3.可能性
「大丈夫かい、宮越くん?」
「すみません。まだ少し気分が悪くて……」
一人の警察官が、俺にそう声をかけてくれる。
背中をさすってくれたが、それでも吐き気は収まる気配がなかった。深呼吸をしても滝のような汗が溢れ出し、動悸は相も変わらず。脳裏に焼き付いたあの光景は消えることなく、嫌というほど鮮明に。
そう考えているとまた、吐き気に襲われた。
「僕みたいな職種の人間は見慣れてるけど、それでも今回の事件は特殊だからね。キミがそうなるのも無理はない」
「はい、ありがとうございます――マサヒコさん」
雑木林から少し離れて、坂の上の公園で。
俺は警察官――奈津子の兄であるマサヒコさんと話していた。本来ならすぐにでも捜査協力するべきなのだけど、少しでも気分を変えた方が良い。
そんな配慮から彼は現場から、見晴らしの良いここへと俺を連れ出してくれた。
長身痩躯で一見頼りない風貌をしているマサヒコさんだが、どうやら警官の中ではそれなりの立場にいるらしい。そして、多少なりとも縁があったことに俺は感謝した。
「いや、いいよ。奈津子も普段からお世話になってるらしいからね」
微笑む彼に、小さく頷くことで応える俺。
お世辞に上手く対応することもできないくらい、こちらの精神は疲弊しているようだった。自覚症状があるだけまだマシだよ、とはマサヒコさん。
それでも、やはり情けなく感じられてしまうのはどうしてだろう。
「…………もう、大丈夫です」
「良いのかい? まだ、時間はあるけれど」
「いえ。これ以上は良くなりそうもないので」
そう思ってしまったから、だろう。
俺はマサヒコさんの優しさを振り切って、そう言った。
すると彼もどこか理解しているのか、承知した上で呑み込むように頷く。そして、ゆっくりと噛み砕くように状況を整理し始めた。
「改めて、今回は災難だったね。美崎市連続怪死事件はこれで合計五件目なんだけど、犯行らしき瞬間に立ち会ったのは宮越くんが初めてなんだ」
「五件目……? ニュースでは、三件って話だったと思うんですけど」
「あぁ、報道規制ってやつさ。これも、本来は話すべきことではないけれど……」
少し考えるような仕草をしてから、マサヒコさんはこう口にする。
「キミには、色々と訊いておきたい。少しだけ分かってることを教えるよ」
周囲に気を配りながら。
きっと、捜査上の禁じ手のようなもの、なのだろう。
それも当然か。一般人である俺に、機密情報を漏らしているのだから。
「現時点で分かっていることは――これが『人間による犯行である』ということ」
「人間、ですか……?」
こちらも覚悟を決めて、相手と向き合った。
しかし、すぐに疑問が首をもたげる。思わずそう言うと、マサヒコさんは顎に手を当てて、考え込むようにこう言うのだ。
「あぁ、そうだ。今回のキミの証言で、初めて遺体が捕食によって損壊されていると判明したわけだけど、それだったらヒグマみたいな動物も考えられる」
「それなのに、人間だって――どうして?」
訊き返すと、一つ頷いて彼は答える。
「綺麗すぎるんだ。どれも『臓器』を残さず、しかもそれだけを食べている」
それを聞いて、俺はまた少し吐き気を覚えた。
でもどうにか堪え、記憶をさかのぼる。
「……たしかに、腕とか脚はそのままだった、気がします」
「そういうことだね。もし動物によるものであれば、そういった肉の部分をいの一番に食べられているだろう」
「………………」
俺は一つ、夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
落ち着こう。冷静に、あの時のことを……。
「ん、でも。それなら俺が見たのはちょっとだけ、雑だったような……?」
そして、そのことに思い至った。
思い出したくもないが、俺が見た遺体の損傷は粗かったのだ。何よりも話と噛み合わないのが、臓器に食べ残しがあったこと。
こちらの言わんとすることを察したのか、マサヒコさんはまた一つ頷く。
「そうだね。そのことから、今回の犯人は焦っていたんだと考えられる。その理由はきっと単純なものだと思うんだ」
「単純な理由……?」
「つまりは、宮越くんは――」
そこで一度、言葉を切るマサヒコさん。
逡巡したようだが、すぐに意を決したようにこう言った。
「犯人に、姿を見られている」――と。
俺の背筋が凍った。
考えたくなかった事実を突き付けられ、冷や汗が噴き出す。
「今回の捜査で、キミに話をしようと思ったのはこれが理由だ。もう一つ考えている可能性はあるけれど、それはあまりにも残酷すぎる」
「………………」
奥歯を噛み、眩暈で倒れそうなのを耐えた。
その上で俺は――。
「いえ、教えてください。その可能性って、やつを」
そう訊いた。
ここまできたら、中途半端は嫌だった。
「………………分かった」
数秒の間を置いて、マサヒコさんは了承してくれる。
そして、その可能性を口にした。
「キミを目撃したのであれば、犯人はその目撃者を殺すはず。そうしなかったのは、まだ憶測の範疇を超えないのだけれど――」
――あぁ、だけど。
直後に俺は少しばかり、後悔するのだった。
「もしかしたら、犯人はキミを殺したくなかった。つまり――『知り合い』の可能性が、あるのかもしれない」
聞かなければ良かったかもしれない、と。
さぁ、物語が動き始めました~。