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深層心理プルガトリオ

 夢の中で、僕は彼女の手を握っていた。

 視認できるのは、彼女の白い手とウェハウスを敷き詰めたような脆い通路。あとは暗くて良くわからない。

 脚を動かすたびに地面はぱきぱきと乾いた音を立てて、その心もとない周波数と辺りの暗さの混合比が、ときどき僕の平衡感覚を狂わせる。だけど、僕の足が縺れそうになると、彼女はまるで母親みたいな親密さで、「大丈夫?」と僕に囁き掛けてくるんだ。そして、僕の手を彼女はそっと優しく握ってくれる。マシュマロみたいな柔らかい手なのに僕を留めるそれは力強かった。

 彼女が一緒にいるなら、きっと僕は大丈夫。

 君と一緒なら、僕は天国にだって行けるさ。

「ねぇ、ナギ」通路が急勾配に差し掛かったとき、彼女は言った。「お願いがあるの、訊いてくれる?」

 僕は脚を止めて後ろを振り向こうとした。だけど、思い留まり僕は自分の靴を見つめる。僕が振り向こうとしたとき、彼女を握り締める手に少しだけ負荷が掛かったからだ。

「お願いって?」僕は彼女に訊き返す。

「地上に出るまで、後ろを振り向かないで欲しいの。お願いだから……、私を見ようとしないで」

「どうして?」

「私が醜いから」

「醜い? 君が?」

「そう。どうしようもなく醜いの、私は」

 僕は彼女に掛ける言葉を探すために口をつぐんだ。

「他の誰にだって嫌われても構わない。でも、ナギにだけは嫌われたくない。そうじゃないと、私が消えてしまいそうで、怖いの」

「わかったよ、約束する。僕は、後ろを振り向かない」

「ありがとう、ナギ」彼女は言った。

「行こう、ナミ」僕は笑顔で応える。彼女には見えないのに、どうしてそんな表情を作れるのか不思議だった。

 ナミ……、そう、僕が手を引いている彼女はナミだ。思い出した。いつも僕たち二人は一緒だった。僕がいないと彼女は生きていけないし、彼女がいないと僕はどうしようもなくなる。言わば、彼女はオオガミ・ナギを定義する重要なマテリアルだ。僕だって彼女を肯定する一部に過ぎない。

 それは身体の半分を失ってしまうのと同じようなもの。

 死んでしまうのと同義だった。

 どうして忘れてしまっていたんだろう……、こんな大切なこと。


 見るなのタブーだよ、そいつは。神話じゃ良くある話しさ。お前もギリシア神話くらい読んだことあるだろう? 冥府に降りたオルフェウスの話し。後ろを振り向かない、そんな簡単なタブーを課せられたにも関わらず、それを破って不幸になった詩人の話さ。確かこの国にも同じような話しがあったな。


 おとぎ話だと思って軽く見ない方が良いな。俺はフロイトは信じないが、お前の見た夢はなにか意味がある筈だ。それだけは……、信じたって良い。


 これで二人目だ。なあ、ナギ。こいつはもう奇跡でも偶然でもない。


 ヨモツヒラサカ……、じゃないのか?


 普遍的無意識。


 ユング。カール・グスタフ・ユングだ。


 なんだこの声は?

 イソラか?

 僕の夢の中にまで立ち入るなんて、なんていけ好かない。

 でも、悪い奴なんかじゃない。

 わかってるさ。

 君は悪い奴なんかじゃなかった。

 僕たちは坂道を駆け降りた。

 もう脚が縺れることはなかった。

 ナミがいるから。

 でも、彼女の体重が感じられないのが僕に焦燥を覚えさせた。

 何度も後ろを振り向きそうになる。

 その度に、僕の右手に軽い圧力。

 坂道はどこまでも続いている。

 地上はどこだ?

 彼女を洗い流してくれる優しい光はどこにいった?

 洗い流す?

 ナミが汚れているというのでも?

