59.意志 ⭐︎
部屋中の視線を集めて、入り口にその姿を現したのはヴァーレン家現当主ーーバロン・ヴァーレン侯爵その人だった。私でも、直ぐにわかるほどに場の空気はピリッと張り詰める。
白髪の混ざる少し乱れた黒髪を後ろへ流し、眼光鋭いその顔は彫り深く、歳を重ねても整っている顔立ちであることは見て取れた。
見るからに上等そうな衣服に身を包み、和やかさのカケラも見せない空気に加えた短く整えた顎のヒゲが、その纏う雰囲気を更に近寄り難いものにしている。
「ーールーウェン家のご子息。またご令嬢。この度はこちらの都合に巻き込み、危険な目に合わせて誠に申し訳なかった」
大人しく横に退いたクラウン様を横目で見た後に、ヴァーレン侯爵は口を開く。
「ーー……お初にお目にかかります。ルーウェン家の次男ライト・ルーウェンと申します。……こちらはルドガー卿とご婚約のお話を頂きました妹のハンナです。……お騒がせしております」
クラウン様と対峙した時よりも更に緊張感の増した場で、ライト兄様が簡単にではあるが貴族式の挨拶を行う。
「ーーあぁ、よい。そのままで」
ライト兄様に合わせてその場を動こうとした私に気づき、ヴァーレン侯爵がその腕を振る。
「ーー話は聞こえた。ルドガーを案ずる2人が安心できぬのも致し方ないことだ。しかし目覚めたとは言え呪いはまだ残っている。下手にここから連れ出せば、それこそ命取りになるだろう」
「ーー…………」
「とは言え、そうまで案じさせるような状況を作り出したのもまた事実。こんな所までわざわざ出向く者たちに口で言った所で難しいのも理解はできる」
ほぅとヒゲを撫でながら一息つくと、ヴァーレン侯爵は改めて室内をゆっくりと見回した。
「……ルドガーも随分と心を許していると見える。……堅物だと思ってはいたが、年相応に血は通っていたか」
「これは……違っ……っ……」
反射的に反応した身体に走る痛みにうめいて、バランスを崩したルドガー様の身体を支える。
「ーー知っての通り、ヴァーレン家は今済まさねばならない事柄が山積だ。そんな中で部外者を引き入れることは看過できないーーが、ルドガーの婚約者であった令嬢を1人預かるくらいなら受容しようーー」
「……え……?」
「ダメだ……っ」
「それなら私が……っ!」
私に定まったヴァーレン侯爵の視線とその言葉に、私が思わず漏らした声と同時にルドガー様とライト兄様の声が重なる。
「私は大丈夫だから……っ……2人とも早く帰るんだ……っ」
「お言葉ですが妹は危険な目にあったばかりなんです……っ! この状況下で置いて帰る訳には……っ」
口々に口を開く2人を眺めやり、ヴァーレン侯爵は何も言わずに腕の動きだけでその場を制する。
「ーー私は令嬢に聞いている。もちろん、断ったところで誰も責める者はいないし、好きにすれば良い」
感情の読み取れない表情で淡々と続けるヴァーレン侯爵を、私は見つめ返す。
現れてからこれまで1度も表情を崩さないヴァーレン侯爵と言う存在を、私は未だ掴みかねていた。
「ーー侯爵様、お心遣いを感謝致します。お許し頂けるのでしたら、私はここに残らせて頂きます」
一呼吸置いて私はその場に立ち上がると、深々とお辞儀をしてこちらを見下ろすヴァーレン侯爵の黒い瞳を見つめる。
「ハンナ!」
「ハンナ令嬢……っ!?」
騒ぐ2人を意に介さず、ヴァーレン侯爵は興味深そうに私を眺めやる。
「……即答か」
「ーー……はい」
自身で聞いておきながら、いささか驚いているような反応に私はヴァーレン侯爵の様子を伺った。
「……それが気に入ったのか、何が気に入ったのか知らないが、現状婚約を再度結ぶ気はないし、特にそちらの利益にはならないと思うがーー本当にいいのか?」
部屋中の視線を感じながら、私はゴクリと喉を鳴らして慎重に言葉を選ぶ。
