薫香
とはいえ、学校には行かなくてはならない。特に行きたくもない場所ではあるが、それでも世間体というものもある。リナリアは「いいんじゃない? 行きたくないなら行かなくて」なんて言っていたが、期末試験を控えている以上、授業をサボるわけにはいかないのだ。
平日の朝特有の憂鬱な気分をなんとかこらえつつ、将太は重い足取りで学校へと向かっていった。
「さあて……今日も“普通”を頑張ってやるとしますかぁ……」
「おはよう振村。なぁなぁ、昨夜のテレビ見たか?」
「いやごめん、昨夜は塾から帰ってそのまま寝ちゃったんだ」
「よう振村、その傷どうしたんだ?」
「ちょっと転んじゃっただけだよ」
「おいふりむ……」
「ごめん、今朝はまだ眠いんだ。ちょっとそっとしといてくれ」
よそ行きの猫をかぶって芝居を打ちつつ、適当に付き合っているだけの学友たちと適当に話を合わせながら着席する。毎日この生活を続いているが、しかし周りの“普通”な人間たちに将太は心底愛想が尽きていた。
こいつらは、自分の愚かさ加減を自覚できないのか……?
目の前の席で談笑する男子の一団に冷ややかな視線を送りながら、眼前で繰り広げられる日常と昨夜の出会いを比較し、落胆していた。
宇宙からやって来た義理の姉、リナリア。まぁ、姉というのは彼女が勝手に自分をそう位置づけただけのものであるのだが。
ともあれ、“特別”である彼女に仲間として迎えられた以上、自分は既にこの“普通”な愚物たちとは違う、彼女と同じ“特別”な存在だ。
「――――俺は特別――――あいつらとは違う―――ふふっ」
心地の良い浮遊感。口元にうっすらと浮かべた愉悦の笑みを誰にも悟られぬよう、将太は静かに机につっぷした。
※※※※
そして流れるように時間が過ぎ、あっという間に放課後がやって来る。
窓の外の夕日は、ここのところ徐々に高くなっていく傾向にある。もうじき夏がやってくるのだ。クラスのほとんどの生徒も、皆夏服に衣替えしている。将太はぎりぎりまで衣替えを渋っているせいで、未だに間服なのだが。
「さぁ、てと……」
退屈な日常はこれでおしまい。今夜は熟も無いので、さっさと帰ることができる。目当てはもちろん、リナリアだ。
ぐいっと背筋を伸ばして全身の強張りをほぐし、音を立てずに静かに席を離れる。部活動の着替えをする男子生徒たちを躱しながら、将太は家路につくべく教室を出た。
「あ、あの………」
からりと戸を開けたところで、背中越しに控えめな呼び声がかかる。煩わしいので無視してもいいが、声の主はどうやら女生徒のようだ。リナリアのこともあって少々機嫌がいい将太は、柄にもなく相手をしてやることにした。
「はい? なんでしょう」
「すみません、教室に忘れ物をしてしまったんですけれど……」
もじもじとセーラー服のリボンをいじりながら、女生徒が小声でぼそぼそと話しかけてくる。しかしそんな態度とは裏腹に、少女はこちらを凄まじい目つきで睨んできていた。
「ヒッ」
その迫力に思わず上ずった声を上げて、すり足で後退る。だがその一秒後、将太は眼前の女生徒が別にこちらを睨んでいるわけではないことに気がついた。
「ああ、なんだ。吾亦紅さんか……」
吾亦紅唯。
三ヶ月前、転校してきたクラスメイト。切れ長なつり目と整った顔立ちが異様な迫力を演出しているのに加えて、多くない口数がことさらに不気味さと恐ろしさを加速させている残念な少女だ。
……しかし、それはあくまで“普通”のモノの見方。俺はちゃぁんとこの娘の良さに気づいてあげている。
そんな誰に向けるともない自慢を心中で吐露しながら、にこやかに微笑んで先程の痴態を無かったことにする。あくまでも紳士的に、スマイルを忘れないように。
「………ボ、ボクの顔、やっぱり怖いでしょうか……」
あ、しっかり傷つけてしまった。すんません。
「いや、そのっ、大丈夫! 俺は平気だからっ! 吾亦紅さんの可愛さはちゃんと分かってるから!」
「かっ、かわいさだなんて、そんな、ボクは……」
俯き、さらにもじもじと恥じらう唯。
……だが、言えない。
角度のせいでさらに恐ろしい顔になっていることなど、自称“特別”の将太にも、さすがに言えない。
「えっと、あ、忘れ物だっけ!?」
「ひゃんっ!? ぇあ、はい。教室で男の子たちが着替えてるから、入れなくって……」
「うん、了解。何を忘れたの?」
「体操服を……」
「あー分かった。ちょっと待っててねっ」
がーっと会話を締めくくり、逃げ込むようにして教室に戻る。………まずい、今の俺、めっちゃ普通だ。
「俺は特別……俺は特別……」
ぶつぶつと呟きながらパンパンと顔を叩いて、気持ちを切り替える。
特別な存在である振村将太は、常に相応の振る舞いをしなければならない。
クラスで浮いている女子がいるならば、その可愛さに気づく唯一無二の存在であらねばならぬのだ。
「……ぃよしっ」
体操服そのものは、すぐに見つかった。「吾亦紅」と書かれた花柄の可愛らしい袋が、彼女の机の横にぶら下げてあるからだ。
「……………」
想像以上に、いい匂いがする。
例えようのない、甘美な香り。十代の少女特有の甘酸っぱい青春の匂い。
………さすが俺。咄嗟の感想コメントも特別だ。
とはいえ、さすがにこうやって匂いを嗅いでいるわけにはいかない。教室内にはまだ男子生徒も残っているし、何よりも持ち主である吾亦紅唯が廊下で待っている。
「…………ふぅ」
でもこのまま手放してしまうのも惜しいので、最後に一嗅ぎ。
―――うむ。特別な俺にふさわしい、芳醇な香りだ。