事実
チュンチュンと、窓の外から小鳥のさえずりが聞こえてくる。そんな清々しい朝の中にあって、しかし吾亦紅雅史は険しい顔つきでヨロヨロと道を彷徨うように歩いていた。目的地は自宅。もちろん朝帰りなど尋常ではないが、刑事である彼にとっては致し方のないことである。
「ただいま」
「おかえりなさい」
美人の女房に出迎えられ、無愛想にのそのそと玄関にあがる雅史。だが、少し休憩したらまた捜査に出かけなければならないので、普段と違って背広を脱いだりはしない。
「唯はもう起きてるか?」
「ええ。さっきまでそこでテレビを見ていましたよ」
「そうか。……いつもすまんな」
「いつものことですから」
吾亦紅夫妻の関係性は、どこか全時代的で、昭和の匂いを感じさせるような間柄である。だが、そんな古臭くも愛に満ちたお互いの関係を、雅史は心地よく感じていた。
階段を登ったすぐ右にある扉の前で立ち止まり、骨ばった拳でコンコンと軽くノックをする。
「唯」
「お父さん………? どうぞ」
ノックとともに娘の名を呼ぶと、一秒ほどの感覚を開けて中から愛娘が顔を覗かせた。我が娘ながら美人であるが、同時に威圧的な顔立ちである。
「ただいま、唯。ところでこの前の怪獣騒ぎだが……」
「うん……すっごくびっくりした。ここからでも見えたし」
ソファに並んで腰掛けながら、ゆったりとくつろいで会話を進める。刑事の仕事も大変だが、こうして娘とゆっくり話をするというのは彼にとっては何より大切な時間なのだ。
「それのことなんだがな、唯。お前、ああいうの好きだろう? ホレ、ユーモとかいう……」
「UMAだよお父さん。それで、ボクにそれについて調べろって?」
「そうは言わんがな……。ああいうどデカイ化け物が現れるっていうのは、過去に前例があるものなのかと思ってな」
「そりゃ、たくさんあるよ。………これを見て」
自らの得意分野に話を振られたからか、待ってましたとばかりに目を輝かせて唯が自分のスマホを差し出す。年齢とともに衰えてきた視力をフル活用して、雅史が何とかスマホの画面に焦点を合わせると、そこには複数の画像が並列されていた。
「こりゃ………! 浜に現れた紫色の巨人じゃねえか!」
並べられた画像群の共通項―――それは、どの画像にもあの夜目撃した紫紺の巨人が写っていることだった。
「うん。あの巨人といい怪獣といい、実はその筋では結構有名でさ。1995年、日本海沖の無人島に突然現れてからというものの、世界中の至るところで何度も目撃されてるんだ。確認されてるだけでも10件以上。未確認を含めたら、20件以上は確実なんじゃないかってネットじゃ噂になってるよ」
「……………なんてこった」
ため息と共に驚嘆の念を吐き出しながら、雅史は後退した生え際をガリガリと掻き毟る。まさかこの年になって、こんな事件に出会うとは思っていなかったのだ。
「こんなことが、現実にあるってのかよ……」
「まぁ、お父さんは警察官だから、こういうオカルト記事を安易に鵜呑みにしちゃダメだとは思うけど……。参考にはなったかな?」
「まぁな。………ったく、こうなっちまったら俺みたいなのには本当に出番がねえな」
人間の起こす事件ならまだしも、このようなオカルト事件が相手では、一切の手の出しようが無いではないか。無力な自分に内心で悪態をつきながら、雅史はやれやれとソファに身を沈ませた。
※※※※
「局長、リナリアが家を出ました」
「引き続きモニターしておきなさい。関係各所への根回しも忘れるな」
薄暗い車内で無数のディスプレイに囲まれながら、真藍玲子が忙しそうに手を動かしながら部下の報告に応える。カタカタという静かなタイピング音が断続的に鳴り続ける中で、薄暗いブルーライトがいかにも穏やかではない雰囲気を飾り立てるが、それを気に留める者はこの車内には存在しない。
車窓の向こうに見えるはずの景色も、無機質な地下駐車場の壁が覆い隠してしまっている。無論、このような薄暗い場所に閉じこもっているのには理由がある。《デュナミス》という常識を超えた人類の敵を相手に戦う秘密組織である彼女たちには、こういった目立たない場所の方が都合がいいのだ。
ニード・トゥ・ノウの原則―――この地下駐車場の場所を知る数少ない関係者も、ここが玲子たちの前線基地として利用されていることも、それどころか、誰が利用しているかということすら露ほども知らない。予め吹き込まれたカバーストーリーに従って、駐車場を開放しているだけに過ぎないのである。
徹底した秘密主義と、それを保ちつつ全世界に広げたネットワーク……それが、真藍玲子の組織の持つ最大の強みであった。