中編
【4】
その翌日。ぼくは相変わらずゾンビをたおしたり、小説を読んだりと、停学ライフを満喫していた。
夜になると月を見るために、ドアをあけてベランダに出た。するとその音を聞いてのか、レイコさんもベランダにでてきてくれた。ベランダは小さな仕切りで区切られていたけれども、少しだけ前に出るとお互いの顔がきちんとみえた。ぼくたちはぺこりと挨拶をし合った。
「何をしてるの?」とレイコさん。
「月をみてるんだ」
「へえ。ロマンチストなのね」
「んーん、そういうわけじゃないんだ。ただ、今日はいくつ月がでてるか、なんとなく気になって。確認するのが日課になってるんだ」
レイコさんはしばらく沈黙して、何かを考えていた。
「……いくつ月がでてるか?」
「そう。今日は月が八個でている。わりと多い日だね。しかも全部横並び。ちょっとだけ珍しい」
レイコさんは無言で月を眺めた。
それからライターでタバコに火をつけて、ため息をつくように、その息を吐き出した。
「あなた目が悪いの? 乱視とか?」
「んーん。目はしっかりしている。そういうのじゃなくってさ。本当に月がたくさん見えるんだ」
「ふうん。変わってるのね」
「多月症っていうんだ」
「知らない。はじめて聞いたわ、そんな病気」
「うん。ぼくが診断して、ぼくが発見して、ぼくが名前をつけた病気だからね」
「なんだそれ」
「病気ってさ。多数決で決めることじゃないと思うんだよね。多数決で押し付けられた病気は、大抵気に入らないんだ」
彼女はそれには返事をせず、何かを考え込んでいるようだった。
彼女は視線を月に戻して、それから月にむかって煙をふきつけた。
「レイコさん、大学はどう? うまくかくれんぼできてる?」
「どうかしら。なかなかうまくいってくれないわね。合コンに誘われたわ。飲み会とかそういうの嫌で、なんのサークルにも入ってないのに。家でぼーっと壁のシミでも眺めてた方が、よっぽど心ときめくわ」
「……君も孤立しちゃえばいいのに」
「わたしはね。目立たないように孤立したいの。あなたみたいに、目立つような孤立の仕方をしたくないの」
「ぼく、やっぱり、目立っているのか」
「わたしはね。自分にふりかかる悪意を最小化したい。ただそれだけなの。その代わり、好意もいらない。わがままなことは何一つ望んでいないはずなのにね。でも、なかなかうまくいかないわ」
「そのために、目立たないメイクをして、目立たない服を着て、目立たないように浮かない程度に友達を作ってるの?」
「ええ、そうよ」
「そういうのってさ。つらくないの?」
「つらいに決まってるでしょ。地獄よ」
その日から、ぼくがベランダに月を眺めにでると、レイコさんも一緒に出てくれるようになった。そして、今のようなとりとめのない話をして、お互いの孤独を交換しあった。孤独は交換し合ったところで少しも軽くなるわけでもなかったけれども、彼女はたまに笑ってくれたし、そのことはとても嬉しかった。
彼女が笑うと、とても幸せな気持ちになれた。
なんでだろう、と小説を読みながら考えていると、彼女のことを好きになってしまったからだということに気がついた。
ぼくは早くこのことをレイコさんに伝えたいと思って、気持ちがわくわくとたかぶった。小説は続きを読むのをやめて、布団に入って寝ることにした。レイコさんが笑うところを想像した。
【5】
翌日の夜。わくわくとしながら、ぼくはベランダに出た。
月は一つしか出ていない。いい感じだ。
しばらくすると、いつものようにレイコさんがベランダに出てきた。
「今日は月はいくつ出てるの?」
「今日はいい感じ。ひとつだよ」
「そう。よかったわね」
「今日はね。レイコさんに伝えたいことがあるんだ」
「へえ。奇遇ね。わたしもよ」
「なんだろう。気になるな」
「んとね。彼氏ができた」
ぼくはびっくりした。孤立を望むレイコさんが、誰かと付き合うところなんて、想像がつかなかったから。ぼくがレイコさんの顔をのぞき込むと、恥ずかしがるように目をそむけた。
「すごいね。レイコさんが付き合いたいと思える人がいるなんて。相手はどんなひと?」
「んー。年上。10個離れてる。社会人。高級車のセールスをしてる人みたい」
