Back To Black (16)
今回短いです。
(1)
何度目かに飛んできたミドルキックを両腕で受け止め、がっちりしがみつく。
モーティマーの動きに目が慣れてきた反面、体力は削がれる一方、躱す動きも自然鈍ってくる。まともに蹴りを食らえば辺り具合ではどこかしらの骨折は免れない。ならば、せめて、ディヴィッドが攻撃する隙を僅かでも作らねば。
自らの太い脚に固くしがみつくハルを蹴落とそうと、脚を大きく振り上げたモーティマーの後頭部にディヴィッドのハイキックが直撃した。大きく傾ぐ巨体、低くなった頭の位置。その隙を逃さず、ディヴィッドはモーティマーの脳天に思いきり踵を落とす。
モーティマーの口からぐげっ!という呻き声が漏れ、汚れた床の上で膝から崩れ落ちる。仰向けに倒れていくモーティマーの脚を離すのが半瞬遅れたせいで、ハルもまた床へ落ちていく。全身をしたたかに打ち、低く呻きながらも即座に起き上がる。
「おーい、誰かカウント取ってくんなーい??」
「僕がやる」
見物客の輪から再び抜け出したジョゼが三人の傍らに立った。
モーティマーは小刻みに全身を震わせ、白目を剥いて涎と共に泡を吹いている。辛うじて意識こそ手放していないが、立ち上がる気配は一向にない。
ゆっくりと10数えるジョゼの声を聞きながら、打ち所が悪かったんじゃないよな、と気にしている間に勝負はついた。
「俺達の勝ちだ。賭けに勝った奴も負けた奴もさっさと全員出て行け」
勝敗が決まった瞬間、一気に騒がしさが増した室内にハルの言葉が響く。
反発する声が目立ったが、口で文句を言うだけで実際にハル達へ向かっていく者は誰一人いない。それどころか、一人、二人……と扉を開け、悪態つきつつ退散していく。
「ハロルドもさぁー、もう帰ってもいいぜぇ。てゆーか、ここからは俺達の仕事だから」
「あん??」
観客が0になったところでディヴィッドから、ハルまでまさかの退場を促された。
つい不服げな返事をしてしまったが、言われてみれば、これ以上ハルが彼らに協力できることなどない気がする。
「わかったわかった、用無しはとっとと帰るわ」
「悪ぃねぇー」
「本当に悪いと思ってるなら相応の報酬はちゃんとくれ。タダ働きはゴメンだぞ」
「はいよー、報酬ならあとでたっぷり払ってやっから、そこはちゃんと安心してなぁ」
「当たり前だ」
がらんとした室内の隅に押しやられた、年季の入ってそうな長机に置いたシャツを手早く身に着ける。上着はどうにも着る気になれず、腕にかける。
「あ、そうだ」
「今度は何だよ」
「これさぁ、適当に帰り道に捨ててきてくんないー??」
ネクタイを雑に上着のポケットに押し込んでいると、ディヴィッドがハルに向かって何やら放り投げてきた。それも二回。一つは受け取れたものの、思っていた以上にずっしりと重く数瞬動きが止まる。その間に投げられ、受け取り損ねたブツは重そうな音で落下した。
「おい、なんで革靴がこんなに重いんだよ??」
ハルの両手に収まっているのは、靴底がやや厚く、先が細く尖っている黒い革靴だった。
「靴底に鉄か鉛でも仕込んでるのか??」
「あぁ、まぁ、そんなとこー」
「……どうりで、踵落としだけでこいつを落とせた訳か」
それって、ルール違反じゃないか??と思いながら、あえて追及はしない。説明時に武器や暗器は禁止されたが、仕込み靴が駄目だとは聞いていないから、よかったことにしてまえばいい。
見た目よりはるかに重たい革靴を手の中で弄んでいると、靴本体から靴底がパカッと開く。
「なっ??これじゃ靴としての機能がヤバいだろぉ??」
