始動
「お帰り将太くん。早速だけど、これから出かけるから。支度して頂戴」
帰ってきて早々、かけられた言葉がそれだった。
「あー。リナリア? その、俺も今学校から帰ってきたばっかりなんだけど……」
「それは分かってるわよ。なぁに~? お姉ちゃんの言うことが聞けないの?」
一応の抵抗を試みるが、返ってきたのは謎のお姉ちゃん理論のゴリ押しである。理論性皆無な義姉の態度に、将太は思わず頭を抱えた。
「できれば、何をしに出かけるのかくらいの説明が欲しいのだけれど……」
「あ、そういえば、昨夜は『おいおい教える』って言っただけなんだったっけ」
ふむふむと一人顎に指を当てながら自己完結するリナリア。
「………はぁ」
なかなか成立しない会話に異種族間の意思疎通の困難さを感じつつ、将太はため息をついてどかっと玄関に腰掛けた。
「…………」
ふと、彼女をちゃんと見たことがなかったような気がした。
「む………」
「?」
彼女との邂逅は、きっと自分にとって忘れられない出会いになることは間違いないだろう。一晩明けてやっと自覚じたこの出会いの貴重さを噛み締めると、将太は改めて、宇宙人を名乗る義姉を観察することにした。
――――唯のような少女のそれとは異なる、女性として成熟した美貌。とは言っても本人の挙動や言動はまるで幼い少女のようだ。もちろんそれが天然ではなく、そういう風に演じているだけ、ということは将太もなんとなく分かってはいた。
「なぁに~? じろじろ見て~。将太くんったら、お姉ちゃんに欲情してるの?」
「んなわけないだろ。童貞でもあるまいし」
グダグダ会話していてもラチがあかない。第一、これ以上会話を引き伸ばしても出かけるモチベーションが下がる一方である。
「………じゃあ、そろそろ行きますか」
「あら、心変わり?」
「じゃなくて。さっきはモチベが上がらなかったってだけ」
「なぁんだ」
「ちゃんと約束したからな。あんたの目的が地球侵略だろうが、俺はあんたの力になるって」
「えへへ、律儀だ」
「約束した以上、守るのは当然だろ?」
格好つけた声色でそれらしいセリフを吐きながら、渾身のキメ顔を炸裂させる。リナリアも思わず苦笑いを浮かべたが、将太はご満悦といった表情ですっくと立ち上がった。
「……で、具体的にはどこへ、何をしに行くんだ?」
引き続きのキメ顔で将太が尋ねる。
………そんな彼が哀れに思えたのか、リナリアは一瞬哀れみを込めた表情を見せたあと、彼に勝るとも劣らぬキメ顔とキメポーズを作って、外出の趣旨を伝えた。
「――――衣浦湾で、怪獣退治よ」
「…………」
「……………」
「……………あの」
「何かしら」
「マジで?」
「マジよ」
「…………マジか」
「ふふん」
上半身と下半身の軸をずらした彫刻の如きポージングを披露するリナリアの言葉に、思わず聞き返す。しかしリナリアはといえば、ポーズをとりつつ意味深げなキメ顔を浮かべるばかりであった。
………恐らく意味などあるまい。
※※※※
「モコさん、音響測定の結果、アレ本当っすか?」
「ああ。ゴミだらけだったあの衣浦湾が、今じゃビニール袋ひとつありゃしねぇ」
暮れなずむ夕日を背に、制服の男たちが調査を続ける。その中に、深酷そうな顔を浮かべる吾亦紅雅史の姿があった。
―――今回、海底調査のために用いられた手法は音響測定だった。これは、船から発信された音波が海底で反射されて戻ってくるまでの時間を測定することにより測定するシステムで、かなり精巧な海底の状況を調べることが可能だ。
―――だが、返ってきた結果は、雅史をはじめ、誰もが予想すらし得なかった結果であった。
橋はどこにもなく、ゴミすらどこにもなく……そして魚影の一つも、観測できなかったのである。
「あんなに汚かった衣浦湾が、随分綺麗になっちまいましたね……モコさん?」
「…………ああ」
「子供の頃に見たアニメじゃ大仏を盗んだ泥棒がいたけれど、こいつぁそれ以上っすよ。俺たちは誰と戦ってるんすかねえ……」
後輩の弱音などどこ吹く風か、雅史はジッと佇んで動かない。その目はどこか、見えない何かを見ようとしているかのようだった。
※※※※
消えた橋を人目拝もうと港に詰め寄せていた野次馬の群れが、日暮れとともにさっと引いていく。中には未だに残って携帯やカメラを構える者もいたが、夕飯時ということもあってそれらもすぐに去っていった。
そして日が沈みきり、紺色の空がやがて漆黒に閉ざされていこうとしていく中、誰もいなくなった浜辺に二人の男女が現れた。果たして、振村将太とリナリアである。
「な…………!? 衣浦大橋が、消えてる………!?」
日中、学校に行っていたせいで知らなかっただけに衝撃は大きかった。
「それだけじゃないわ。ほら、海が綺麗すぎる。今の時代、ここまで綺麗な海はこの地球に存在しないわ」
打ち寄せる波を触りながら、何かを思案するように呟くリナリア。
「……海が綺麗なのはいいことなんじゃないか……?」
「急激すぎる変化は毒以外の何者でもないわ」
お姉ちゃんを自称してはっちゃけていた先程までとはまるで異なる、知的で厳かな雰囲気。これこそがリナリアの本質なのだと気付き、将太はさっきまでの彼女の態度に底冷えする何かを感じた。
「これが、この海の怪獣の仕業だっていうのか?」
「ええ。とても信じられないでしょうけど、この海には怪獣がいる。………この星の言葉でより正確な表現をするのは少し難しいから、今は取り敢えず“そういうもの”だと理解してちょうだい」
ひたすら思考を巡らせるリナリアの片手間な説明を受けつつ、記憶のそれよりもずっと綺麗になった眼前の衣浦湾を見つめる。こんな美しい海に、怪獣が住んでいる―――とても信じられないし、いくらなんでも“普通”を逸脱しすぎだ、とも将太は思った。
しかし昨夜リナリアが自己の宇宙人の証明として見せたあの腕の変形を思えば、なんとなく怪獣もいそうな気がしてくる。何とも言えない高揚感と不安感で胸をいっぱいにしながら、将太はぎゅっとシャツの胸を握り締めた。
「…………さて。それじゃあそろそろ、説明するわ。私がどうして、この星に来たのかを」