廬山
――――長い夜が明けた。
市民の避難誘導の次に与えられた周辺警備と露払いの任務を果たすべく、(不機嫌そうな表情を浮かべながらも)雅史は同僚たちとともに現場から少し離れた駐車場で慄然と並んで突っ立っていた。
昨晩の怪獣騒ぎですっかり賑わったこの町には、ネットや口コミで噂を聞きつけた有象無象の観光客で賑わいつつある。まだあの夜から十時間と経っていないというのに、随分な情報の早さだ。
雅史を含め、所轄の刑事たちはこの件からほぼ外された。そのため彼らの仕事といえば、こうしてうじゃうじゃと湧いてくる野次馬たちを現場に近づかせないようにすることだけ。不眠不休の労働に、軽く四十を超えた雅史の身体は既に悲鳴をあげていた。
「ふぅ…………」
とはいえ、だ。
今はブルーシートで覆われてはいるが、怪獣だった“それ”は、まるで卵のような形状に硬化し、その上道路に癒着している。こっそり聞いた話では、どうやら構成物質のレベルで道路と怪獣は完全に癒着してしまっているらしい。昨夜あんなに生物的な挙動を見せていたというのに、現在では完全に無機物のそれである。せっかくやって来た本庁の捜査官たちも、先程から伺う限り、すっかり頭を抱えてしまっている様子だった。
「ったくよ。ひでえ事案に巻き込まれちまったぜ。橋消失の一件の捜査に来たハズが、まさか怪獣を相手にするとは思ってなかった。不思議……というよりむしろ、“理不尽”とでも言うべきだな」
「ええ。………でも、本当に理不尽なのは、あの巨人の方ですよ。ドロドロに溶けたかと思ったら、そのまま染み込んでいっちまいましたもん。捜査も何もできたもんじゃない」
「アスファルトに染み込む液体、なんて聞いたことねえけどな。まぁ、俺らの知らねえ特殊な何かで構成されてるとか、そういうことなんだろ」
無理矢理にでも納得しなければ、頭がどうにかなりそうだ。そんな思いを苦笑いに滲ませて、雅史はぼりぼりと後頭部を掻き毟った。
「………で、あの連中はその“何か”の専門家ってことっすかね」
「見るな。いらない好奇心は寿命を縮めるぞ」
傍らの若手刑事が訝しげに見つめる視線の先。そこには、ブルーシートをまくって中を覗く、スーツ姿の怪しげな集団の姿があった。現場の捜査官たちも、特に彼らの調査を阻む様子はない。どうやら本庁の刑事でさえ介入できない、特殊なセクションの人間のようだ。
「………あの連中………まさか、防衛庁? ………まさか国連ってことはないよな」
いささか発想が突飛だが、それをバカな妄想だと言い切れないあたり恐ろしい。何せ、そのバカな妄想の極地とも言うべき存在と昨夜雅史たちは対峙しているのだ。
「………かもな。ま、俺たちにゃあ知ったところでどうしようもねぇだろ」
―――沈黙した怪獣、消えた巨人。そして事件現場に介入してきた謎の集団。
気がかりなことは沢山ある。だがしかし、吾亦紅雅史にそれらを究明しようとする意思は無い。それは、ノンキャリ刑事である彼の領分を遥かに超えた事柄であるし、なによりこの事件に対するこだわりもなにも無い。彼にとって大切なことは、愛娘の唯を始めとした、この町で暮らす大切な人たちの安全だ。ゆえに、積極的にこの事件に携わっていく理由が彼にはないのである。
そう。少なくとも今は、まだ。
※※※※
―――――懐かしい匂いがする。
覚醒途中の朦朧とした意識の中で将太が最初に感じたのは、そのどこか懐かしい匂いだった。
だがそれは、将太にとって良いモノでは無い。むしろ、過去の辛い記憶の引き金になりかねないものだ。
―――怒り狂う父、皿の割れる音、ヒステリックな母の声、容赦なく踏みにじられる、子供じみた無根拠な信頼と愛情―――
夢と現が混濁した意識の世界で、過去のフラッシュバックが走馬灯のように流れては消える。明滅する情景の中、将太は無意識の涙を流していた。
「………可哀想」
薄暗い車両の中、簡易ベッドに寝かされた将太の汗ばんだ額をそっと冷たい手で撫でながら、リナリアが静かに呟く。スーツ姿の大人たちがパソコンやタブレットに向かって各々の作業を進める傍ら、この姉弟だけが別の世界に存在しているかのようだった。
「意識の回復はまだ?」
リナリアの肩ごしに、齢四十歳ほどの女性が声をかけてくる。凛とした女の声は、それだけで凡夫ならば震え上がってしまうような鋭さと厳しさが滲んでおり、その口調もまた、酷く冷血な印象を覗かせるものだ。リナリアはそんな女の呼びかけに対し、外見相応の女の子らしさの少し薄まったやや事務的な表情で振り向いた。
「…………それは、任務として?」
意味深な響きを持った、リナリアの問いかけ。だが、女は意に介した様子もなく、無造作に即答した。
「それ以外に、何が?」
「……………そうね。あなたはそういう人だったわね、玲子」