 彼女は決して醜くなんかない。

 ナミは僕の一部。

 醜くなんかないさ。

 彼女を見ればそれを証明できる筈。

 そうだろ?

 僕の思考を呼んだのか、ナミの手が握っている僕の手に圧力を加える。彼女の白い手首から先は暗闇に包まれている。手首から先が綺麗にスライスされたような、そんな存在感。もしかしたら、僕は彼女の手首だけを持って、あとはどこかに置き忘れていったのかもしれない。そんな妄想が僕の衝動を急き立てる。

 そうして逡巡している間に、暗闇の向こう側にミルク色の点を視認した。

 地上はもうすぐそこ。

 ナミの体重は相変わらず感じられない。

 ナミの白い手が彼女の存在を定義している、唯一の部品。

 

 見るなのタブーを破った奴に降りかかる不幸は……、別離だよナギ。


 別離だって?

 知ったことを言うなよ、イソラ。

 そんなことじゃ、僕たち二人を引き離せやしない。

 僕とナミはずっと一緒だったんだ。

 なあ、イソラ。

 そいつを、今、証明してやろうか?


 ああ……、わかったよ。


「ナギ。お願い後ろを振り向かないで、お願いだから。お願いします。私をひとりにしないで置いていかないでこんな暗闇に閉じ込めないで私を外に出してお願いですからママお願い私を外に出してひとりにしないで置いていかないで私はナミなんかじゃないナギなのナギ私のナギ私私だけのナギ私のアニムスねえママナギは良い子にしているでしょう?ナギは良い子虫も殺せない優しい子供だから私がナギの代わりをやるのおかしくなんかない私はおかしくなんかない私たちは狂ってなんかいないねえママママお願いだから私を外に出してお願いですから私に振り向いて優しくして」


 私だけをちゃんと見ていて!


 気がつくと僕は後ろを振り向いていた。

 ナミはそこにはいなかった。

 僕の手に握られているのはスライスされた白い手首。

 そして、手首から指先へ横断する苺ジャムみたいな粘性を持った赤い液体。

 ああ、わかっている……そいつは、


 そいつは、

 お前の殺人衝動だ。


 閃光。

 雷鳴。

 轟音。

 衝撃。

 閃光。

 稲妻。

 残像。

 残響。

 終わる世界。

 こうして僕はその夢から醒めた。



「こちらにいらっしゃったのですか……」

 後ろを振り向くと女がいた。

「夢を見ていたんだ」

「夢、ですか?」怪訝そうな表情で女は僕を見る。

「悪い。こちらの話しだ、気にしないで。それよりも、僕になにか用事?」

「彼女、息を吹き返しましたよ」

「そう」

「驚かないのですね」

 僕は女に微笑むだけで、あとはなにも言わなかった。夢を見たから、だなんてそんなこととても言えたものじゃない。彼女だってそんなこと信じられない筈。僕の話を信じるとしたらイソラという同僚くらいなものだろう。

「直ぐに行くよ」

「わかりました」

 女は頭を下げて部屋を出ようとした。

 僕はデスクに座り直してから彼女に声を掛ける。

「イソラ、いや、君のご主人のことは残念だったと思う」

「残念だなんて、そんなこと言わないで下さい。先生は手を尽くしました」

 僕は片手を上げて彼女に応えた。

 ドアをスライドする音。

 椅子に腰を沈めて天井を仰ぐ。

 イソラが運ばれていたとき、僕は夢を見なかった。

 本当に、それは残念なことだったと思う。

 夢さえ見ていれば彼を助けられたのに。

 本当に残念だ。

 デスクにあるラジオを操作した。

 取り立てて特別なニュースは流れていなかった。

 だけど、もう直ぐ剣呑なニュースが流れることになる。

 僕にはそれがわかる。

 なぜなら僕は夢を見たから。

 そう……、

 彼女が誰かを殺して、

 いずれ僕が誰かを生かすことになるだろう。

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