紫紺
液状化したリナリアと周囲の砂浜が、とぐろを巻くようにして舞い上がっていく。砂浜に生じた無数の球状のへこみが、そこにあったはずの砂粒たちが液状化してリナリアだったそれに溶けていく事象の裏付けとなっている。将太は、眼前で繰り広げられる圧倒的な現実に愕然としながら、しかしどこかで期待を抱きながらその変化を見守った。
やがて、どろどろだったそれらは集まり、凝固し、何らかのカタチを作り出していく。―――それは、まるで眼前の怪物を討ち滅ぼさんとする巨人のシルエットであった。
「巨人――――?」
そしてリナリアが液状化してから数秒の時を経て、変化が終わる。先程までリナリアが立っていたその場所には、十メートル程の巨人が静かに佇んでいた。
紫色の体色、筋肉質ながらも女性的な細身のライン、白くきらめくまなざし……。どこか精錬な雰囲気すらも漂わせているそれらは確かに異形のモノではあるが、一方でどこかリナリアの面影を彷彿とさせる立ち姿でもあった。
「リナリア、なのか―――!?」
半ば確信に近いその想いを、こらえきれずに吐き出す。すると、将太のその声に反応するかのように、紫の巨人は眼前の怪獣に踊りかかっていった。
紫紺の巨人に比肩して、怪物の体高はおよそ三倍の三十メートルほど。しかも全長や幅なども考慮に入れると、巨人に比べて遥かに大きい。周囲の砂粒の質量を吸収して巨大化したとはいえ、相手は橋を一本まるごと、そして湾内の生物全てを平らげているのだ。この差はとうてい、埋まるものではない。
しかし圧倒的な質量差のあるこの対戦相手に対し、巨人は一切怯んだ様子を見せなかった。飛びかかりざまの蹴りや、そこからつなげる形で繰り出す手刀は、むしろ図体ばかりが大きくなった怪獣の身体に稲妻の如き鋭さで突き刺さり、容赦なく体表を覆う鱗を薙ぎ払っていく。大きさの差は技巧で埋めるという巨人の戦術に、将太は防波堤の裏から観戦しながらしみじみと感心していた。
だが、巨大な魚の化け物は、巨人に対抗すべくその体組織を瞬時に変形させた。
「なッ―――触手!? まずい、リナリアァッ!!」
四本足の魚の背中から、まるでタコやイカの足のような触手がぬらぬらと光沢を放ちながら次々と生えてくる。巨人の四肢を絡め取り、身動きが取れなくなったところであの巨大な顎で噛み付くために違いない。
『ッ――――!』
声ともとれぬ独特の呻き声をあげて、巨人が素早く後方へとステップする。吹き荒れる砂塵と破損する周辺の構造物の破片が、遠く離れた場所にいるはずの将太に危機感を抱かせるほどの規模で舞い上がるが、それでも将太は怯まない。……とはいえ、それは彼が勇敢だからではない。既に限界近くまで恐怖しきっているのだから、これ以上怖がりようがないのである。
『――――――――ッ!!!』
掛け声にも聞こえる巨人の咆哮が大気を震わせる。直後、凄まじい地響きが大地を揺るがし、将太の視界は猛烈な砂嵐に覆われた。
「ううぁあぁぁあああッ!?」
衝撃波に晒されてまともに立っていられず、まるで木の葉のように転げまわる。吹き荒れる砂とつぶてから守ろうと顔を覆うが、数十メートル級の巨大生物同士の戦いの余波を、そんな脆弱な防御で遮断できるはずもない。これ以上の観戦は不可能と判断し、将太はたまらず防波堤の影に飛び込み、そのままぐったりと身を横たえた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ…………」
この世のものとは思えぬ巨大な地響きや、重く湿った重低音が防波堤ごしにびりびりと伝わってくる。
―――あれに比べて、自分の鼓動のなんと小さいことか。
特別なものなど何も持ち得ない自身の矮小さが、どうしようもない口惜しさとなって肌を粟立たせる。昨日までの自分が夢見ていた“特別”な世界がもたらした恐怖と絶望。想像を遥かに超えた悪夢を前に、将太はただひたすら震えるしかなかった。
※※※※
「なんだ、アレは………!?」
突如海浜に現れた巨大生物と、それと格闘する紫紺の巨人。無線越しの怒号が飛び交う中、雅史は増援の警官を待ちながら2体の化け物の戦いを見守っていた。
「怪獣映画じゃあこういう場合、俺らじゃなくって自衛隊が出てくるもんですけどね」
半ば現実逃避気味な不満を零しながら、虚ろな瞳で同僚の若手刑事が言葉をかけてくる。雅史もまた現実感の喪失ゆえか、ぼんやりとした表情で曖昧に相槌を打った。
怪物よりもふたまわり以上小さな体で戦う巨人は、遠目でもわかるほど機敏な挙動と鋭い攻撃でなんとか渡り合っている。だが怪物の方は、全身のいたるところから次々と触手を伸ばし、紫紺の肢体を捕らえようと蠢かせるだけだ。両者の戦いは一見すると拮抗しているようだが、その実、怪物は未だ本気で巨人を倒そうとはしていない。むしろ、なるべく無傷で巨人を捕らえようとしているようにさえ伺える。
「ありゃ、マズイな…………。このままいくと巨人が負ける」