軽蔑
鈴木清順氏に捧ぐ。
それからの生活は、堕落を極めた酸っぱさと、それでいて砂を噛むような味気なさの中で過ごした。あの女を失ってからはまさに口中に砂を注ぎ込まれたかのような嫌悪があり、その違和感はしばらく続いた。俺という人間はどうしてこんな性格をしているのだろうかと思い悩みもしたが、そうしたことを考えるのもまた一種の逃避であることに気付いてからは思考の中に逃げ込むような真似はできなくなってしまった。それでいながら一日に何度かはあの女のことを思い出し、そうしてするすると現実から退却していくこともあり、やがて生い茂った雑草の他に何もないという草原へ辿り着くところまで行って、そこから引き返してくるというようなことを繰り返した。
あの草原は一種の原風景とでも言うべきところなのだろうか。そうしたものが持てることは一般的には幸福なことだと言えるのかもしれないが、俺にとってはどうしようもないくらいに何もないところで、その先に何かがあるかもしれないという予感を覚えながらも、進むことをせずにただ引き下がるばかりだった。草原にしてみれば俺の敵意は一種の八つ当たりに過ぎないのだろうが、そうした心の中の風景を擬人化してしまうような思考というのは、流石に苦笑せざるを得なかった。そんな癖がついてしまったのは、俺がどうしようもなく他人を憎んでいるのと同時にどうしようもなく他人を愛していることからくるのだろう。少なくとも俺はそう思っている。
あの女と出会ったのは随分と昔になるが、より親密な関係になったのはお互いに三十代を越えたばかりの頃だった。そのくらいの年齢になると、様々な経験を経たことによる充実感の反面で倦怠感が忍び寄ってくるもので、特に恋愛事になると一連の儀礼的な駆け引きというものを取っ払って行き着くところまで行くのだが、しかしそれを恋愛事と呼ぶのは不適当かもしれない。食事をするように、また睡眠をとるように、あの女を腕の中に収めたことを覚えている。それを恥じるような年齢でもなくなったというのに、何度そうした経験を重ねても虚無感というのは一向に立ち消えていくことはなく、俺は一体いつまでこんな虚しさを感じなければならないのだろうと思いながらも、やはり何度も同じことを繰り返さずにはいられなかった。
五年ばかりの関係を続けて分かったのは、そうした虚しさを抱えるのは男ばかりではなく女も同じだという当たり前のことで、俺はこの人生で何度もそのようなことを体験してきた。つまり、当たり前のように知っていることを頭でようやく理解するといったことを。そうした意味ではあの女との時間は無意味ではなかったし、他愛ないことで笑いあったりお互いの感情を共有し合うという平凡な楽しみも味わった。
しかしそこには、どうしても拭い去ることのできない感情が伴っていた。それは、憎しみだった。
いや、別の言葉で表すならば軽蔑かもしれない。その方がより正確に俺の心理的状態を表しているように思える。しかし、やはりあの女に対しては憎悪を抱いていたのだろう。深い関係を結んだ相手に対しては憎悪を、より一般的な他人に対しては軽蔑を、それぞれ抱いているのが俺という人間なのだ。そうした事情を理解したある瞬間からは、俺は軽蔑を抱ける人間以外を周りに寄せ付けなくした。そうして歳を経た末に必然的に生まれた孤独は、俺という人間の心理的荒廃を表しているだろうか?
