57.願い ⭐︎
ヴァーレン家の屋敷は、豪奢と言うよりは規格外と言う方がしっくりときた。
外門を通り抜けた後に延々と続く森や林、庭園が凄まじく、その家柄の風格に圧倒される他ない。
屋敷に通されるかと思いきや、通されたのは別邸と思われる、それでも十分過ぎる程には立派な屋敷で、クラウン様に案内をされるがままに数人の護衛とその背中について行く。
高価そうでありながらも、いくらか抑えられたシックな調度品を横目に、屋敷の地下へと続く階段へと促される。
「この下ですよ」
「…………」
うっすらと笑んだままに、暗い階段を頼りない照明で降りて行くクラウン様をしばし見つめ、ライト兄様と顔を見合わせた私は意を決して足を踏み出した。
「……ここはルドガーの自室です。ここには、ルドガー自身が作成した防護の魔法陣が張られています。簡単な魔法なら打ち消しますし、魔法の効果を遅らせる効果もあるので、通常ならその間に適切な対応ができます」
「……あ、図書館の……?」
「あぁ、ご存知でしたか。そうです。同様の類のものですね。ルドガーの黒魔法と黒魔術の熟練度は、同業から見ても目を見張るものがあります」
振り返るクラウン様は、そう言うと階段の下にひっそりと現れた扉をそっと指先で撫でた。
「可哀想に、小さな頃からルドガーはここで1人怯えて、必死に生きていました。年端もいかない中でその庇護者も庇護者の記憶さえも失い、周囲は捕食者だらけ。さながら目も開かぬままに猛獣の巣窟に捨て置かれた赤子同然です」
「ーー…………」
「僕としても、そこから生き延びたルドガーの技量を支えた才をこのまま失うのは惜しいんです。しかし、手立てがない。……ルドガーは今ここで、静かに死の訪れを待っている」
「…………」
私の表情を伺うように見た後に、クラウン様はゆっくりとその扉を開く。
ドクドクと煩い心臓の音と、震えて冷たくなった自身の右手を左手で痛いほどに握りしめているはずなのに感覚がない。
「どうぞ入って下さい。ルドガーも、きっとあなた方に会いたいでしょうから」
道を開けるように横にずれて、クラウン様は私たちを促す。
「……っ……ルド……っ!」
反射的に動いたライト兄様の後を追う。
そのまま部屋に飛び込んで、床に倒れているヴァーレン様に駆け寄って座り込んでいるライト兄様の背中を見たままに、私は入り口で立ちすくんだ。
「おい、ルド! 遅くなった! 無理させて悪かった! ……おい! 聞こえてるか!? ……っ…………何だよこれ……っ! ……お前……何してんだよ! 大丈夫だって言ってたじゃねぇか……っ! おい! おい!! 起きねぇと張っ倒すぞ!! ルド!!」
ライト兄様の影で、ヴァーレン様の顔は見えない。けれどライト兄様の反応や、ピクリとも動かないその足先が私を震わせていた。
「ロデオから呪いを受けた後、ルドガーはこの部屋に逃げ帰りました。ここで呪いの対処をするつもりだったんでしょう」
「呪い…………」
「……ルドガーは少しばかりの特殊体質なんです」
クラウン様の言葉に、ヴァーレン様が教えてくれた呪いを喰らう呪いの話しを思い出す。
「……ですが、ソレも万能ではありません。利用するのには莫大な体力や魔力と精神力を使う。そしてその特殊体質も、恐らく近々限界が来ると予想されていました」
ライト兄様の背中越しに、ヴァーレン様の顔が見える。仮面は外れているも、黒髪に隠れてその表情は見えない。
「ーー肌が…………っ」
表情は見えないのに、通常の肌を探すことが困難なほどに広がり切った赤黒い肌だけが目に飛び込んでくる。
「アレがその代償です。いかんせん、呪いを貰い過ぎたのでしょう。何もかもが追いついていません。この部屋にいることで多少の猶予とはなっているようですが、事件以降、ルドガーは衰弱し続けている」
「何か……何か手立てはないんですか……っ!?」
思わず声を上げた私を見下ろして、クラウン様は薄い笑みを浮かべる。
「もし何か手があるならば、僕よりも先に当主が動いているでしょう。あれで当主はルドガーを気に入ってます。……僕はルドガーにはもう、生きる気力がないのでは、と思っています」
「…………どういうことですか……?」
「……人の欲求は底を尽きませんが、気力が折れたら、折れない所でも折れるんです。ルドガーの根本的なアイデンティティは、失った記憶と劣悪な生育環境によって希薄なまま。まるで薄氷の上を歩むように、脆く不安定で確立しない。生きたいではなく、死への恐怖だけで消極的に生きてきたルドガーを、引き留めるに足る理由などないのではないのでしょうか?」
「…………生きる……理由…………?」
「ルド! おい! ルド!! ……っ……くそっ!!」
呆然とする私の言葉を遮るライト兄様の声。ダンっ! と力任せに床を拳で打ちつけて、ライト兄様が頭をかきむしる。
ふらりと、私は一歩ヴァーレン様に近づく。まるで地面を踏んでいる気がしなかった。
「……ヴァーレン様……」
近づくほどに、その痛々しさに目を覆いたくなる。呪いと聞いていたが、物理的な生傷までもが身体中にあった。
