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短編集

抱く

作者: ガネコ

 ……ずっと前から考えていた事だった。そして実行したのは自分。なのにどうして、頭の中では後悔が繰り返されるのか。ベッドに押し倒した相手の顔が怖くて見られなかった。

 いや、分かる、俺を見ているんだ。複雑だった。怖いと思うのと同時に嬉しくもあったからだ。今は紛れもなく俺だけを見てくれているのは確かだろうから。手足から感じるぬくもりはこれまでにない興奮と同時に絶望を教えてくれた。


 ああ、本当にやってしまった。戻れないんだ、終わったんだ。失うくらいならこうするしかないと思っていたけど、これじゃ黙っているのと変わらない。

 むしろ去るのが早まっただけじゃないのか。もう分かるべきだった。恋をした時点で俺には失う道しかなかったみたいだ。

 つばでも飲み込んだのだろう。喉が動いた。やけに扇情的に映るその首筋に唇を寄せる。ビクッとした反応と体温が肌から直に伝わった。


「……イズミ」


 つい相手の名前を呼んでしまう。甘えてきっていた普段の癖か、とうとう顔を見てしまった。見ないようにしてきたのに、ずっとこちらを見つめていたであろう彼女と目が合う。

 その瞬間、後悔に隠れて自分でも分かっていなかったことに気付かされた。




 ――――ずっと好きな人がいた。けどその人は当たり前のように気づかない。

 あまりまわりからはそうだと分かってもらえないけど、意外に物わかりの良い俺は、そういう恋だからしょうがないと思ってうまく隠した。本音を誤魔化そうと逆に女とよく遊んだ。

 まさかそんな俺を当人の先輩が心配してくれて、誤魔化すどころか取り繕えなくなる寸前にまでさせられるとは思わなかったけど。


 その恋が取り繕えなくなる前に終わったのは幸いだったのかもしれない。彼女は長年付き合ってきた婚約者とついに結婚した。羨ましいくらいに幸せそうだった。恋が終わる理由には十分過ぎた。

 いや、違う。どうやってでも終わらせようとしたんだ。あの人の為に。後輩としてならともかく、道から外れた俺の気持ちなんて幸せな二人の邪魔にしかならないんだ。


 次の恋は意外に早かった。というのも気づけばいつの間にか近くにイズミが居たのだ。

 彼女は優しかった。年の差はないけど、俺にはない大人の余裕とやらを持っていた。失恋の寂しさを紛らわす為に甘えても無理を言っても何だかんだ許してもらえた。欲しい時に構ってくれるし、けれどもこんな俺を思ってちゃんと叱ってくれる。


 次第に周囲から仲の良さを茶化される程になり、先輩にさえこう言われた。『あなた達仲いいわね。なんだかイズミちゃんに武彦くんが取られたみたいで寂しい』と。

 少し前には聞きたくなかった言葉が、不思議とすんなり受け入れられた。この時、イズミならもしかして冗談抜きで自分の奥底まで理解してくれるのではないかと思った。彼女との日々を過ごすたびに、彼女の反応を見るたびに、根拠のない自信で満たされそうになった。


 ああ、そのままだったらもっと段階を踏んでいたのに何故だろう。それが変わったのは違うもので心が押し潰されそうになったからだ。それは心が自信に満たされる以上の早さで深まっていった。

 ……イズミも先輩のように実は普通に他の男と恋愛していて結婚するんじゃないか、という不安が根拠もないのにやけに色濃くなっていく。

 彼女も当たり前のように幸せになって俺を諦めさせて離れていくのが当たり前のように感じた。俺の手が届かないところへ行って帰ってこない。俺は何も出来ない。


 再びそんな気持ちにさせられるくらいならいっそ、誰かに先を越される前に動かないといけない。正面から言えば通じる相手なのは分かっているのに、それが出来なかった。こうでもしないと俺の心はもう耐えられない。



 そう思っていたのに駄目だ。ここから動けない。ずっといつものように、いや、いつも以上に優しい目で見られていたのか。

 いつもの俺ならこの目を見ると嬉しくなる。同時に、内心反抗したくなっていたはずだ。イズミは一体俺の何を分かってるんだ、と。

 俺からは何も伝えていないのにまるで理解者みたいに黙って頷いてくれるなんておかしいじゃないか、と。それが嬉しかったくせに生意気だった。


 今日は逆に恐ろしい。こんな事をされる時までこの目をするなよ。分かったような顔するなよ。イズミ、お前の事が好きだよ。好きだけど、俺の事が嫌いじゃないとは思ってるけど。俺達はそこまでの仲になっていたのか?

 それじゃあれか、俺が今あんたに見られて思った事伝わってるのか?