いずれにしても、俺は孤独な人間だった。
あの女と別れたのは、ある五月のことだった。五月に別れるなんて小洒落た真似をしたのはわざとでも何でもなく、破綻が五月に降ってきたというだけのことだ。それを破綻と呼ぶのと、そして降ってきたという言い方をするのとが、相応しいことであるかは別として。あの女との間に子供はできなかったので、弁当箱にでも収まりそうなお互いの資産だけを持って家を引き払い、それからは築十何年かのマンションに暮らしている。
あの女。俺はあの女と呼ぶ。その呼び方をどう捉えるかが問題かもしれない。言っておくが、俺は便宜的にあの女と呼んでいるだけのことであって、そこに嫌悪や憎悪などは存在しない。あえて言うなら、軽蔑は含まれているかもしれない。しかしそれも人並みの感情であって、例えば近しい間柄になった他人との間に生まれるささやかな諍いの域を出ない。人付き合いにおいて相手を尊敬し合えるというのは、想像以上に難しいことなのだ。
俺は人生講釈をしたいわけではないので、話を進める。五月に妻と別れた俺は、それからつい買い過ぎた果物を消化するのに困り果てたり、忍び寄る台風に備えたり、そうしたことをしているうちにいつの間にやら九月を迎えた。時代の流れは少しずつ早まっていくようで、そうでなければその数ヶ月の時間の経ち方を説明できない。物悲しい季節だ、秋というものは。その物悲しさは気温の低下や日照時間の短縮に伴って強まっていくようで、そして同時に時の流れものんびりとしていくように感じられた。重いものほど、運動は遅いものだ。
孤独か、孤立か。いずれにしても俺はそうした感情の只中にいて、一人の生活というものを満喫することもできずに、ただ一人のベッドが広く感じられた。別れるよりもずっと前から妻とは同衾していなかったのに、そんな気分が這い寄ってくるのは何故なのだろうか。一人で暮らすには少し広すぎたマンションの一室が、そんな気分をもたらすのかもしれない。一つを居間にして一つを寝室にし、もう一つを物置にした。書斎なり趣味の部屋なりを設けなかったのは、俺にそうした嗜好品の楽しみを知らなかったせいでもあるし、若い頃のような物欲からは解放されたせいでもある。物置には主に季節の外れた衣類を置いて、何が入っているのかすら覚えていない段ボール箱を重ねていたりしたが、その中身は結婚していた頃に使っていた何かを入れていたのだろう。それを確かめる気力すらなかった。必要に迫られて物置を片付けなければならなくなったときにも、もう中身も確かめずに処分してしまった。後々の話だが、どこから湧いてきたものやら知れない知識欲が、この世界の一角を占めていたその中身を知ることはもう二度とできないなどと、そんなことをささやいてきたりした。それでも焼かれるなり潰されるなりしたそれらの物品に対する後悔を持ち合わせているほど、俺の感受性は繊細にできてはいなかった。
さて、新しくやって来た九月はどこかの九月の再生で、着るものも食べるものを家の中の装いも、何周目かの秋を迎えたかのように変わり映えがしなかった。実際には大きく環境が変化したのだが、暮らす場所が変わっても市外や県外へ出たわけではなく、俺にとっては交通の便が良いか悪いかというくらいの関心しかなかった。着るものは次第に世代交代をしていくかもしれないが、職が変わったわけではないので生活レベルが大きく変動するわけではないから、食事に影響が出るはずもなかった。政府による富の再分配が適切に行われていくのであれば、俺の食事も隣近所の食事も、彼方の都道府県の見知らぬ誰かの食事も、きっと似通ったものになるだろう。
再生するのは季節だけではなく、生きる欲もそうだった。食事の話をしたが、それは自然に性の話へと通じる。女を誘い、ホテルで欲を満たすことも少なくはなかった。とは言っても離婚したばかりのたった数ヶ月の間のことだから、そんな経験も片手で足りるくらいのことだった。ただ、ここで重要なのは回数の問題ではない。その行為を行う場所だ。俺はどんな女を誘うにしても、必ず慎ましやかな新居へ連れ込むことはしなかった。それは俺なりの潔癖なのだろうか、何がその心理を生むのかは分からないが、推測するに自分の空間へ入ってこられるのがどうしようもなく嫌なのだ。それはどうして離婚をしたのかということにも通じるのだろうと思う。身勝手な話だが、それが、それこそが俺という人間の根幹なのだ。だから憎悪をしない代わりに軽蔑をするのだ。
俺という人間の根幹としての軽蔑。それだけを分かってもらえたなら、もうここで語ることはない。長話が過ぎたが、そろそろ物語を進めていこう。