浅黒いアザは以前はなかった顔の下半分や首、両手の指先までもを浅黒く覆い潰している。見える範囲で、通常の肌を探すことも出来ない有り様だった。
黒髪に隠れた瞳は、ライト兄様や私の声に反応することなく閉じられている。
「ヴァーレン様」
ライト兄様の隣に座り込んで、私はその浅黒い頬に触れる。かろうじて体温は保っているようだったが、ひんやりと熱を手放した冷たさに背筋が凍った。
「ヴァーレン様……」
そろりと、前髪に触れる。浅黒い肌に隠されていても、その顔が端正であることがわかった。
「……ハンナです……ライト・ルーウェンの妹の、ハンナ・ルーウェンです。助けて頂き……ありがとうございました。……私たちの声……聞こえていますか?」
ぽつりぽつりと呟いて、私は唇を噛み締める。ただでさえ細いその身体は、ひと月近くも寝ていることによって頬はこけて唇は渇き切っていた。
クラウン様の言うように、生きることを放棄したようなその様に、私は震える。
その生命力のなさが、湖の横で消え入りそうなほどに儚かったあの日のヴァーレン様の姿と重なった。
どうすればいいのか、皆目検討がつかない。クラウン様が言ったことが本当だったとして、一体私に何ができるのか。わからない。わからないけれどーー。
「伺うのが……大変遅くなりました……。ヴァーレン様に助けて頂いたおかげで……私……こうしてまたヴァーレン様にお会いすることができました……。本当に……感謝しています……」
返答も、微動だにもしないその身体は、本当に息をしているかすらも不確かだった。
「………………っ……」
言葉に詰まる。何と言えばいいのか、何が正確なのか、はたまた正確などあるのかーー……。
「ーー言え……」
「……え……?」
掛けられた声に、私はライト兄様の方を見遣る。ライト兄様の黒曜石のような瞳がこちらを見ていた。
「何でもいい。お前の言葉で、好き勝手言え。お前の感情は、お前のもんだろ。正解も不正解も、ない」
「ーー…………っ」
見透かされたようなライト兄様の言葉に、私は口を引き結んで袖口で目元を拭うと、赤黒く変色したヴァーレン様の手をそっと取る。
ひんやりとしたその指先が、応える気配はない。
「ーー私……ヴァーレン様に会えなくて、怖かったです……。あの日から、無事なのかわからなくて、ただ、怖かった……」
私だけの声が、室内に細く小さく響く。
「……ヴァーレン様が登校されたと聞いて、ホッとして、居ても立ってもいられませんでした。……でも同時に、怖くなりました。ヴァーレン様にとっての私が、色々な要因で不要になっていたらと、足がすくみました」
仮面の奥で、いつも優しく微笑むその眼差しが思い浮かぶ。
「……自分のことばっかりで申し訳ありません。でも、思ったんです。もっと話せていたら良かったって。話したかったって。そうしたら、婚約者でなくなった後も、友人としてだって、側にいることはできたんじゃないかって……。……ヴァーレン様に会えなくなるかも知れないことが……悲しくて、不安だったんです……っ」
ポロポロと、涙が溢れるのを止められない。呼吸が乱れて、うまく息が出来ない。
「……大人で、頼りになって、でもきっと……私には想像もつかないような辛いことも……きっと多く…………抱えていそうで……でも、皆んなに丁寧で、優しい…………っ……ヴァーレン様のこと、私は全然……知りません……っ……でも、そんな私でもわかるくらい、ヴァーレン様からはいつも真面目で優しい誠実さを……向けられている気がしました」
うぅっと唸り声が漏れる。涙が止まらない。こんなにも、制御が効かないことがあっただろうか。貴族令嬢どころの騒ぎではない。
「……ヴァーレン家の後継者候補になるのがどれだけ大変か……っ……図書館の部屋の書物の山も、周りの人への配慮だって、どれだけ大変か私にはわかりません……っ……けど……っ……そんな努力ができる人……っ……生きる理由がない訳ないじゃないですか……っ」
ずずっと鼻をすする。幾度目かわからないほどに目を擦り、震えて制御できない唇で返答のない言葉を押し出す。
「……戻って……きてください…………っ」
押し出した声が、部屋に響いた。
「……っ……ヴァーレン様に生きていて欲しいんです………っ」
ただ、生きていてくれるだけでいい。
「……っ…………私まだ何も……あなたに……っ……」
言葉が途切れ、うぅぅっと堪えきれずに涙が溢れる。もう何を言っているのかわからなかった。
こんなことなら、もっと仲良くなれていれば良かった。そうすれば、ヴァーレン様の心残りのカケラくらいにはなれたかも知れないのに。
「ーーーー…………っ……ルドガー様に……笑っていて欲しいんです……っ……」
私は何でこうも、遅いのだろう。
「ーー…………1人にさせて……ごめんなさい……っ」
何ができるわけでもなかったであろうけれど、ここに1人でいさせてしまったことが悲しかった。
強く握ったその指先に、涙が伝う。
掠れた息遣いがわずかに聞こえ、手の中でわずかに指先が動いた気がした。
「ルド!!」
叫んだライト兄様の声。開けた視界に映ったのは、まぶたを震わせてうっすらとその瞳を開いたルドガー様の姿だったーー……。




