異世界に行こうとしたら死神を召喚してしまった話
ぼろぼろになった黒色のローブが、私の目の前でゆらゆらと揺れた。部屋の中には風はない。それでもローブは絶え間なく風を受けているように揺れ動くのだった。
「貴女が私を呼んだのかなっ?」
少女は鋭い刃を持つ大鎌を難なく担いで、にこっと笑った。その微笑みは、世の中のありとあらゆる不安や恐怖を全部溶かし尽くしてしまうような、そんな笑顔だった。
「……呼んだつもりはないんですが」
私はふわふわと宙を浮遊する少女を見上げながら、消え入りそうな声で言った。何か失言の一つでもこぼしてしまえば、簡単に殺されてしまいそうだった。
手元の魔方陣が書いてある小さな紙切れに視線を落とす。切れかけのボールペンで描かれた魔方陣は、子供騙しみたいなちゃちなものだった。
「ええ? だって私、呼ばれないとこんなところに来れないよ」
少女は困った訳でもなさそうに笑顔のまま言った。「人間界なんて」
「はい……すみません」
「えー! 謝られても困るー」
少女が顔を傾ける。大きな鎌が少女の動きに合わせて動く。刃先が少し動くたび、私は心臓がぎゅっと握られたような、強い恐怖感に襲われた。
「……すみません」
私は床に頭をつけたまま動かなかった。生まれて初めての土下座は、死神に対してだった。我ながら滅茶苦茶すぎる。頭の後ろの方がずきんずきんと痛んで、これは多分、夢ではないなと絶望的な気分になった。
まさか死神が来るなんて思ってもみなかった。異世界に行く為のおまじないを少し試してみただけだというのに。
「どうしようかなぁ。あ、人間界観光でもして時間潰そうかなっ! ねぇ、この街案内してよ」
死神が私の肩をぽんぽんと叩いてきた。私はその急な出来事に驚き、飛跳ねそうになった。
只今午前二時過ぎ。この死神はどこでどう時間を潰そうというのか。コンビニと二十四時間営業のスーパーくらいしかやっていないぞ。
「……いいですね。行きましょう」
私は顔をあげてひきつった顔で頷いた。死神は満面の笑みを浮かべて「さあ行こう!」と窓から出ていった。ここは二階だ。私も窓から出るなんてことはできるはずも無く、お母さんやお父さんを起こさぬよう、細心の注意を払って静かに階段を降りて家からでた。
「どこか行きたいところあります?」
隣でふよふよと宙を漂う死神にそう話しかけると、死神は「楽しそうな所ならどこでも!」と言った。そういうのが一番困るんだよなぁと悩む。何となく歩き続けて、ついたのは神社だった。夜の神社は当然だが人がいない。切れかかった街灯がちかちかと道を照らす。まるで肝試しでもしているかの様だ。
「ここ、神社っていうんですよ。何かご利益があるかもしれませんし、お祈りでもしていきましょう」
そう言いながら、死神にご利益とかお祈りとか関係あるのだろうかと疑問に思ったが、死神は目をきらきらと輝かせて「へぇー‼」と感嘆の声を上げていたので、私はほっと胸をなで下ろした。
「二礼二拍手一礼をするんですよ」
私がやって見せると、死神も私に倣うようにして二礼二拍手一礼をした。ぱんぱん、と静かな夜の神社に手を叩く音が響く。
「良いことあるといいなっ!」
死神は無邪気に笑った。その姿はまるで、純粋無垢な幼い少女のようで、私は時々この子は死神ではないのではと思ったが、少女の持つ大鎌が目に入ると、そんな気持ちもすっとかき消された。
私達は夜の暗い街を歩いた。ここは田舎なので、夜は本当に静かだった。私は通り過ぎる家々を流し見ながら、きっと今の時間は皆寝ているんだろうなぁと思った。
死神はただ街を見るだけで楽しそうだった。死神の嬉しそうな横顔を見て、喜んでくれているのなら何よりだとふっと嬉しくなっていた時だった。私は何者かに手をつかまれて、地面に倒れ込んだ。驚いて顔を上げると、そこにはマスクとサングラスで顔を隠した大男がいた。大男は手に釘バットを持っていて、私は恐怖で身体が固まって動けなかった。
「どうしたの⁉ 大丈夫?」
死神が驚いてこちらに寄ってくる。どうやらこの大男には死神の姿は見えていない様だ。大男は躊躇する事無く私にバットを振り下ろした。私は本能的に目を瞑った。世界が真っ黒い壁で囲まれたようだった。バットが風を切る音がした。
「危ない‼」
死神の声が聞こえた。「うわっ」男が驚きで声を上げる。恐る恐る目を開くと、そこにいたはずの大男がいなくなっていた。本当に瞬間的な出来事だった。私は目の前の状況を飲み込めず、目を見開いた。
「人間界も大変だねっ!」
死神が鎌を持ち直しながら笑った。その笑顔は初めて見た時と変わらない、陰りのない明るいものだった。
「……助けてくれて、ありがとうございます」
「いえいえ、困った時はお互いさまー」
私は立ち上がって、手についた砂を払った。死神が思い出したように「お腹空いたー」と言い出した。
「コンビニでアイスでも買いますか?」
「わーい!」
私と死神は再び夜の街を歩き出した。気持ちの良い夜風が私の頬を撫でた。