「知るか、自分で捨ててこい」
「え、めんどくせぇ」
「めんどくせぇじゃねぇ」
呆れ果てる余り、ディヴィッドの足元に靴を投げ返してやった。自らの足元に転がるもう片方も同じように投げ返す。
「じゃあな。報酬、絶対忘れるなよ」
大事なことなので何度でも、何度でもくどいくらいに念を押しておかねば。
壊れた革靴をもう一度投げ返される前に、口早にそう告げると、ハルはディヴィッド達を置いてクック・ロビンを後にしたのだった。
(2)
グレッチェンの首筋からナイフがほんの少しだけ遠ざけられた――が、油断は禁物だ。
むしろ事態は益々緊迫しているし、正直、宛がわれたナイフよりシャロンの静かな狂気の方がグレッチェンには余程恐ろしい。ミルドレッドも悪魔を見るような目でシャロンに怯えているし、ハーロウも完全に気圧されていた。当のシャロンは三人の恐怖などまるで感じていないのか、見開いた目と薄く笑う唇で話を続けていた。
「犯罪組織の頭目ともあろう者がつまらない噂を信じるとは。私達への風評被害も甚だしい」
「……では、お伺いしますが、『銀の鎖』のウォルター・ケインについて、貴方はご存知なのでは??」
グレッチェンの心臓が大きく跳ね上がる。辛うじて平静を装ったが、先程までの動揺が収まりつつあるハーロウに決して気付かれてはならない。
「いや??知らないな」
「ケイン氏は私の知人でしてね。数年前、彼の屋敷が派手な銃撃戦の後、爆破されたのです」
「あぁ……、そう言えば、新聞でそのような記事を見た覚えがあるような」
「ちなみに、その事件にはサリンジャー一家が関わっていたそうでして。そのせいでしょうか、ケイン氏は銃撃や爆破に巻き込まれたせいではなく、その前に心臓麻痺で死んでいました」
「そのケイン氏とやらのこと、やけに詳しいな」
「えぇ、彼もまた党員でしたから」
ハーロウは再びグレッチェンの首筋にナイフをぐっと近づける。刃は皮膚に触れるか触れないか、すれすれの位置へ。
ナイフで薄皮一枚分程度切ってくれれば、付着した血液を使って――、だが、グレッチェンの思惑通りに進む筈もなく、ハーロウは微妙な位置でナイフを止めたままでいる。
いっそのこと、自らナイフに首を押し当ててやろうか、などと物騒な考えが過ぎる。実行しようかどうかと迷う間にもハーロウとシャロンの対話は続いていた。
「ディヴィッド・サリンジャーとも懇意にしているのは、ケイン氏殺害始め、彼らの暗殺業に貴方達の毒を提供しているからでしょう……」
ハーロウが皆まで言わぬうちに、シャロンはぷっと噴き出し、今度こそはっきりと冷笑を浮かべた。
「証拠もないのに憶測を語るとはね……、存外無能なんだな。犯罪組織の頭が聞いて呆れる」
「ケイン氏は殺害された夜、サリンジャー一家繋がりの二人の男娼を屋敷に呼び寄せていたと、当時屋敷にいた使用人が証言していまして。しかし、その証言はサリンジャー一家によって揉み消された。ちなみに使用人から聞いた男娼の内一人の特徴が、貴方に似ている気がしてですね」
「これもまた憶測の域を出ていないじゃないか。いや、憶測と言うより最早妄想の域だな」
柔らかな物腰をかなぐり捨て、ことあるごとに挑発的な返しをするシャロンに、再び大きな不安に駆られる。お蔭で、先程浮かんだ物騒な考えは一瞬で消し飛んだが、どちらにせよ状況は何一つ変わっていない。ハーロウが突きつける事実にしらを通し切れるのか。
「そんなことよりも……、最後にもう一度だけ言う、グレッチェンを――」
膝の上でずっと組まれていたシャロンの指が解かれ、右手が膝から離れた時だった。




