第九話
――あれは、いつの頃だっただろうか――
少なくとも九年前、シャロンがまだ医学生として首都で暮らしていた時か。
当時のシャロンは猛勉強の末、この国有数の名門大学へ奨学生として入学し、高名な医学博士レズモンドの愛娘マーガレットと婚約していた。
いくら成績優秀な医学生とはいえ、所詮は地方都市の中流家庭出身ではせいぜい町医者として働くことくらいしか叶わない。
シャロンがしたいことは阿片の危険性を世に広めるためであって、研究及び、その研究を纏めた論文を医学界の重鎮達に認めてもらえなければならない。
どんなに素晴らしい研究結果を論文にしたためたとしても、上流階級出身者がほとんどを占める医学界では、若輩者なのに加えて中流出身のシャロンなどまず相手にされないだろう。
そのためには、有力な後ろ盾が必要となる。
そこでシャロンは、同じ大学の文学部に通うマーガレットに近づいた。
マーガレットはアッシュブロンドの巻き毛と深いグリーンの瞳が美しい女性で、上流階級の令嬢にありがちな我が儘で高慢な女だったが世間知らずな所があった。
お蔭で、早熟で女の扱いに手馴れているシャロンにとっては赤子の手を捻るよりも簡単に籠絡でき、上手い事婚約にまで漕ぎつけることが出来た。
彼女の父レズモンド博士にも気に入られ、あとは無事に大学を卒業し、医師国家免許を取得するのみである。
これまでの血の滲むような努力は決して無駄ではなかったし、順風満帆に物事が進んでいる。
そう、「いずれレズモンド家の娘婿となるのだから、遠慮はいらないぞ」という博士の言葉に甘え、レズモンド家に長期滞在し始めたシャロンが広大過ぎる屋敷の中で迷っていた際、貧血により廊下の隅で倒れていた、一人の少女を見つけてしまうまでは――
慌てて少女の傍に駆け寄ったシャロンは、その病的なまでの身体の細さと顔色の悪さに愕然となった。
身に付けている寝間着の質の良さからして上流階級の娘だろうが、下手な浮浪孤児なんかよりもずっと不健康そうだったからだ。
そもそも、レズモンド家の娘はマーガレットただ一人であるが、この少女は一体何者なのだろうか。
親戚の娘か何かか??
シャロンの脳裏に、ふと一つの噂が過ぎった。
『レズモンド博士にはマーガレットの他に、もう一人娘がいる。しかし、彼が愛してやまなかった妻が、その娘を命と引き換えに産んだことで娘に憎しみを抱いており、屋敷に幽閉し、存在をひた隠しにしている』という噂。
レズモンド博士は人柄の良さにも定評があり、人望もすこぶる厚い人物ゆえ、彼に嫉妬する愚かな輩による、根も葉もない噂だとシャロンは聞き流していた。
何より、博士からもマーガレットからも、そのような娘がいるなどという話を聞かされたことが一度たりともなかった。
しかし、この少女が何者か探ることよりも、介抱する方が先決だ。
シャロンは少女の半身をそっと抱き起こした。すると、少女はゆっくりと目を開き、意識を取り戻した。
「――!!――」
シャロンと目が合うと、少女はたちまち身体をガチガチに強張らせ、すっかり萎縮してしまう。心なしか、身体が小刻みに震えている。
「ご無礼をお許しください、リトル・レディ。倒れていた貴女をどうしても見過ごすことが出来ず、やむを得ずお身体に触れてしまいました。起き上がることはできますか??」
少女はシャロンに怯えながらも小さく頷き、立ち上がろうとするが、まだ頭がふらふらとするのか足元が何とも覚束ない。
余りの危なっかしさに見兼ねたシャロンが、「失礼」と少女の身体を軽々と抱き上げた。
「度重なるご無礼、お許しを。ただ、無理を押して歩くよりも、こうして私が抱えた方が手っ取り早いと思った所存です。このまま貴女をお部屋へお送りしたいので、案内していただけないでしょうか??」
少女は恐怖よりも驚きの方が勝ったのか、間の抜けた顔でシャロンを無言で見つめていたが、やがてぼそぼそと小さな声で自室の場所を教えてくれた。
少女を抱きかかえながら、部屋へと連れて行く。
少女の部屋は同じ階の最奥にあり、日当たりの悪さにより、昼間にも関わらず暗く陰鬱な雰囲気を醸し出している上に、人目に付きづらい場所だった。
噂通り、彼女はもしかしたら幽閉されている博士の娘なのだろうか??
「……あ、あの……、どなたか知りませんが……、……ありがとう、ございます……」
だらしなく伸び切った灰色の髪の下に埋もれている、同じ色の瞳でシャロンをおずおずと見上げながら、少女は礼を述べる。
「いえいえ、お気になさらずに」
そう言って、シャロンが少女を床に降ろした時だった。
「そこで何をしているの!?」
聞き慣れた、やけに甲高い金切り声が、シャロンの背中に向けて飛ばされてきた。
この声はマーガレットのものに違いない。
振り返って姿を確認すると、やはりマーガレットだ。
マーガレットは、つかつかとわざとらしく大きな音を立ててシャロンと少女に近づき、シャロンが何か言い掛けるよりも早く、手にしていた扇子で少女を思い切り打ち据える。
「マーガレット!何をするんだ!!」
「シャロンは黙っていて頂戴!!」
すかさず止めに入ったシャロンを一喝すると、マーガレットは少女を扇子で打ち続け、少女は「ごめんなさい、ごめんなさい……」とひたすら繰り返し、蹲りながらすすり泣いている。
目の前で繰り広げられる、婚約者の鬼女のごとき恐ろしい剣幕に、シャロンはただ茫然と成り行きを見守るより他がなかった。
マーガレットは扇子が折れるまで少女を打ち続けた後、「アッシュ、二度と私のシャロンに近づかない頂戴。分かったわね!?」と、蹲ったまま身体をガタガタと震わせている少女に折れた扇子を投げつけると、「貴方も、あんな子を構ったりしないでほしくてよ」とシャロンにも鋭く釘を刺す。
「マーガレット……、彼女は、一体……」
「あら、そう言えば話していなかったわね。まぁ、私やお父様からしたら目障りで仕方ないから、出来ることなら話題にも出したくないのよ」
「もしかして……、噂で流れている、博士のもう一人の娘、なのか??」
マーガレットは忌々しげに美しい顔を醜く歪めた後、さも嫌そうに「えぇ、そうよ。最も、あんな子、実の妹とすら思いたくないのだけど」と、冷たく答えた。
「……何故だ??」
「だって、あの子を産んだせいでお母様は死んでしまったのよ??私とお父様は、お母様のことを心から愛していたのに……、それをあの子が永久に私達から奪ったの。だから、私はあの子、アッシュが憎くて堪らない。お父様も同様に、あの子を憎んでいるわ。アッシュと言う名も、死を連想させるから、異国では死んだ人間を火葬にして灰にしてしまうことから、お父様がそう名付けたのよ。忌まわしいばかりのあの子によく合っていると思わない??」
何が可笑しいのか、クスクスと一人愉快そうに笑うマーガレットを、シャロンは言葉も文化も相容れることが到底出来ない、別の世界の人間を見ているような目でただ眺めることしかできなかった。
これが、シャロンとグレッチェンの初めての出会いであったーー。