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弱意思

作者: 上本隆

 このクラスからは実に、二人の生徒が消えた。一人は男で一人は女であった。その消えた理由を他のクラスメイトは知らない。

 唯、僕だけが知っている。知っているが口にはしない。鉄像のように押し黙り、知らないふりをしている。僕にはそれしかできない。




 六月は雨が良く降る。他の季節の雨に比べ、気持ちの悪い雨である。狭い町をすれ違うと肩に傘の雫が垂れ、その瞬間だけは、考えることなく通り過ぎる通学路にも仄かな意識が生まれる。

 学校への道は単純で、大通りに出るとまっすぐ歩けば良い。その道を歩くものはほとんど同じ学校の生徒で、彼らもまた僕と同じように何を憂うでも喜ぶでもなく通り過ぎるように見える。

 信号待ちは皆傘を左に持ち替え右手を見る。青に変わると誰からともなく渡り始め、緩やかな坂を上った後に校門へ吸い込まれていく。

 教室は三階だった。湿った階段を上っていくと少しずつ人が減っていく。去年の教室は四階であったから、それよりは多少気楽だ。

 僕は教室の一番後ろ、右から二番目の席に濡れたカバンを置いた。

 まだ人は少ないが、そのうち四十もの人がここにやってくる。

 

 否、その日は三十九人しかいなかった。一人の欠席があったのだ。僕の左斜め前の女子生徒、深浦蒼だ。

 色白、というかむしろ青白いくらいの印象だが、顔立ちは整った美人だと個人的には思っている。

「深浦は体調不良だそうだ。季節の変わり目は風邪をひきやすいから気を付けるように」

 一時間目は担任の持ち教科の古典だった。担任が出席簿を閉じるとチョークの音は退屈に変わっていった。

 僕は授業中何度か、斜め前の空席に目を遣った。


 次の日も深浦は休んだ。席が近いこともあってそれなりに仲は良かったのだが、休みの日に連絡を取るというほど親しいわけではない。


その次の日も雨が降っていた。学校に行くといつも四、五人しかいないような時間に、いつもはいない人がいた。

「おはよう」

 あまり元気はなさそうだったが、まごうことなき深浦の声だった。二日ぶりに見るその顔は血色悪く、絵に描いたような病み上がりといった感じだ。

「おはよう。体調は治った?」

「うーん、微妙」

目が泳いでいる。

「お大事に」

「ありがと」

このやり取りの間、一度も目は合わなかった。無理をして喋っていたのだろうか。でもあっちから話しかけてきたわけだし。全く本調子ではなさそうだが、学校に来られるくらいに回復したことは素直に

喜ぼう。

 

 この日の1限は言うまでもなく退屈。”コミュニケーション”英語。”コミュニケーション”とは名ばかりで延々と一人で喋っている。そんな授業でも聞いている人がいるのだから驚きだ。一番後ろなだけ教室中の様子が見える。朝は皆寝ているものだが、その中でも首を傾けず耳を傾けている者がいる。奇特な奴もいたものだ。

 そんな中一人落ち着かない女がいた。当然深浦である。窓際に座る彼女は、伏したり起きたり時折小さく唸ったり、絶対に学校に来て良い体調ではないように見えるが、後ろから見るこの構図は中々に滑稽なものがある。

 まあしかし、この様子では早退も秒読みではなかろうか。

 というのも、この深浦蒼は早退が多いイメージがある。実のところ去年も同じクラスではあったのだが、その時は今とは人が違った。これは決して誇張表現ではなく、本当に。

 去年は一度も会話したことなんてなかった。今年に入ってから明るくなった、というべきか、僕にも話しかけてくれるようになった。

 早退が多くなったのも今年からだ。去年はもっと優等生のイメージがあったし、それが近寄りがたい一因だったと思う。

 それにしても今の深浦は適当を極めたような人間になってしまった。


 案の定、一限が終わるとふらふらと立ち上がり、長い髪の毛を振り子のように揺らした。遠目に見ると黒々としたその髪に、思いのほか艶は無かった。

 目も合わせず、どこか落ち着かない様子でこちらに半分だけ顔を向けると、

「じゃあね」

 と一言うと、やや俯きながら早足で教室を出て行った。何かを噛み殺すような、睨むような表情だった気がする。

 そんな深浦を周りが気にする様子はない。扉が閉まる瞬間こそ見た人は多かっただろうが、この時間にいなくなるのは”割とあること”だから目もくれない。

 でも、だ。実際これは相当異常な事態だ。去年の成績優秀者が一転、今年は遅刻早退の常習犯で性格もおかしくなっている。なにか抱えてるのではないかと思わざるをない。何かってなんだ。いじめとかだろうか。そんな様子は見たことないが、しかしそういうものは往々にして隠れたところでされるものだろうから、ありえない話ではないかもしれない。

