第八話
その後、すぐに広場を去ったグレッチェンは足早に歓楽街へ向かった。
夜通し賑わっていたとは思えない程、朝の歓楽街は静寂に支配されている。
行き交う人々もまばらにしか歩いていない表通りを歩き続け、店の前に辿り着く。
扉を開け、中に一歩を足を踏み入れたグレッチェンの目に、信じられない光景が飛び込んできた。
いつもなら開店間際にしか店先に現れない(ひどい時には昨日のように、グレッチェンが起こしにくるまで寝ていることも)シャロンが、棚に新しい薬品を陳列していたからだ。
「おや、まるで鳩が豆鉄砲食らったような顔だな」
驚きの余り、口を半開きにさせて目を真ん丸く拡げるグレッチェンの姿が可笑しいのか、シャロンはククッと小さく笑い声を漏らす。
「……明日は雪でも降りますね……」
「おいおい、今はまだ初秋だぞ??せめて雨くらいにとどめておいてくれ」
「シャロンさんが私よりも先に店に入るのは、それぐらい珍しいってことです」
「私だって、たまには早く起きることがあるさ」
表情こそ元気そうだが、シャロンのダークブラウンの瞳には明らかに疲れの色が見えていて、下瞼には薄っすらと青い隈までが浮かんでいる。
「……もしかして、また徹夜されたのですか??」
「あぁ。この間手に入れた、ここから遥か遠い、東方にある異国の医学書を読んでいた。が……」
シャロンは次の言葉を続けることを躊躇ったが、気まずそうに告げた。
「……結局、今回も収穫はなしだったよ。……すまない、グレッチェン」
グレッチェンは目を伏せながら、ゆっくりと首を横に振った後、シャロンに力無く微笑む。
「気になさらないで下さい。それよりも、身体を壊されては元も子もありませんから、睡眠は充分に摂って下さい」
「……うむ、そうだな。ただ、私としては、君が子を産めない年齢になってしまう前には、何としても君の身体を治す術を見つけたいんだ」
「……ありがとうございます」
シャロンに向かって軽く頭を下げると、「さ、無駄話は程々にして、準備をしなければ……」と、彼に倣い、グレッチェンも薬品を棚に並べ始めたのであった。
開店準備を終えるとやがて午後十二時となり、グレッチェンは店の表口の鍵を外し、『薬屋マクレガー』と書かれた立て看板を外へと出した。
これもまたいつものことだが、開店してから二、三時間は客がほとんど訪れず、大体暇を持て余している。
「シャロンさん。店番は私一人で出来ますし、二時間くらいであれば仮眠を取ってきても構いませんよ」
今度はシャロンの方が、鳩に豆鉄砲を食らったような顔をする番だった。
「……ど、どうしたんだね。君が私に優しい言葉を掛けてくるなんて、それこそ明日、いや、今日にでも雪が降るんじゃ……」
気味の悪いものでも見るように、シャロンはグレッチェンを見つめた。
「失礼な……。私のことを悪魔みたいな女とでも思っているのですか」
グレッチェンはいささか気分を害し、シャロンを軽く睨み返す。
「いや、そういう訳では……」
慌てて言い繕おうとするシャロンを尚も睨み続けるグレッチェンだったが、「……なんて、冗談です」と、すぐに表情を緩めた
「私のために徹夜で研究をしてくれていたのですから、労わるのは当然でしょう??」
「……そういうことなら、君の言葉に甘えさせてもらおうかな。すまないが……、二時間経ったら起こしに来てくれ」
「分かりました」
そう言って、シャロンが一旦店先から奥の部屋へ行こうと、ドアノブに手を掛けようとした時だった。
白髪頭を大きな玉葱のようなポンパドゥール風に纏め、仕立ては良いが古臭いドレスを着た一人の老女が店に入ってきた。
「シャロン、カンタリスをおくれ」
老女はグレッチェンには見向きもせず、カウンターに背を向けた形でいるシャロンに声を掛ける。
「これはこれは、マージョリー婆さんじゃないですか」
シャロンはすぐさま笑顔で振り返る。
「カンタリスをお求めになるとは、いやはや貴女もまだまだお元気でいらっしゃる」
カンタリスとは媚薬の一種だ。
どう見繕っても六十歳はゆうに越えているマージョリーが、媚薬を欲しがるとは……、一体何を目的に使うんだ。シャロンは内心下世話な好奇心を抱いたが、一切おくびには出さずにマージョリーの相手を続ける。
「カンタリスとなると散薬なので、散薬は奥の部屋に置いてあるんです。グレッチェンに取りに行かせますから、何包必要か教えていただけますか??」
マージョリーは考え込むと、「今日は二包おくれ」とシャロンに伝える。
マージョリーの言葉に従い、グレッチェンは奥の部屋へ薬を取りに行く。
「お待たせいたしました」
三角に折り畳んだ、半透明の包み紙を二つ、マージョリーに差し出す。
薬を受け取ったマージョリーはご機嫌になり、シャロンに代金を渡しながら彼と世間話を交わしている。
「シャロン、景気はどうだい??」
「まぁ、ぼちぼちですかね」
「そりゃあ何よりさね。近頃じゃ不景気が祟って、失業者が増え続けている。失業者が増えれば、それだけ浮浪者や犯罪も増える。おまけに、クロムウェル党の連中による犯罪が多発しているし。あいつら、ちょっと前まではケチな小悪党集団でしかなかったのに、上流出身とかいうハーロウ・アルバーンが頭になった途端、一気に凶悪化しちまって……。ったく、男爵様ももう少し、街の治安を良くしてくれないかねぇ」
男爵様とは、この街を二百年以上にわたり統治している、ファインズ家の現当主、ダドリー・R・ファインズのことである。
「でも、ファインズ男爵様もそれなりに、この街の統治に尽力していると思いますよ」
「そうかねぇ??」
マージョリーは、男爵への不信感を露わにさせながらも、「じゃ、また来るよ」と店を後にしようとしたが、すぐにまた思い出したようにシャロンに告げた。
「犯罪で思い出したんだけど……、今朝方、ドハーティの店の娼婦がヨーク河で溺死していたそうだよ」
即座にグレッチェンの表情が凍り付き、反射的にマージョリーに問い詰めようとしかけたが、それより早くシャロンが「そりゃ気の毒に……。婆さんも知っている女なんですか??」と、尋ねた。
直後、マージョリーには気付かれないよう、(……君は黙っているんだ。私が上手く話しを聞き出す)と、目線を使って制されてしまった。
「顔見知り程度になら知っているよ。シルビアっていう、三十半ばくらいで、栗毛で尖った鉤鼻が目立つ女だ。大方、過酷すぎる仕事と劣悪な環境に耐え切れなくなって、ヨーク河に身投げしたのかもしれない」
本心からか、はたまた演技なのかは分からないが、マージョリーはさも悲しそうに表情を沈ませ、大仰な音を立てて鼻を啜ってみせた。
そんなマージョリーの姿をどこか冷めた目で眺めつつ、再びグレッチェンの脳裏ではシルビアの顔と彼女の息子の顔が、点滅しながら交互に映し出された。まるで、グレッチェンを無言で責め立てでもするかのように。