「構いません。侯爵様が何を気にされているかも想像はできますし、お立場を考えれば無理もないことです。ただ、現状侯爵様の懸念と私の行動は無関係のつもりですし、仮に何かが起こったとして、この件に関して私から何かを要求するつもりもありません」
私の言葉を受けて、しばし間が置かれる。
「ーーふむ。……ならば、最悪ルドガーを看取る事態になることもわかっていると……?」
「ーー…………」
予想をしていなかった単語にいささか面食らったものの、私の意志は決まっていた。
「ーーそうならないように、何か少しでもお力になれることはないか……と思っています」
意を決して言葉を繋ぐ私を無言で見やり、ヴァーレン侯爵はフッと初めてその表情を変化させる。
「……なるほど、そこまで言われて前言を撤回する訳にもいくまい。バロン・ヴァーレンの名にかけて、このヴァーレン家の敷地内における令嬢の身の安全は私が保証しよう。……何、監禁する訳でもない。そんなに堅苦しく考えずとも、いつでもここから出て行っても出かけても構わない」
「ーーありがとうございます。ご配慮痛み入ります」
ひとまずほっと胸を撫で下ろし、私はヴァーレン侯爵へと御礼を述べる。
「ハンナ令嬢……っ……考え直せ……っ! ……ルーウェンも……黙ってないで何とか言わないか……っ! ここは危険なんだ……っ!」
焦ったように割って入るルドガー様を振り返って、立つことができない様子のルドガー様の目線まで腰を落とす。見たことがないくらいに焦って不安に覆われた表情が、少し新鮮だった。私の前ではいつだって、孤高で頼りになる人に見えていたから。
「……ごめんなさい、ルドガー様。大して役にも立てないかもしれないし、迷惑なだけかも知れません。でもそうやって遠慮して、後悔して、何もしないで終わることばかりだったんです。……それにーー」
言葉を切った私の顔を穴が開くほど見つめてくる黒い瞳を見つめ返す。
「このまま屋敷に帰ったとしても、ルドガー様が気がかり過ぎて結局倒れてしまいそうなので、私をここに置いて下さると私が安心できるんです。……これは私のわがままです。それに、前に言いましたよね。雑用でも、靴磨きでも、肩揉みでも、お使いでも、何でも言ってくださいって」
「ーー…………っ……」
あはと苦笑する私に、ルドガー様が二の句を継げずに険しい顔付きで視線を泳がせる。
「……もう婚約者ではありませんが、関係ありません。ルドガー様は私を命懸けで守ってくださいました。ですから、私はルドガー・ヴァーレン様の1番の味方でありたいと思っているんです。婚約者としてではありません。私が、ルドガー様のそばにいたいんです」
「……め……っ……迷惑……っ」
「あーー……ルド、諦めろ」
押し出すように言いかけたルドガー様の言葉を、ライト兄様が遮る。その場の視線を集めながら、ライト兄様は苦虫を噛み潰したような顔で頭をかいた。
「こうなったら、コイツは聞かねぇよ。自分の意見もあんま言わないし、他人の言葉に踊らされがちで気の弱いやつだけど、決めたら終わりだ。昔からテコでも動かない。諦めろ」
「そん……なことを言ってる場合か……っ……兄は……妹を守るものだろう……っ」
何とかしろと全身で訴えるルドガー様を眺めて、ライト兄様は苦笑する。
「悪ぃな。アラン兄でも動かせないコイツを動かすの、俺はとうの昔に諦めてんだよ。労力と時間の無駄だからさ」
「ーーなんだそれ……は……っ」
クソっと小さくうめいて俯くルドガー様に、ライト兄様が続ける。
「……美味いもん山ほど持って、また直ぐに顔出すよ。だから、バカ妹のこと……頼んだぞ、ルド」
ひどく後ろ髪を引かれるような顔で、ライト兄様が俯いたままのルドガー様に声をかける。複雑に絡んだ想いを言葉の裏に隠して、ライト兄様がルドガー様の肩に触れた。
ルドガー様を見つめていた黒曜石の瞳が、次いで私に向けられる。その瞳を受けて、私は静かに頷いたーー。