 ……今、目の前にいるイズミじゃなくて、先輩を思い出してしまったんだってこと。仮に伝わってたらどう思うだろう。酷いよな。我ながらこんなに傷が深かったとは。今更なんでこんな事想像しないといけないんだ。

 こうやってあの人を押し倒して、あの人に抱きしめられたかったんだって今更気づいてどうしようもなくなって動けなくなったんだ。こんなの、イズミでもわからないだろ? 絶対分かるもんか。分からないでくれ。







 ……妙に落ち着いた気分だった。正直こうなる前までは彼と二人きりになると緊張したし、そこを茶化された事だってあるのだが。嬉しくないという事ではない。全く興奮しないというわけではない。怖くないというのも違う。ただ、想像していたよりもこっちの腹はすわっていた。


「イズミ……」


 緊張していたのは相手の方だった。急に押し倒してきたと思えば顔も合わせない。こうなれば武彦の欲情にかられた顔くらい拝んでやろうと思っていたのに。

 やけに弱々しく名前を呼んで私の顔を見たと思えば、これ。武彦のやつ、嫌な上司に呼び出された時の表情だ。不安で今にも逃げたい、そう思っているような顔。


 普段は良くも悪くもへらっとしているところがある人間。だがしかし、本当の彼はネガティブで繊細で傷つきやすい。特に人間関係に関しては。私には分からないところで色々思いつめていたのかもしれない。

 もしくは私に見つめられて動きが止まったのは、あの人の事でも思い出したのだろうか。いつもなら抑えつけていた嫉妬が出そうになる。

 やっぱり、未だ心の奥底には彼女がいるんだと嫌な予感が当たってしまった。悔しい。悲しい。怒り。どうしようもなく無力な私。


 それでも性分だろう。これらの負の感情より心配や愛おしさが結局勝ってしまった。彼をこのままにはしておけない。

 私は彼の背中に手を伸ばし、こちらにグッと引き寄せる。自分より背は高いし、それこそ今押し出してきた力があるのに、やけにすんなり抱かれるこいつがなんだか小さく思えた。




 ――――あの人が好きなのだろう。それは武彦と仲良くなって真っ先に分かった事。まあ、好きと言っても先輩後輩の中の話だと思っていたのだが、どうも違うようだと後々気付かされた。

 あれは確か、先輩が結婚した時だったか。皆が祝福する中で『先輩が取られたみたいで寂しい』と私にだけボソッと話してくれた。

 あの時の武彦の目が、まざまざと見せつけてくれた気がする。こいつはあの人に未練がある。しかもそれは恋愛感情に限りなく近いものだと確信した。


 皮肉な事に、私が彼へ恋愛感情を持ち始めたのはそれがきっかけだった。あいつがこれまでずっと隠してきたあの人への気持ちを考えると、この上なく胸がむかむかしたからだ。

 また、あいつは隠しているつもりでいるのに、あの人を見る目が普段から他とは全く違うという事に気づいて今更へこむ自分を知ったからだ。


 そして考えた。私とこうやって以前より一緒にいるのはあの人と一緒にいれなくなった穴埋めだったのではないか、と。実際そうだろう。今だってそうかもしれない。

 けれどそれがあって私の事を少しでも想うようになってくれたのならそれで良いと思った。私が彼を好きになっていたからだ。惚れた弱みとも言える。


 心の防衛機能としてでも、勘違いでも良いから、私の事を好きでいればいい。一緒にいて、笑いあったり、喧嘩したり、怒ったり。

 つまるところ彼が心穏やかにいられたらいいんだ。


 今、こうやってわざわざ手を出してきたという事はとりあえずある程度好きだという事に違いない。あの人にそういう事をしたかどうかは不明だが、武彦の性格を考えると何もなかったはず。そう、自分だけがこうされたのだ。

 普通なら喜んで受け入れるべきだし実際優しく受け入れたはずなのだが……。何故かこうなってしまった。

 抱かれるはずが抱いている。いや、別に抱く場合、抱かれた場合両方どちらでも悪い訳じゃない。好きならどっちでも構わない。しかし今の状態はまったく色っぽいものじゃなくて、まるで子供でもあやすようなハグだ。


 緊張が解けたのか、安心したのか。グズグズと泣き出した彼を宥めるように頭を撫でたり背中を擦ったり。私達は一体なにをやってるんだろう?

 何故かまだ幼児の甥っ子を思い出す。子供ならともかく、大人の男の身体なんてそんなに触り心地が良いものではない。と思っていたのに、相手が好きな相手ならまた違うようだ。

 こんな色気もない状況なのに何故さっきより胸の鼓動が大きくなるんだ私。意地と理性で何とか抑えてつけているけどどうにかなりそうだ。恋は理性でするものではないとこんなところで痛感する。私は、意外に抱く側の人間だったのかもしれない。


 ああ、もしかしたら彼もそうなのかもしれない。こういう風に抱きしめられたかったのか。ただ私に、というよりもあの人にこうやって抱かれたかったことを今になって思い出してしまって。だから泣いているのか。改めて考えると酷い男だ。

 馬鹿、泣きたいのはこっちだよ。いい加減にしてよね、と気持ちを込めて頭を軽く叩いた。するとお返しとばかりに軽く蹴りが入れられたので思わず笑ってしまった。

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