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おもかげ

作者: 芥子川龍

 ベッドに横になって、開け放した部屋の入口の方を見ると、そこには真っ暗な廊下が伸びている。廊下の突き当りには、お父さんの寝室があるのだけど、夜は暗くてそこまで見えない。


 仕事場も兼ねているその部屋には、仕事をしているときに入ってこられると気が散るからと、僕は入ってはいけないことになっていた。

 だけど今日、僕はその言いつけを破る。なぜそんなことを思い立ったのか、自分でもよくわからない。たぶん反抗期というやつなんだろう。

 今日の算数の時間に、お父さんの寝室兼仕事場に侵入するための作戦を立てた。数日観察した結果、部屋のドアの隙間から漏れる光が消えるのは、夜の十時ごろだ。いつも僕は九時には寝てしまうので、お父さんが寝るような時間まで起きていたら、悪だくみをしていることがばれてしまう。だから、まず十時まで自分の部屋で寝たふりをする。次に廊下を忍び足で渡り、寝室兼仕事場に到着。そして、静かに扉を開き、侵入。これが僕の考えた作戦だ。

 何度か眠りに落ちそうになりながら、僕はなんとか時間まで耐えきった。枕元の目覚まし時計で、十時になっていることを確認し、むくりと体を起こす。暗くて、やっぱり奥まで見えない。僕は床に足を下ろして、部屋から顔を出す。生まれた時からずっと過ごしている家なのに、夜十時の廊下は、見たことない洞穴みたいだった。僕は勇気を出して、一歩踏み出す。気分はまるでトム・ソーヤーだ。



一度、怖い夢を見て、夜中に目が覚めてしまったことがある。僕はその時もお父さんの部屋に行こうと思ったけど、やめた。それは、廊下が暗すぎたからということもある。でもそれ以上に、僕はお父さんのあの部屋に近づくのが怖かった。

「だめだ。この部屋には入ってはいけない」

 あの部屋の前でこう言われ、肩を落とす僕が、簡単に想像できた。それは悪夢よりも、廊下の暗闇よりもずっと怖い光景だった。こういった想像をするたび、この狭い廊下は、実際以上に長く見えるのだ。



 僕はもう一歩、足を踏み出す。右手の方に、廊下の明かりをつけるスイッチがある。でも、もちろんそれは使えない。お父さんは意外と繊細な人だから、この廊下の光に気が付いて、起きてしまうかもしれないからだ。

 さらにまたもう一歩。足の裏にざらざらとした床の感触。埃が溜まっているのかもしれない。確かに、お父さんが、廊下を掃除しているところは見たことない。

 一歩歩くたびに、「もう今日はいいだろう」という気持ちが襲ってくる。僕はそんな感情に負けないようにペースを上げた。一歩、一歩、また一歩。すると扉が見えてきた。廊下に終わりがあったことを確認して、とりあえず、僕はほっとする。

 ドアノブに手をかける僕の手のひらは、じっとりと湿っていた。金属製のドアノブの冷たさが、僕の手の熱でぬるくなっていく。

この先は僕が見たことない景色が広がっている。僕はその様子を想像した。

 一応寝室だから、ベッドがあるはずだ。他には仕事用の机も。他には何があるだろう。たくさんの本、それにゲーム機とか。もしかしたら、いやらしいものでもあるのかもしれない。だから、僕を中に居れないようにしているのかも。

 一通りの妄想の末に出来上がった部屋は、散らかっていて、実際より狭く見えてしまうような部屋だった。ほんとのところはどうなんだろう。僕は緊張感が手に伝わらないように意識して、時計の短針くらいゆっくりドアノブを回した。

 ドアを開けた先では、手に何かを持ったまま、顔をひきつらせたお父さんがベッドに腰かけていた。

「なんだ、お前まだ起きてたのか。脅かすなよ」

 お父さんはそう言って、ナツメ球を蛍光灯に切り替えた。暗さに慣れた目が痛んで、一瞬、目の前が真っ白になった。

 お父さんはまだ眠っていなかったのだ。

「ごめんなさい」

 僕は俯きながら、背後の廊下のことを考える。慎重に、勇気を出して歩いてきたこの時間は何だったのか。気を抜くと、その場にしゃがみこんでしまいそうになる。そんな僕を見て、お父さんは言った。

「入るか?」

 聞き間違えかと思った。なぜならお父さんは今まで、あんなにかたくなに僕を入れようとしなかったのだから。

「いいの?」

「いいよ、もう見られちゃったし」

 お父さんはそう言って笑った。

 部屋の中の様子は、僕の想像とまるっきり異なるものだった。仕事用の机と寝室はあるけど、ものが散らかっている様子はない。どちらかと言えば少し寂しいくらいの部屋だった。ただその中で一つ、異常な存在感を放っているものがあった。ベッドの脇にあるドレッサーだ。白くて脚にくびれがある、洋風のドレッサー。隣に座った僕があまりにもそれを熱心に見てたから、お父さんは、僕がドアを開けたとき手に持っていたものを僕に渡し、「これはお母さんが使っていたやつだよ」と、ドレッサーを見て言った。「朝起きると、ここで髪を梳かしたりしてたんだ」

