48.窮地
「うわっ」
と声がして扉の開きに抵抗があり、扉は全部は開かないまでも身体を通すほどの隙間が開く。すかさず、私は椅子をその隙間の上の方に力任せに押し入れる。
「いって! おいおいマジかよ!」
「おい、馬鹿! 何してんだ小娘ごときに!」
「お前にだけは言われたくねぇよ! このバカ!」
そんな貧相な男の声を聞きながら、私は隙間の下らへんを素早く擦り抜ける。声が聞こえて来た扉の影と間反対の、小屋から出て左へと一目散に走った。
「おい、待てっ!」
扉を押さえていたらしき貧相な男が追いかけて来る気配を感じる。扉に挟まっていた椅子が大きな音を出して落ちたような音が聞こえた。
日はほぼ落ちかけた薄暗い森の中、私は裸足で走り続ける。当初強く感じた足の痛みは、最早気にならないほどにそれどころではなかった。
土地勘もない暗い森の中で、背後から追いかけてくる貧相な男の怒声と、ガサガサ音がもうすぐ後ろに迫っているように感じられるも、振り返る余裕も猶予もない気がする。
「おい! 止まれ! 待て!」
「いっ…………っ!」
ガッと髪を掴まれて無理やりに足を止めさせられた振り向き様に、私は小屋を出る時に掴んでいた砂を貧相な男の顔面に向けて投げつけた。
「こんのっ……うわ……っ!?」
「……っ!」
一瞬ひるんだ貧相な男に構わずに、私は持っていた剣で掴まれている自身の髪を切り離す。
「なっ!? おいっ! ちょっ!!」
目が見えないままに慌てたように短剣を振り回す男から距離を取ると、私は隙をついて貧相な男の足首を、思い切り後ろから剣で叩きつけた。
ギャァっと叫んでその場に倒れる貧相な男の確認もせずに、私は小屋を出る時に見えた小道の方角へと、踵を返して走り出す。
後方から声が聞こえるが、最早構う必要など露ほどもない。
はっはっはっと荒い息と、休みたいと騒ぐ鼓動を宥め透かしながら、少し開けた小道に出ると、私は更に走り続ける。
森の先の空が少し明るく感じるのが、人のいる場所であることを信じたい。
足が痛い。心臓が痛い。怖い。
緊張と恐怖で全身がガクガクと震えて、剣を取り落とさないようにするだけで必死だった。
誰でもいいから、安心できる所に、人に会いたい。
束の間の恐怖から脱せられた安堵からか、張り詰めていた緊張が解けて、噛み締めている唇が制御不能に震え出す。それを自覚した瞬間には、ただでさえ見えにくい森の景色が滲んで見えなくなっていた。
走り続けながら、鼻を啜り、ゴシゴシと目元を乱雑に腕で拭う間も、足は止めない。怖くて、止められなかった。
何度か鋭い痛みを感じても無視して走り続けた足の裏は、恐ろしくて見ることなど到底できない。
息が苦しい。助けて。助けてと祈るような思いで、ただ走り続けた道の先に、人影があることに気づいた。
はっとして、私は決して止めなかった足を止める。小さなランタンの灯りを持ったその人影は、フードを目深に被り、森に囲まれた夜の小道にひっそりと佇んでいた。
「ーーいやはや、まさかあの状況からこんな所まで本当に逃げ出してくるとは驚いた」
誰にともなく呟くローブ男の声に、若干の違和感を感じながら、私は手に持ったままだった中剣を構える。
「どうせ始末するからと後々に面倒が少なそうなヤツらを選んだとは言え、大の男2人がかりで出し抜かれるとは、ゴミはやはりゴミか、はたまたお嬢さんが侮れねぇのか……」
「ーー…………」
「剣の構えはいたく様になってるが、魔法や勉学の類いは苦手と聞いたな。剣術や身体能力がずば抜けているという調べは、本当だったようだ」
「……あくまでも淑女学校の中での話しですが……」
距離を詰める様子がないローブ男に見えるが、それでもその纏う空気の圧はひどく特殊で、私は無意識にじりりと距離を取る。
明らかに先ほどの無法者とは違う気配と、こちらのことをよく知った風な内容に私のこめかみをイヤな汗が伝う。
「お嬢さんのような、将来有望で可憐な娘を殺さなければならねぇのは酷く心が痛むんだが、許してくれるか?」
「……なぜ私を狙ったの……?」
私の問いかけにしばし間が空いて、ローブ男はローブの影から言葉を紡ぐ。
「ーー何故だと思う?」
その声音は明らかに楽しんでいる空気を滲ませて、質問に質問で返してくる。
「ーールドガー・ヴァーレン様の婚約者だから……?」
「ご明察」
私の言葉を受けて、場違いなほどに軽い調子でローブ男は答えると、まるで演劇でもしているかのように両手を広げた。
「聡明で勇敢なお嬢さんとはもう少しゆっくりと語りたい所だが……残念ながらここは結界の外で、周りも騒がしくなってきた」
「結界……?」
聞き捨てならない言葉を思わず繰り返した所で、答えは返っては来ない。
「……死んでくれ」
ローブの男が突き出した右腕に呼応するように、背後の草むらが大きく揺れて何か大きなモノが飛び出してくる。
いやにスローモーションに見えた私の瞳に映ったのは、獅子のような頭が2つある風体の魔物の大きな口と牙だった。
「ーー……っ!」
反射的に相対するも、一本の中剣で2対の頭に対抗できるはずもなく、覚悟を決めて剣を持つ右腕だけでなく左腕も突き出しーーた所で、私は割り込んで来た黒い影に突き飛ばされて地面に倒れ込んだ。
地面に座り込んだまま、現状を把握できずに見上げた先に見たのは、私の代わりに2対の獅子の頭に襲われている等身大ほどの人影ーー。
「に、人形……?」
「ハンナちゃん!!」
状況を把握出来ないままに呟いた私の言葉を遮るように、聞いたことがないくらいに焦ったような声が私の名前を呼ぶ。
色々あり過ぎて、ひどく懐かしいとまで錯覚させるルド様の声。
その声が幻聴ではないかと疑う前に、その美しい金髪が暗い森の中で踊るのを、私は呆然と見つめていたーー……。




