32.作戦会議再び2
「彼を知り、己を知れば百戦して殆うからず。と言う諺は、ここより海を越えた東アジア大国に伝わる兵法……つまり、戦での心得として伝わるもので、孫武と言う方が『孫子』と言う兵法書を執筆したものの一部となります」
「……はい……」
突然のサラサの講義モードに私はたじろぎつつも、大人しくサラサの言葉に耳を傾ける。
サラサは淑女学校の勉学は元より、異国の文化やら歴史やらにも詳しい。恐らく暇さえあれば読んでいる本からの知識とは思うが、どちらかと言うと脳筋寄りのちゃらんぽらんな私から見ると尊敬しかない。
「『孫子』は世界的に見ても特に優れた書とされ、簡単に言うと戦略思考を指南する書として長い時を経ても尚、親しまれています」
「……戦略思考の指南……?」
聞きなれない言葉に、何だって? と聞き返す。
「孫武が生きていた時代、戦争の勝敗は占いや個人の力量、天運など、運によるものが定説だったそうです。そんな中、孫武は運ではなく、分析、研究、戦略、戦術によって、合理的な「勝ち方」を指南書としてまとめたものが『孫子』です」
「へぇー、そうなんだ。知らなかった」
サラサに言われた彼を知り~くらいは知っていたし、『孫子』と言う言葉も聞いたことはあったが、それ以上は初耳だった。
なんなら『孫子』が人の名前だと思っていた。……サラサには黙っていよう。と心に決めた瞬間ーー。
「ちなみに孫子は尊称……敬称でもありますので、人物名としての認識でも間違ってはいませんよ」
「……サラサ、たまに私の心を読むのやめて貰えますかね……」
驚き過ぎて思わず口の端が引きつる。
私の様子を眺めて、サラサは目を細めて口元を隠し、ふふふと笑う。
「……まぁそんな感じで、13篇の構成で『孫子』は書かれているんですが、勝ち方とは言いましたが、基本的には「戦わずして勝つ」。つまり「勝つ」ではなく、「負けない」と言う戦略思想が主軸となります」
「……負けない? 勝ち方じゃなくて?」
勝つために戦うのを何とはなしに当たり前と思っていたため、サラサの言わんとしていることは何となくわかりつつ、何故か目から鱗のような、変な感覚に私は陥った。
負けないために勝ちに行くのは、当たり前と言えば当たり前のことではあるものの、私の中では無意識に「負けない」よりは、「勝ちたい」が前に出ていたことに気づく。
「孫子の生きた時代は三つ巴の戦い……と言いますか、漁夫の利を得ようとする者が溢れているような乱立時代だったのでしょう。つまり、生き残り戦略に重きを置いたのだと思います」
「勝ちに行かずに、負けなければいいってこと?」
出そうなのに、喉でつっかえているような、いまいちスッキリしない感じに私はもやもやする。
「もちろん状況などもあると思いますが、勝ちに行くなという訳ではありません。勝ちに拘って無理に勝ちに行くことをせず、あくまで負けない方法を模索すると言うことです。最初から勝ちを目指すか、不敗を守り続けるか、不敗から勝利へ転ずるか。状況を見極めて打てる戦略が増えること、と私は思っています」
「……まぁ確かに」
今までの私なら、恐らく負けないために勝つことしか見えていなかった気がする。「負けない」ことを意識的に選択肢に加えられることは、狭い視野が広くなる気がした。
「……そして当初の、彼を知り己を知れば百戦殆うからず。には、彼を知らずして己を知れば一勝一負けす。彼を知らず己を知らざれば戦う毎に必ず殆うし。と続きます」
「……自分だけを知っていれば引き分け……で、相手も自分も知らなければ必ず負ける……?」
「殆うからずと言うのは「負けない」と言うことなので、「相手と己の実情を知れば百戦しても敗れることはない。自分のことのみであればその時次第。相手も自分も知らなければ戦う度に必ず敗れる可能性がある」と言う感じですね」
「……なるほど」
「互いの情報を知っていれば、避けたり、別の対処や、前準備など対応にも違いが出ますから」
「……つまり、婚約破棄が目的なのに、相手も自分も見誤って人間違いをした私じゃ、自分で言うのも何だけど勝ち負け以前に目的の達成なんてできないもんね」
私は力無くはははーと苦笑する。意地の悪いライト兄様や、サラサの予想があった所で、そもそも全てにおいて確認不足だった私が問題であることは明白だった。
とは言え、ライト兄様の意地の悪さは再確認案件であることは否めない。
「……勝つ方法じゃなくて負けない方法ってちょっと斬新だったかも。私も孫子読んでみようかな」
建前とかではなく、サラサの話を聞いて、私は純粋に「孫子」に興味が出ていた。
思い立ったら即行動な私は浮足立つような感覚に少しそわそわする。
「細かいことは省いてますし、気になったなら私の持つ本で良ければお貸ししますよ。興味と言う欲求は、人間にとって変え難いほどに貴重なものですから」
サラサはニッコリと、その美しい顔を緩める。
私はそんなサラサを眺めながら、ひどく嬉しそうなその様子に若干戸惑いつつも、つられて微笑む。
そんな折に、カフェの個室の扉が静かにノックされ、私とサラサは顔を見合わせた。
「どうぞ」
店員だろうかと返事を返すと、扉が静かに開くと共に、長い金髪がサラリと揺れる。
「これはこれは麗しいご令嬢方、本日も煌めく太陽が嫉妬するほどに美しい!」
ノックの後に顔を覗かせた晴れやかな顔のルド様に、私とサラサの視線は静かに集中したーー。