 そう考えるとなにか、心配にもなってはくる。何かがおかしいとは兼兼思っていたが、心配よりも話しかけてくれる嬉しさが勝っていた部分がある。一年生の時は絶対に関わることのない存在だと思っていた。それが今や「おはよう」に「じゃあね」だ。あまり詮索するのは良くないのだろうが、力になれることがあるなら協力したいと、そう思った。


 しかし何をするんだ。仲が悪くないとはいえ、ただのクラスメイトだ。そんな奴がなんかしようなどと。

 でもやっぱり助けたい。助けたい? そもそもなにか困っているのかすらも知らない。まあなんだかんだ学校には来てるし、明日話を聞いてみようか。

 などと考えていると一瞬にして全授業が終わった。今日は疲れた。ちゃんと授業を聞くよりも疲れる。

 

 まあ帰ろう。一回寝てから明日考えよう。僕は色々の人がいる階段を下りた。これだけの人がいるのに、お互いがお互いを全く気にしていない、のだと思う。僕は誰のことも見ていないのに、僕は誰かに見られている気がする。

 昇降口も混雑している。部活の連中が靴を履き替えているのだ。ここで履き替えるな、混むから。

 なんとか手を伸ばし我が下駄箱にありついた。一応下の人に砂が飛ばないようにそっと開けると、二つ折りの小さい紙が僕の靴の上に置いてあった。




 紙は湿気で少し縒れていた。とりあえずポケットに入れてこの混雑から抜け出すことを優先した。

 蒸し暑い雑踏からは抜け出したと思ったが、暑さは人ではなく気候のせいであった。

 僕は不安とも期待ともつかない心持ちで家に帰った。その間この手紙が、いや手紙ではないかもしれない、文字が書いてあるとは限らないのだが、その紙が誰のものであるのか思案した。

 話の流れ上おおよそ誰の仕業かはわかりそうなものだが、それはこの五、六時間同じ人物のことばかり考えていたからであって、実は別に根拠があるわけではない。

 人は『見ればいいじゃん』と言いそうなものだ。別に今見たっていいのだが、移動中に歩きながら見て内容が内容なら事だ。その上誰かに見られた日には後悔してもしきれない。絶対に安全といえる場所まで行ってから読むことはもう決めている。

 あれこれと考えていると、いつもの半分の時間で家に着いた。誰もいない家は湿っぽい。、辛うじて濡れていない靴下を早く脱ぎたかった。僕は二階の自分の部屋へはいると、服がそこまで濡れていないことを確認した後、ベッドに転がった。

 ふう。

 息をつくといよいよ手紙を見る気になった。


 なぜこうも手紙一つ見るだけで肩肘を張るのかというと、読むと責任が生まれてしまうような気がするからなのだ。また、同時にこれが誤謬であることも分かってはいるのだが……

 さあ、どんなことが書いてあるのか。

 僕はゆっくりと二つ折りを開く。


――――「たすけて 明日 

           フカウラ」――――


 予想はしていたはずだったが予想外だった。

 あまりの衝撃のためか、或いは情報量不足のためか暫し固まった。

 「たすけて」なんて基本的にフィクション専用の言葉だと思っていたが、今回はその「基本的」を逸脱した状況であるのが、それまでの彼女の態度と僕の妄想から推察できる。

 『明日』――、なにかあるのだろう。


 ……不謹慎かもしれないが、高揚するのは言うまでもない。クラスの女子から手紙なんてそう滅多にない。いや、初めてのことだ。しかもこの場合、明日何かしらが起きることは決まっている


 それにしてもなぜ僕なのだろう。ほかの人ではない僕なのには理由があるのだろうか。色々な想像が錯綜した。


 この時、彼女が困っているであろうことを忘れていた。




 起床。

 机の上には紙が一枚だけ。改めて見てみると変というか、余程のバカか小学生が書いたような不格好な手紙である。からかわれているような気さえしてきた。

 昨日は一人で舞い上がって、一夜明けると朝っぱらから恥をかかされた気分に勝手になっていた。


 外に出ると、久しぶりに晴れていることに気づいた。太陽は心中とは対照的に煌々と照る。中々清々しい朝だった。

 通りはいつものように学校に近づくにつれて混んでゆく。例によって吸い込まれるように校門へ入って行く。

 これまた例によって教室にはまだ数人しかいない。少しずつ埋まっていくマスに最後まで埋まらないのはやはり左斜め前であった。

 そのまま昼休みも終わり5限も終わり、いよいよ最後の授業が始まろうとしたとき、後ろのドアは開いた。僕はその顔をじっと見ていたが、彼女が目を合わせることはなかった。しれっと教室に溶け込み、すっかり背景になっていた。

 6時間目は長かった。幾度その背中を見たことか。時折思い出したかのように黒板を見た記憶はある。

 授業も終盤になると黒板は白くなっているが、僕のノートはそれよりも白い。

 どうするつもりなのだろうか。この後。

 