「高級車か。かっこいいね。イケメンさんなの?」
「まあまあね。でも外見に惹かれたわけじゃないの」
「中身?」
「中身なのかなあ。なんていうか心に入り込むのがすごくうまい。心の中を見透かされているのかな。ほしい言葉を常にくれる感じ。気がついたらホテルにいて、自分から服脱いで全裸になってた」
「すごい。魅力的なひとなんだね」
「そうなのかなあ。良く分からないんだよね。なんなんだろう、あいつは。得体の知れない引力がある」
「でもまあ、好きな人ができるのは素敵なことだよ。おめでとう」
レイコさんは照れるように微笑んだ。
とても素敵な笑顔だった。
「ありがとう。で、あなたの伝えたいことって何?」
「ああ、それなんだけどね。昨日大変なことに気がついたんだよね」
「大変なこと?」
「レイコさんの笑顔を見ると、ものすごく幸せな気持ちになるんだ。だからね、今もとても幸せな気持ちだよ。つまりね、ぼくはレイコさんのことが、大好きなんだ!」
レイコさんはタバコをくわえながら絶句した。
「えっと。そうか。うん。ありがとう。嬉しいよ、こんな私のことを好いてくれる人がいるなんて」
「んーん。こちらこそありがとうだよ。でも、ごめん。わたしは今の彼氏が好きだから、君とは付き合えないよ。もっと早くに言ってくれたら、考えたかもしれなかったけど」
ぼくはレイコさんが何を言っているのかよくわからなかった。
「え? 付き合う? んーん、そんなお話してないよ。ぼくはレイコさんが好きだって伝えたかっただけだよ。レイコさんはぼくのこと好き?」
「えーと、うん。まあ、好きだよ」
「じゃあ、試しにフランス語で告白してみてよ。フランス語の講義、とってるでしょ?」
「なんだそれ」
苦笑いした。そして「今夜だけ、特別だよ」と咳払いをひとつして、流暢なフランス語で何かを話しはじめた。ぼくはフランス語が分からないので、適当にあいずちをうった。それがどうやら的外れなあいずちだったらしく、レイコさんが爆笑する。
こんなにも下らないことで、涙を流すほど笑ってくれた。
レイコさんがこんなにも笑うのは初めてだった。
きっとそれは、ぼくの話が面白かったからではないのだろうけどさ。
【6】
異変があったのは、復学まで一週間がせまったときのこと。
ぼくがベランダに出ても、レイコさんが出てきてくれなくなってしまった。レイコさんも外出したりするのでベランダに出てこない日ももちろんあったけど、今回はそれが一週間続いていた。
その日もドアを開ける音を少し強めにして、ベランダに出てみた。月は1つだけだ。彼女が来るのをしばらくまったけど、一向にでてくる気配はなくて、寂しい思いをした。
ぼくは彼女を待った。その間何をするでもなく、ぼんやりと月を眺めていた。
すると、驚くべきことが起こり始めた。
月の形が変わり始めたんだ。月は数字の8のように真ん中がくびれていき、最終的にはぷつりと2つに分裂した。分裂した小さい月は次第に成長しもとの大きさにまで戻った。この間、10秒ほど。初めて見る光景だった。
それだけでは終わらなかった。2つに分裂した月は、同じように分裂をはじめ、4つになった。そしてそれらは細胞分裂を繰り返すように、4つが8つ。8つが16つ、16が32……と数を増やしていった。分裂の速度もどんどんと早くなり、最終的には夜空一面にびっしりと水玉模様のように、たくさんの月が埋め尽くしてしまった。
それでもなお、月は増え続けようとしていた。水玉模様の月たちは、すべてぼくに視線を向けて、睨んでいるように感じられた。恐ろしくて震え上がった。足ががくがくと震えて、その場にへたり込んでしまった。
何が起こっているのか分からなかった。でも、直感的にいえることがあった。それは『今、レイコさんの身に、良くないことが起こっている!』ということだった。
ぼくは震えていうことをきかない両足を引っぱたき、なんとか立ちあがった。ドアや壁によりかかりながらなんとか部屋のなかに戻り、戸棚の工具箱からハンマーを取り出した。
そしてもう一度ベランダに出た。隣の部屋とのしきいになっている板を、力一杯蹴り飛ばした。レイコさんの部屋の中を外からみようとしたが、カーテンがかかっていて、中は見えなかった。