弓子、つまり俺があの女と呼ぶ元妻と再会したのは、九月の終わり頃のことだった。俺が暮らす地域にはいくつかのスーパーマーケットがあり、その中の一つで偶然に再会したのだ。決して広くはない街だから、いつかそのようなことが起こったとしても不思議ではないが、俺の心にちょっとした変化を加えたのは、彼女の身のこなしだった。俺と暮らしていた時分には持っていなかったはずのクリーム色のシャツに、以前よりも丈の短くなったように感じられるスカート。その装いこそまさにちょっとした変化だったのだが、そこに男の気配を読み取ることは容易だった。
執着心のないはずの俺の心が銅鑼を打ち鳴らし始めたまさにその瞬間、弓子と目が合った。一秒、二秒。その一瞬の間に、俺がその瞳の中にはもう映ってはいないし、映ることはないだろうというのが分かってしまった。それで、お互いに何も知らぬ素振りですれ違った。買い物かごの中を見る間もなかった。買い物を終えて車で十五分のところにある家に帰った頃には、気紛れで手に取ったアイスクリームがどろどろの液体になってしまっていた。
それからちょうど一週間後の水曜日、たまたま食材が切れていたので仕事帰りの前回と同じくらいの時間帯に買い物へ行った。同じスーパーだ。弓子は、いた。今度は彼女の方は俺の姿に気付いていなかったので、果物を品定めする弓子の後ろを通り過ぎたときにかごの中をちらりと見た。納豆と牛乳、魚に牛肉。一人で食べるには多過ぎるように思えたし、日保ちのしないものばかりだった。俺は、ほぼ確信した。
次に弓子を見かけたのはそれから二週間後の水曜日で、そのときにはもう弓子と出くわす覚悟で出かけていたものだから、弓子が突然話しかけてきたときに心臓を口から吐き出すような羽目にならずに済んだ。
「久しぶりね」
この前も目が合ったじゃないかと思いつつ、そうしたわざとらしさが彼女の好ましくないところだったと思いだした。もちろんそんなことは口に出さずに、俺の方も挨拶をし返した。
「どこかでコーヒーでも飲まない?」
お前、久しぶりに会ったはずの元夫と気軽にコーヒーを、蚊を殺すときのようなさりげなさで飲めるような女だったのか、なんてそんなこともやはり言えないし、そもそも断る理由もないから俺は承諾した。お互いに自分の買い物を済ませて、じゃあ行きましょうかと俺の車に乗り込んできたのにはさすがに驚いた。
「自分の車は?」
「そんなもの、あるわけないでしょう」
「家まで送れば良いのか?」
「家の場所なんて知られたくない」
「喫茶店でも行くか?」
「買ったものが傷んでしまうから」
「じゃ、じゃあ……」
「あなたの家に行きましょう」
そうして気付いたときには押し売り強盗のように家の中に入り込んできていたのだが、家の中の様子から俺に特定の女のいないことを見抜くと、どこか呆れたような様子でコーヒーをさらさらと飲んでしまった。
「ああ、美味しかった」
「即席のものなんて好まなかったじゃないか」
「いやね、即席のものなんて。インスタントと言ってちょうだい。それに他人の作ったものは美味しく丁寧に頂く、それが私の流儀です」
「そう、……そうか」
思えば俺は、弓子のことをたいして知らなかった。弓子が自分のことをあまり話したがらなかったというよりも、俺の方が饒舌に過ぎたのだ。明け透けと言えば聞こえは良いが、要は節操が無いのだ。思いついたことを思いついたままに、どこまでも話してしまう。そうした具合だから深く掘り下げるというよりも大風呂敷を広げるような調子で話を進めてしまい、とうとう何が言いたかったのか分からないままに終わってしまう。昔からそんな調子で、学校で作文などを書かされるときなどには大いに驚かれたものだった。親に代筆させたんじゃないかと思われるくらいに考えがしっかりしていて、普段の浅薄な俺には似合わないことだなどと言って。馬鹿野郎、俺だってそのくらいのことは考えるさ、というくらいには自明のことを書いたつもりで――ああ、こんな調子でいつも話してしまうのだ。
「いつも上の空で、何かを見ているのだけれど何も掴めずに終わってしまう、それがあなたという人なのね」
俺が黙っているのは思考に潜っているときだ。ちょうど目の焦点が現実に戻ってきたそのときに、弓子は話し始めていた。
「それが憎いか」
「憎くはないけれど、軽蔑はするかもしれない。ちょうどあなたが人に愛憎を抱かないのと同じように」
「愛憎が、愛がないと知っていたならどうして俺と結婚なんかしたんだ」
「それに気付いたのは結婚した後だったから。結婚という枷をはめてしまえば、あなたは変わるかもしれないと思った。でもどんなに逢瀬を重ねようとしても、あなたとはすれ違うばかりで」
「それで結局、子供もできなかったな」
「あなたの実家は随分と酷かったわね。子供ができない原因を私にばかり求めて」
雲行きが怪しくなり始めている。そう気付いたときには、もう機首を変える間もなかった。