僕が渡されたのは、額に入った、お父さんとお母さんのツーショットの写真だった。

「これいつの写真?」

「たぶん、お前が生まれてすぐだったと思うから、十年前くらいかな」

 十年前のお父さんは、今よりだいぶ若く見えた。特に髪型は今と全然違う。今のお父さんは短いスポーツ刈りだけど、このころのお父さんは髪の毛が長くて、ほんの少し茶色がかった髪色をしていた。

「もともとここはお父さんとお母さんの寝室で、お前にこの部屋に入るなって言ったのは、なんとなく恥ずかしかったからだ」

 僕は写真に落としていた視線を、お父さんの顔の方に上げた。お父さんはばつが悪そうに苦笑いをしていた。お父さんはこの部屋に、お母さんがいたしるしを残したままにしているのだ。

 僕はもう一度写真に目を落とす。変な髪形をした茶髪のお父さんの隣に立つ、僕のお母さん。白いTシャツは肩のほうまでまくられていて、ほっそりとした白い二の腕がさらされている。全体的に体が薄くて、弱々しい印象を受けるけど、麦藁帽の下の顔はにっこりと笑っていて、そのアンバランスさは僕を不思議な気持ちにさせる。


 お母さんは僕が二歳の時に病気で亡くなった。もともと体が強いほうではなかったが、僕が生まれてから本格的に体調が優れなくなったと、親戚の誰かが話していたのを聞いたことがある。


「お父さんは、まだお母さんといたかった?」

「あたりまえだろ」

「でも、お母さんがまだ生きてたら、十年経った今頃はお母さんのこと嫌いになってたかもよ」

「そうかもしれないなぁ。でもいないよりはましかな」

 お父さんはやっぱり、お母さんのことがまだ好きなのだと、僕は心の中で確信する。お父さんは、僕にそのことがばれたくないから部屋に入れたがらなかったのだ。でも、そんなことは、毎朝仏壇に手を合わせる時の顔を見たらわかることだった。お父さんは、お母さんの仏壇に手を合わせるとき、一日のどの瞬間よりも真剣な顔をする。それはお盆に親戚の集まりで見るような、中途半端なものとは違う、天国を信じるとか信じないとか、もはやそんな範疇に収まらないような、何かを伝えようとする強い気持ちがこもっている顔だった。


「だったら、僕のこと嫌い?」

 その言葉は、言った自分が意外に思うほど、スッと自然に口からこぼれた。僕のせいでお母さんが死んだなら、お母さんのことが好きだったお父さんは、僕のことが嫌いになるんじゃないか。これは長い間思ってきたことだ。毎日仏壇の前で手を合わせるお父さんを見て、この思いは日に日に強くなっていった。

「なんでそう思う?」

 困惑顔のお父さんの声は、少し硬かった。

「だって、お母さんは僕を生んでから体壊したんでしょ。僕がいなかったらお母さんはまだ生きてたかもしれないよ」

 沈黙。お父さんは顔を上げて天井を見た。お父さんは何を考えているのだろう。僕はなにも言わずに、そしてできるだけ静かに呼吸をしながら、お父さんの言葉を待った。

「お前の鼻、お母さんに似てるんだよ」

 お父さんは突然言った。

「え?」

「いや、お母さんが言ってたんだよ。お前が生まれた時。汗とか涙とかで顔ぐちゃぐちゃにしながら、私の鼻にそっくり!見て!って。お父さんは心配でそれどころじゃなかったんだけどな」

 写真の中のお母さんの鼻は、さすがにはっきりとは見えない。僕は自分の鼻を撫でた。丸くてつるりとした、なんの変哲もない鼻。

「あの時、お母さん、とても嬉しそうにしてたよ。見たことないくらい」

「ほんとに?」

 僕が思わず尋ねると、お父さんはうんうんと頷いた。

「お母さんと結婚するとき、私はきっと早死にするからなにも残せないよって言われたんだけどさ、お前はお母さんが生きている間に残した数少ないものなんだよ。だから、鼻が自分と似てるって気づいたとき、あんなに喜んだんだと思う。何かを残せたって」

 そう言うお父さんの声はかすかにふるえている気がした。僕はなにも言えなかった。酸っぱいものを食べたあとみたいに、喉がしくしく痛んだ。

僕は俯いたままいろいろな感情を我慢した。返事もしなかった。いま声を出せば、僕が泣くのを我慢していることがお父さんにばれると思ったからだ。

「嫌いなわけがない。お前には感謝すらしてるよ」

 お父さんはそんな僕を撫でて、言った。


「今日はここで眠りたい」と言った僕の声は、思ったとおり、がらがらだった。「いいよ」とお父さんは言ってくれた。僕はできるだけ丁寧に、持っていた写真をドレッサーに置いて、お父さんの隣に横になった。

明かりが消えると眠気はすぐにやって来た。そして僕は夢を見た。その夢にはお母さんもいて、僕たちは三人で写真を撮った。スポーツ刈りのお父さんと少し肉付きの良くなったお母さん、そして僕。にっこり笑うお母さんと、不機嫌そうな僕の顔には、二人おそろいの鼻があった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] しみじみとさせられる作品でした。
2021/02/12 20:02 退会済み
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