付喪神エピローグ
点々と続く街頭を上空に、由佳は人通りのない夜道を一人歩いていた。大きな道路沿いを歩いているが、行きかうのは深夜バスかトラックばかり。由佳が暮らすのは、大きな公園が多い郊外の住宅地。商店街も栄えており、都心から越してくるファミリー層向けに大きな公園や学校、保育所も多い地域だ。そんな地域だから比較的大きな駅前も夜には閉まる店が多く、タクシーも夜にはほとんど見かけない。深夜に出歩くのは残業を終えたサラリーマンか、由佳のようなバイトに勤しむ大学生くらいだ。大学近くの居酒屋のバイトは、時給も高く深夜手当に交通費も支給されるので、由佳はほかの学生よりいくらか多く稼いでいた。一人暮らしを目指し、貯蓄をせこせこと貯めて2年が経った。目標まであと一歩と迫っていたこともあり、気持ちが焦って終電までバイトに入ることが多くなっていた。
夏の終わり、夜の気温はぐっと下がる。疲れた体に風が冷たく、半そでからつきでる二の腕をさすりながら家に着いたのは深夜1時半を超えていた。からからと軽い音を立てて玄関を開けると、明りはともっているがはなかった。玄関横の障子戸、祖母の部屋にはうすぼんやりとした橙色の明りが暗がりに漂っていた。音をたてないよう静かに廊下を進み、明りが灯った突き当りのリビングへ入る。祖母と両親、弟と暮らす古い一軒家は、母と祖母の好みを踏まえてリノベーションが施されている。リビングには北欧風のソファとテーブルが並び、その先に対面式キッチンと大きなダイニングテーブルが置かれている。洋風のテーブルセットの横に、似つかわしくない襖がついており、その先は畳張りの茶の間が広がっていた。和洋折衷といえば聞こえはいいが、なんとか祖母と母、双方の意見を立てた結果だった。リビングと茶の間の両方にテレビがあり、つければ両方の音が聞こえてくるほどの距離だった。1階は茶の間とリビングダイニングでスペースを使っており、あとは祖母の部屋とトイレしかない。
由佳がリビングの扉を開けると、そこにはもわっとした夏の熱気が残っていた。冷蔵庫からアイスを取り出し、テレビをつけ音量を下げるとソファに静かに座った。深夜までの居酒屋バイトは肉体労働だ。食事の提供に酔っ払いの相手、食器洗いに掃除もする。夜まで働くのでまかないが出るが、脂っぽい食事が多く、夏の暑い時期にはなかなか食が進まなかった。昼間の暑い盛りには授業とレポートをこなし、精神的にも肉体的にも疲労が溜まっている。まるまる1日寝ていたいな・・・と思いながらも一人暮らしへの憧れが由佳を突き動かしていた。短い袖に顔を近づけると汗と古い油のにおいがした。少なくとも女子大生がさせる香りではない。早くシャワーを浴びたいと思いながら、一度下ろした腰が重い。ふとソファ前のセンターテーブルに目を落とすと、由佳宛てのメモが1枚、封書や新聞の束と一緒に置かれていた。そこには母の字で、『伯母さんが亡くなったのでお葬式にでます。由佳も参列するので明日喪服を買いに行きます。空けておくように!!』
と、書かれていた。「伯母さん」と表記するからには、親しい母の妹ではなく、おそらく父の姉のことだろう。伯母の顔は思い出せず、背が高くすらりとした容姿と、ウェーブのかかった長い髪をゆったりと束ねている姿が頭によぎった。明るい髪の色と濃い化粧、そして言動が年齢にそぐわないちぐはぐな印象を思い起こしたが、すぐに消え、若い子が着る喪服が気になった。高校生の時参加したおじいちゃんの兄弟のお葬式では制服を着てくるように言われたが、大学生の今、どんな服をきるべきなのだろうか。黒のワンピースなら1枚持っているが、少なくとも葬儀に来ていける装飾ではないことはわかった。葬儀に参列する喪服とはいくらほどでどんな格式ばった衣装なのだろうか。葬儀といえど趣味に合わない恰好はいやだなぁと重い腰をあげると、茶の間の方からチーンと機械音がした。ダイニングに似合わない和装の扉を見やると、もう一度扉の向こうからチーンと快活な音が鳴り響いた。規則正しい間隔の音は2回鳴くと静まり返った。何の音だろうか?茶の間に音のなるものなどあっただろうか?
恐怖を感じたわけではなかったが、恐る恐る茶の間につづく襖へ近づいた。白い襖の下半分には柔らかな色で草花が描かれている。黒々と光る丸い取手がやけに飛び出して見えた。向こう側が少しも見えない襖はそこに立ちはだかる壁のようで、コンクリートのように冷たく硬く、普段よりひどく大きく気がした。ゆっくりと黒い取手に指をかけると、熱い夏の空気と反して、ひんやりとした重厚な金属の感触がした。そっと、片目が覗くだけ扉を開けると暗く静まりかえった和室に一筋ぼんやりと光が走った。光は足元の畳から正面のテレビへ、そしてその後ろに構えた大黒柱の輪郭を浮かびあがらせた。光に沿って目線をあげると、年月を経てとろりと光る大黒柱に、真っ黒く小ぶりな柱時計がひとつぶら下がっていた。文字盤と振り子に貼られたガラスが鈍く反射し、針が午前2時を指示していた。