「私だって子供が欲しかった。でも過ぎたことを悔やんでも、仕方がないと今では思える。新しい人生を始めるときがきたのかもしれないわね」
「……」
「今日あなたとお話して、ようやく分かった。あなたはやっぱり、人を愛せない人なのね。私も愛憎というものから解脱して、あなたを恨んだり憎んだりするのはやめにします」
「弓子……」
「私ね、あなたのこと、軽蔑したわ」
弓子はそれだけ言ってしまうと静かに頭を下げ、もう俺のことなんて見もせずに部屋から出て行ってしまった。
残された静寂には、塩っぽいような痛みがあった。
冬がやって来て、それから秋が来た。親戚の秋穂が我が家に越してきたのだ。
秋穂は地元の大学に通っていたのが何らかの理由で退学し、しばらく実家に閉じこもっていたらしい。それが俄かに俺のところへ越してくることになった理由は知らされなかったが、親戚筋でもあまり評判の良くない俺のところへ来たのだから、何かしらの諍いがあったのだろうと思う。それでも二十才の秋穂とは一回り以上も年齢が離れているから、流石に間違いはないだろうという常識的な判断もあったのではないか。
以上が、ほとんど荷物も持たずに越してきた秋穂に対する俺の見方だった。彼女には物置として使っている部屋を使ってもらうことにし、物置を占領していたあれこれの物は、先日の弓子との件もあってほとんど処分することにした。それでもためらいがあったことは認めざるを得ないところで、秋穂の新生活の初日は物置部屋の掃除に費やされた。
「ああ、美味しい」
いつかの弓子が座っていたのと同じところで、同じような言葉を吐いた秋穂が手にしているのは、インスタントコーヒーとは似ても似つかぬ日本酒だった。嗜む程度にしか飲まない俺の酒を、注いだそばから呑み干していくものだから面白くて面白くて、つい二杯、それ三杯、まだまだ四杯とどんどん呑ませてしまった。気付いたときには秋穂の頬が日を浴びた稲穂のように染まっていて、頭は実ってきた穂先のように垂れ下がっていた。秋穂、秋穂と呼びかけても返答はなく、私ってお酒に強いんですよという言葉を信じてしまった俺と、空きっ腹に酒を注ぎ込ませてしまった俺を詰りながら、救急車を呼んだ方が良いんじゃないかと電話に手を伸ばした俺だったが、ちょうど背中に寄りかかる形で秋穂の身体が崩れてきた。
体勢を変えさせて何とか膝の上に頭を乗せる形までもっていったのだが、そのずっしりとした重みと髪の色香に久しぶりの感覚をむくむくと刺激させられ、つい唇に添えた指を弱く噛まれたときからもう終着地点を見据えていて、身体を開けさせたときの微かな汗の匂いに却って湿った感じを思い起こさせられた。黒々とした体毛を感じながら未だ発達をし終えていない肉体を腕に収めんとする正に谷間の地点で、束の間の理性が復活した。俺は愛してもいないこの娘をどうして抱かねばならないのかと自問し、自分の思考に潜ることで何とか理性を保とうとしたのだが、結局は小中学校で作文を褒められた程度の思考力に欲求を押しとどめる力はなく、遂に全てを終えてしまった。
どうしようもない脱力感の中で俺は再度復活した理性を使って後始末を済ませ、秋穂を新しい寝床に寝かせつけて自分もまた自室で身を横たえた。寝具の中にこもった俺自身の臭いに混じって若人の甘い香りが広がっていくのを感じながら、その晩は風呂に入ることもせずに眠り込んでしまった。
夢の中で、俺はあの草原に来ていた。見知ったばかりの少女を抱いてしまっただらしのない男としての、それでいて少女を抱き果せた男としての自負があり、しばらくはしゃがみこんで風の渡っていく様を眺めていた。夢と分かっていながら夢とは分からず、どこかで帰らなければならないのだという意識がありながら、しかしその兆しは一向に現れそうになかった。全ては自分の意志次第、ということなのだろう。
俺は決意して雑草をかき分け、その先に秋穂の姿がないかと見渡してみたが、やはりそこに人の姿はない。もっと奥へ、もっと奥へ行ってみようかという欲求は、これまでになく強まっている。しかしそこに秋穂の姿があるはずはなく、それはほとんど強引に抱いてしまった女に愛情を求めているのと同じことで、ではそこに誰の姿があり得るかということを考えると弓子の顔が脳裏に浮かぶくらいに、俺は軽薄なのだった。別に絶望などしてはいない。だが、どうしようもない空白が心の中にわだかまっているのだ。
俺は足を止めた。この先に弓子の姿が現れることはきっとないだろう。であれば、秋穂に賭けるしかないのではないか? 俺はこの先で誰かに、会いたいと願っているのだ。そのことを強く感じたのはこれが初めてだった。
帰ろう。
今は帰って、秋穂をここへ誘おう。そうすればきっと、俺はこの先へ進むことができる。そうすればきっと、俺は、俺は……。
俺はこの先で何を求めているのだ?
