未だ及び腰のヴァーレン様に半ば呆れつつ、私はかき集めたクッションや毛布などをヴァーレン様の身体の下に詰めていき、身体をいくらか起こさせる。
「ーー失礼致します……っ」
何だかんだぐったりと横たわるヴァーレン様の衣服に手をかけると、思っていたよりも緊張して手が震えた。
仮面越しにこちらを見ている視線を感じながら、私はその視線に気付かぬふりをしつつ前開きの留め具を一つずつ外していく。緊張し過ぎて変な汗をかいてきた気がする。
殿方の衣服を率先して脱がせているという、貴族令嬢どころか女性としてもあるまじき破廉恥案件に、私はにわかに不安に襲われた。
息遣いや鼓動までヴァーレン様に伝わってしまうような気がして、平静を装うことに必死になる。しかしその動きが進めば進むほど、私は沈んでいく気持ちを出さないようにと必死になっていた。
「…………衣服と傷が血で固まってしまっている箇所も多いので、お洋服をハサミで切ってしまいますね……」
「……わかった……」
いざ取り掛かってしまえば諦めたのか、ヴァーレン様は明後日を見たままに大人しくされるがままになっていた。
身体中くまなく赤黒く変色して、更に衣服が血でこびり付いた傷だらけのその細い体躯を見下ろして、胸が痛んだ。切り刻んだ衣服の切れ端にこびり着いた血を、湯と水で溶かしながら慎重に剥がしていく。
「……痛んだら、教えてくださいね」
「……わかった……」
そっと傷口をタオルで拭っては、傷薬を塗りながら包帯を巻いていく。
絞ったタオルで丁寧に拭っていきながら傷の程度を確認すると、外傷は目立つもののひどい致命傷はなさそうで私は胸を撫で下ろす。
「…………傷の手当てが……手慣れて……いないか……」
ボソリと呟いたヴァーレン様の言葉に、私は顔を上げる。いつの間にかこちらをじっと見つめていた仮面越しの黒い瞳と近距離で見つめ合い、胸が小さく鳴った。
「……小さな頃から良く兄弟の手当をしてましたし、私もライト兄様の影響で大人しい方ではありませんでしたから……」
ふふと苦笑しつつ、慣れた手つきで私は上半身の作業を終えると届けてもらった紺色のガウンをそのその肩に掛けた。
「……えっと、足の方も失礼して宜しいですか……? お履物も脱ぎたいですよね……?」
しばしの間を置いて、私はチラリとヴァーレン様の足元へと視線を向ける。靴を履いたままの足元を見るに、太ももと膝下にも裂傷があるのが見て取れた。
「…………いや、もう十分だ……ありがとう」
色んな意味でホッとしたような顔をするヴァーレン様をしばし眺め、私は視線を逸らしながら口を開く。
「……本当に、宜しいですか? ……私……その……多分……大丈夫……ですよ……?」
「…………っ……えっ……いや…………っ……んっ!?」
ゴホゴホっと変な咳をしながら動揺するヴァーレン様を少し面白いなと思いながら、私は指先を無意味にそわそわさせて視線を泳がせる。
「…………は、はしたなくてすみません。でも、あの、手当て……ですし、どうせならお履物も脱いだ方が寛げるかな……と。……兄で……結構慣れていますし……」
「……いや……っ……わかって……っ……もちろんわかっている……っ……大丈夫だ……っ」
チラリと表情を伺う私の視線の先で、ヴァーレン様が明らかに動揺しているのがわかった。
視線が泳ぎ固まって言葉が出ない様子のヴァーレン様に、やり過ぎたかな……と思いつつも、ここまでやって中途半端と言うのもなぁと逡巡する。
かと言って強制するものでもないし、本当にイヤであれば引くつもりでいるが、どうであろうか。
「ーーその……気持ちはとてもありがたいのだが……っ……その……私の方が慣れてない故…………っ……」
肌が白ければ真っ赤だったのではないかと言う様相のヴァーレン様に、私は苦笑する。
「……ですよね、服の上から手当てして、お履物だけ失礼しますね」
「……え……っ……」
さらりと笑顔で引いて、目を点にしているヴァーレン様を置いて足元に回る。ヴァーレン様の様子から言って、元より下衣の衣服は抵抗があるだろうと踏んでいたから、目的は最初から履物だった。
私はヴァーレン様の靴を脱がしにズボンの右裾を捲り上げて手を止める。
「肌が……」
そこには、眩しいほどに白い綺麗な肌が見えていた。恐る恐る右の靴を脱がすと、その先にも形の良い爪が並ぶ綺麗な肌の足先がある。
次いでズボンの左裾をまくった私の視界には、見慣れた赤黒い肌が広がっていた。
「ーー……右足で……最後のようだ……」
「…………」
言葉を失う私に、ヴァーレン様が声をかける。
「ーー帰らないなら……約束して欲しい。この屋敷から……なるべくなら、この部屋から……出ないで欲しい……。……あと……碌なものはないが……上に多少の食糧を隠してある……。ヴァーレン家から出される食べ物も……なるべく口にせず……ルーウェンが持ってくるものだけを……口にして欲しい……」
「…………わかりました……」
そう言わざるを得ないのであろう環境に置かれ続けたのであろうことに胸が痛んだ。
「あと……」
何かを言いかけて言い淀んだヴァーレン様の様子に、私は小首を傾げる。
「どうされましたか……?」
「ーー名前を……呼んでくれただろう…………寝ている間に……」
「あ……はい……すみません……勝手に……」
改まって言われて、私は思わず視線を泳がす。
「いや……違う。そうではなくて……呼んでくれて……嬉しかった。……それに……そのおかげで……少し……思い出せた気がしたんだ…………失った母の……記憶を……」
「お母様……ですか……?」
ヴァーレン様に呪いを喰らう呪いをかけた人。ヴァーレン様が、失ってしまったと言う記憶の人。
「ーーあぁ……勘違いかもしれないが……どちらにしろ……ありがとう」
そろりと、ヴァーレン様の指先が私に伸ばされるのを見て、その指先を受け止める。私との肌の対比に気を取られていると、手のひらにコロンと小さな石が置かれた。
「ーー……私が……死んだら、直ぐにルーウェン家に帰ると約束して欲しい。……これを……さっき……片割れをルーウェンに渡しておいた。握って互いに顔を思い浮かべれば、離れた場所でも少しは意志疎通が取れる」
「通信機……ですか? 初めて見ました」
半分に割れたような形状の文字が刻まれた綺麗な青い石は、不思議と少し温かい上に柔らかく感じる。
「あまり出回るものでもないし、これは私の自作だから精度は高くないが……」
「……本当に何でもできる方なんですね……」
心底感心してヴァーレン様の顔を見る。ヴァーレン様が静かに私を見返していた。
「ーー……私が……1人の時に……ハンナ令嬢はいつも側にいる……」
「ーーそう……ですか……?」
そんな時はあっただろうかと小首を傾げる私に、ヴァーレン様は淡く笑んだ。
「ーーハンナ令嬢……また……名前で呼んで貰えないだろうか……」
ヴァーレン様は、そう小さく呟いた。