 授業が終わった。道具を一式片付けると彼女は立ち上がり、こちらに向かった。僕が彼女から視線を外すことはなかった。しかし彼女は相変わらず下を向いたままだ。

 この時、今日初めて目が合った。

 しかし立ち止まることはなくそのままに通り過ぎるのかと思われた瞬間、彼女の左手は僕の腕を掴んだ。

 生暖かい手で僕を引っ張り上げ、駆けた。

 教室はこの状況にか、それとも授業終わりの当然にか、酷くざわついていた。

 廊下は空いていた。階段も空いていた。一階、二階と駆け上がる。もう今何階にいるのか分からなかったが、階段が終わるのを見て六階建ての一番上に着いたのが分かった。

 彼女は僕を引っ張りながら普段人がほとんど入らない放送器具庫に飛び込んだ。

『バタン』

 重い扉が勢いよく閉まると、急に静寂が飛び込んできた。

 聞こえるのは息の音だけ。

 やっと腕を放すと、振り返った。

 顔が、近い。

 この部屋で聞こえる全ての音は彼女の吐息である。

 今僕の首にかかる湿った空気は梅雨のものではないこともわかった。

『はぁはぁ』と、僕のよりも激しい。

 彼女は器具が乱雑に置かれた床に直接座り込むと、片膝を立てて壁に寄り掛かった。

 僕は立っているしかなかった。あと、目のやり場に困った。

「ごめん……」

 彼女は息混じりの薄い声で呟いた。

「どうしたんだ、一体」

 現状、服装を除けば女子高生とは思えない風体である。

「読んでくれた?」

「まあ」

――「もう、だめだ」

――――?

「な、なにが?」

「もう私は終わりなんだよ」

 彼女の言っている意味が分からないのは僕のせいなのだろうか。否、こちらに責任はないはずだ。

「だからどういうことだよ」

 彼女の顔は長い髪に隠れて見えない。

「うっ、うぅぅ」

 泣くのとは違うような、苦しむような声だった。

 彼女はカバンを開けると中から何やら取り出した。筒……。

 否、注射器である。




「こんなことやってちゃダメなんだよ」

 彼女は泣いていた。僕は恐ろしくなった。

「わかってるんだ」

 声は震えていた。

「でも止められないのっ」

 僕は止められなかった。

 刺さる。

――「あぁ……」

 恐ろしかった。しかし釘付けになっていた。

 腕には幾つかの赤い跡がついていた。

 立てていた膝を伸ばし、全身の力が抜けるようだった。

 深い呼吸音が聞こえる。


 薄暗く蒸し暑い部屋の中、立っているのが辛くなってきたが、黙って立っている以外の時間の過ごし方が思いつかなかった。

 僕の目の前には長い髪を薄っすらと上下させ、時折声にもならないような声を漏らす一人の少女の姿があった。


 顔を上げてやっと声を出した。

「こういうことなんだよ。助けてって言ったけどべつにいいや」

 何を言って良いものか。思い浮かぶ全ての言葉が、言ってはいけないことのような気がする。

「ごめんね、変なもの見せちゃった」

「いや、どう、するの?」

「ん?どゆこと?」

「あ、いや」

 言葉が出てこない。

「学校は、もう無理かな……」

 笑っていた。この状況でなぜ笑えるんだ、と思うのは僕しかいないのだろう。

「じゃあ、ね」

 適当にカバンに詰め込むとスッと立ち上がってドアを軽々開けた。

「あ、誰にも言わないでね」

 幸せそうな笑顔だった。


 誰にも言わないで……か。

 本来、こういう場合は然るべきところに相談する必要があることを彼女の一言から思い出した。どうしようか。正しい判断をするとなると、詳しくはないが、多分懲役刑にはなることだろう。

 あと、こういうのは金がかかるだろう。実のところ、注射器が出てきた瞬間に金を集られるのではないかとも思ったのだが、そこまで人でなしではなかった。

 彼女はいなくなってしまうのだろうか。

 僕は何もしないでいいのだろうか。


 違う。彼女は僕に『たすけて』と言った。

 『誰にも言わないで』とも言った。

 誰でもないこの僕に。

 僕は必ず彼女を助けなければならないと決心した。


―――ガチャ

「おい」

 誰だ。空の部屋は張り詰めた。憶測が跋扈した。

 怒りに満ちたような声だった。

 その男は僕を詰る。『あいつに何をした』と。大きな正義感と責任感が男の後ろに見えた。

 泣いていたかもしれない。

 全てを話してしまった。

 話すしかなかった。

 

 そいつは僕を殴るようにして部屋から出て行った。

 あまりの無力さに虚しく、僕には何もできないのだと確信した。 その背中に僕は殴られ、立ち上がることはできなかった。


 僕には何もできなかった。

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