ぼくは金槌でドアの鍵付近を壊し、その穴から鍵を開けた。ドアとカーテンを開くと、そこにはがらんどうの部屋で、白い下着だけを身に着けて着て横たわる、レイコさんの姿があった。
【7】
レイコさんは憔悴しきっていた。
ぼくが部屋に入ってきても、一瞥をくれただけだった。
彼女は寝返りをうって、ぼくに背中を向けた。パンツがまるっと見えていたが、彼女は気にするそぶりはしなかった。
「ねえ。カーテンをしめて。月の光が痛いの」
「ごめん」
ぼくは急いでカーテンをしめた。
「どうしたの?」
「ぼくにも分からない。でも何か良くないことが君に起こってるんじゃないかって思って、無理やり部屋に入ってきたの」
「そう……」
「ねえ、何があったの?」
「わたし、子供ができたの」
「それは、おめでとう?」
「おめでたくなんかないわよ。ねえ、そんなことより、わたしはあの月が気に食わないの! なんであんなにたくさんあるの!? 腹が立ってしょうがないわ!」
「……レイコさんにも、たくさんの月が見えるの?」
「最近、見えるようになったの。病院から帰り道で」
「ぼくの多月症がうつっちゃったのかな」
「そうよ。わたし、こんな弱い人間じゃなかったんだから。責任とってよ」
「どうすればいい?」
「カーテンしめても、月の光が漏れて、身体にささるの」
「えっと……しっかり締めてくる?」
レイコさんは背中を向けたまま、首を横にふった。
それからかか細い声をふるわせながら、弱々しくつぶやいた。
ーーーだっこして
ぼくはレイコさんに添い寝するように、後ろから抱きしめた。
彼女は小刻みに震えていた。
ーーー月が怖いの
「大丈夫。ぼくもはじめは怖かったけど、すぐに慣れるよ。ぼくでよければ、ずっとレイコさんのそばにいるよ」
ーーー慣れないわよ、あんなの
ーーーあの月、ぶっこわしてよ。お願いだから、ぶっこわしてきてよ
「そうだね。そうできるといいね。ぼくもこれまで、あの月たちをなんとかできないかって、いろいろ試してきたんだ。叫んでみたり、罵ってみたり。でも全部だめだった。月はぼくがなにをしようと、なにをすまいと、マイペースに増えたり減ったりを繰り返すだけなんだ。今のところ、あの月たちをなんとかする方法が分からないんだ」
ーーー役立たず
「ごめんね。でも約束するよ。ぼくはぜったいにいつか、あの月たちを一つ残らずぶっ壊してみせるよ。本当に。絶対に」
ーーー本当に?
「本当だよ。ぼくはレイコさんに本当のことしか言うつもりはないし、心にもないことは、たったの一文字だって言うつもりはないよ。その場限りの約束なんてするつもりもない。だからきっと大丈夫にするから。だから安心して。どうやったらいいのか全く分からないけれども、それでも必ずそうするって約束するよ」
ーーー分かった。信じてあげる。
「それから明日朝起きたら、一緒にご飯を食べに行こう。それからデートをしよう。吉祥寺にいこう。あひるのボートに乗ろう」
ーーーたのしみ
ぼくはレイコさんを抱きしめたまま眠った。
レイコさんが呼吸をするたび、膨らんだり、しぼんだりするのが分かった。レイコさんって生き物なんだな、とはじめて実感した。よくよく考ええみたら、他人のことを生き物だと実感したのは、この時が生まれてはじめてのことだった。
ぼくはこれから先も、ずっと月の光からレイコさんのことを守ろうと思った。そう誓いながら眠りについた。
しかし目が覚めると、ぼくの両手は何も抱きしめてはいなかった。レイコさんの姿も部屋にはなかった。ぼくは彼女が戻ってくるのを部屋で待っていたけれども、夕方になっても帰ってこなかった。
ぼくは仕方なく自分の部屋に戻った。
それからレイコさんとは、一度も会っていない。
あの日彼女は、引っ越して居なくなってしまったのだろう。
彼女がいなくなると、ぼくは月を見ることができなくなってしまった。月を見ると、彼女とベランダでお話をした楽しい日々を思い出してしまうから。震えながらドアを蹴り破った、あのときの気持ちを思い出してしまうから。
そういったものは月という概念ごと、墓の中に埋めてしまう必要があった。そうしないわけにはいかなかったし、それをすることにすら、とてもとても長い時間がかかった。