翌日、俺が目を覚ましたのは昼近くになってからのことだった。台所の方で何か人の動く気配がしたので物憂げに感じながらも、どこか異様な雰囲気を感じ取ったので渋々ながらも姿を現すことにした。
「あら、おはよう」
そこにいたのは、弓子だった。弓子はそれだけ言うと俺には目もくれずに、隣の秋穂に料理のあれこれを指南していた。
どうしてここに弓子が、こんなときに弓子がいるのか。
呆気にとられた俺の脇を通って時間は間違いなく流れ続けているのだが、流石にこのような時間の流れ方は残酷だと思わずにはいられず、それでいて例の思考力が働いて真に可哀想なのは秋穂ではないかと俺自身の声で囁いてくるのだった。
食欲はなかったが、弓子と秋穂を前にして逃げるわけにもいかず、三人で食卓を囲んだ。こういうときに味はしないと言うものだが、俺の場合は間違いなく味を感じて、それが却って情報の奔流となって襲ってくるのだった。途中で弓子が席を立ち、俺と秋穂が向かい合う形で沈黙の訪れるときがあった。俺は目を合わせることもできずに、ただ秋穂の体毛に触れたときの心の動きを思い出していたのだが、秋穂はぽつりと、
「大丈夫です。私はそんなに弱い人間じゃありませんから」
と呟いたのだった。
それは正に、俺に対する死刑宣告と同じことだった。
俺を取り巻く環境は大きく変わったけれども、いつも変わらずそこに存在するものは、あの草原だけだった。
時折、野鳥の鳴き声が聞こえてきて、それ以外には草の上を駆ける風の足音や雲の流れの音とも言えぬ音くらいのもので、その中で俺が雑草を踏みつけながら歩く音は正に異音としか言えない。草原の半ばくらいのところに腰掛けるにはちょうど良い大きさの石があり、そこでしばらく森の中にできたこの空白の空を見上げ、色々な音に聞き入っていた。
やはりどこまで行っても、いつまで待っていても、人の来る気配はない。先へ進もうとする俺の背中を押してくれる者もない。
ふと、足の甲を這う何かがあった。一組のカマキリたちだった。俺は静かにカマキリを地面に戻すよう誘導すると、しばらくその様子を眺め、それから目を離して再び空を見上げていた。番うこともできずにここまで来てしまった俺への、何かしらのメッセージだったのかもしれない。そんなことを思いながらどれくらい時間が経ったかは知れないが、ふと先程のカマキリに目を向けた。
上半身をもぎ取られたカマキリの死骸が、未だ死んだことにも気付かないのか、僅かにひくひくと動いていた。幼い頃は透徹しているカマキリも大人になってみれば若草を孕んだような鈍さになるものだが、その断面に目をやると身体の芯は緑色の琥珀のような輝きを保っていた。
ああ、そうか、そういうことだったのか。俺は一人で合点をすると、立ち上がって尻を払い、草原の向こう側へ行く決心を固めた。
浪漫三部作トリビュート作品。